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土地請負経営権の設立とその内容

第三章 集団所有土地利用の内容とその法的関係

第一節 集団所有土地利用の内容

一 土地請負経営権の設立とその内容

農村土地請負経営制の施行は中国農村土地所有権制度の重大な変革である。土地請 負経営制により、集団所有土地の所有権と使用権の分離が実現される。土地請負経営 制においても、農村土地の所有権が集団経済組織に帰属するということは変わらなか った。ただし、土地の使用権は農戸または家庭に帰属することとなった。このように、

所有権と使用権の分離が実現される。請負経営制に対し、中央政府の政策・方針は何 度の変化があった。中央政府の立場は「許さない」から「例外のみを許可する」、「一 定の範囲で許可する」「全面的に推進する」という過程を経過した。その後、民法通則、

土地管理法、農村土地請負法、物権法などの法律により、土地請負経営権に関する規 定は次第に整えられている。以下、土地請負経営権の設立とその内容を概観する。

まず、土地請負経営権の設立過程を概観する。通説によると、土地請負経営制度は 1978 年、安徽鳳陽県にある小崗村生産隊から始まった。実際には、1956 年から 1976 年までの 20 年間に、中国では概ね三回の「包産到戸」が実施された317。しかし、「包産

3171956 年、社会主義的改造が完成された後、中国共産党は社会主義の発展道筋を探索し始めた。その 中、浙江永嘉、広西環江、安徽蕪湖、四川江津、広東中山と順徳県などの地区では「包産到戸」を実 施し始めた。「包産到戸」とは、農民は集団から土地を請負って、請負土地からの収穫物を農民集団 に供出するが、一定量を超える部分が農民集団から再分配を受けることができる制度である。これら の地方の農民は高級農業合作社を設立したが、ただ共同経営をしなかった。一定の数量の農産物を上 納して、残るものは自分に帰属した。しかし、中国共産党中央委員会は 1957 年から「包産到戸」が 資本主義の性質を持って、社会主義の経済発展を妨げるなどの理由で、「包産到戸」の実施を禁止し 始めた(範曉春『改革開放前的包産到戸』(中共党史出版社・2009 年)186-187 頁)

1959 年、河南、湖北などの省で第二回目の「包産到戸」の実施が開始した。1959 年が中国全国範

到戸」が資本主義の性質を持っていること、社会主義の経済発展を妨げることなどを 理由として、すべてが中央政府の禁令にさらされ、貫徹することができなかった。そ の後、中央政府も「包産到戸」を厳しく批判した。結局、「包産到戸」はすべて中央政 府の禁令に遭って成功しなかった318。1970 年代末、中国国内の情勢が大きく変わった319。 特に、1976 年毛沢東逝去後、中国の社会を支配していた彼の思想が弱くなり、新制度 を検討・実施する可能性が生じた。このような背景に、各地は新制度の実施により農 村経済を発展しようとした320。きっかけとなるのは 1978 年安徽省鳳陽県小崗村が生産 責任制を実行することである321。その後、生産責任制を実施するか、それとも、人民公 社制を維持するかについて激しい論争が展開された322。結局、1983 年 1 月、中国共産 囲内で深刻な食糧不足にあった。中央政府は各地が食料生産量をできる限り高めることを要求した。

河南、湖北などの省で生産責任制を探索し、請負経営制を実行した。しかし、党内では意見が一致せ ず、1959 年 7 月 14 日廬山会議後、反右傾闘争が起された。政府は資本主義に反対し、資本主義の復 辟を防止することなどを呼掛けていた。「包産到戸」は資本主義的な要素を持っているため、すべて が中央政府の禁令に遭った(範曉春『改革開放前的包産到戸』240-246 頁)

更に、1961 年-1962 年の間に、第三回目の「包産到戸」の実践が開始され、全国の 20%の生産隊 に広げられた。しかし、当時、複雑な国際と国内情勢にあって、毛沢東は中国階級闘争の情勢に関す る判断が深刻な失策を生じて、「包産到戸」が人民公社体制と矛盾し、資本主義の復辟であると判断 した。毛沢東は中国当時の最高指導者として、彼の判断は重要な影響力があった。従って、1962 年 8 月 6 日の中央政治局の会議で「包産到戸」は批判された(範曉春『改革開放前的包産到戸』255-267 頁)

318それにもかかわらず、「包産到戸」は完全に禁止されず、少数の地方で依然として「包産到戸」が 存在していた。特に、文化大革命に入り、中国は混乱の状態に陥って、「包産到戸」を実行すること が可能となり、雲南、貴州、福建、江西、広東などの地区で「包産到戸」が存在していた(丁関良『集 体地権流転法律創新制度研究』(中国農業出版社・2002 年)124 頁-125 頁)

3191976 年、毛沢東の死去などがあり、その直後に四人組が失脚し、文化大革命は終息した。文化大革 命は終息した後、非常に重要なのは土地政策を安定することである。農村の安定が図られるよう、19 78 年に、中央政府は 1959 年以来の「三級の所有」の体制を継続して維持しようと強調し、12 月の「農 村人民公社工作章程(試行草案)」では「包産到戸」のように、集団土地を各農戸に分配することを 明確に禁止する(中共十一届三中全会「農村人民公社工作条例」1978 年 12 月)

320人民公社を実行する 20 年は中国農業の発展が最も遅い 20 年である。人民公社という制度はきわめ て低い効率と農民利益の損害を引き起こした。農業の生産効率を高めることは早急に解決するべき重 要な問題であった。農村経済を発展するために、農地制度の改革は必要となった(李行・温鉄軍「中 国 60 年農村土地制度変遷」科学対社会的影響 2009 年第 3 期 40 頁)

321小崗村のある安徽省鳳陽県は、交通が不便で、中国の貧困地区として知られた。食糧が足らず、深 刻な問題になってきた。1978 年末、小崗村生産隊の 18 人の農民は、厳俊昌・生産隊長、厳宏昌・副 生産隊長の召集で集会を開き、農地を分け、戸別請負制を決定した。翌年から小崗村は巨大な変化が 発生した。小崗村は家庭請負経営制を実施す初年、食糧の生産量は 13.3 万斤を実現し、これは 1955 から 1970 年までの食糧生産量の総和に相当する。油の原料の生産量も 3.5 万斤に達し、これは過去 2 0 年間の生産量の総和に相当する。また、1979 年一人当たりの収入は 400 元であって、これは 1978 年の収入の 18 倍である(「厳宏昌 吹響農村改革的号角」人民日報 2011 年 7 月 1 日第 14、16 版)

322 1979 年 3 月 12 日-24 日、国家農業委員会は、農村工作会議を開かれ、「包産到戸」などのような 生産責任制が実行できるかどうかを討論した。しかし、会議中の 3 月 15 日、人民日報第 1 版で張浩

党中央委員会は「当前農村経済政策的若干問題」を発表した。これによって、中国で は正式に請負経営制が確立された323。その後、請負経営制が各地の農村で進められ、農 村経済の改革は全面的に展開された。「集団所有、集団経営」の土地所有権制度は農戸 の請負経営制に変革され、中国農村では土地の所有権構造を中心として体制改革が発 生した。

次に、土地請負経営権の内容について概観する。農村集団所有土地の請負経営権と は、農業生産の耕作、養殖あるいは牧畜を目的として、農村集団所有の土地に設立し た期限付けの用益物権である324。請負経営者は請負経営契約により、集団経済組織の農 業用地に対して、占有、使用、収益の権利を有する。土地請負経営契約(付録 3-2)

においては、請負地の情報、請負経営期限、発注側の権利と義務、請負経営者の権利 と義務、違約責任などについて定める。土地請負経営権の内容は以下のように総括で きる(表 3-1)。

表 3-1 土地請負経営権の内容

という読者の手紙を掲載し、生産責任制を激しく批判した。これは、政府の一部の意見を代表した。

そこで、生産責任制を実施するか、それとも、人民公社制を維持するかについて激しい論争が展開さ れた。1979 年末、生産責任制を実行した地方では、農業生産力は大きく高め、巨大な変化が発生した。

農村政策が緩和した後、「包産到戸」を実施するところは経済の発展が早く、効果が非常に良かった ため、1980 年 5 月、鄧小平は正式的に「包産到戸」を支持する態度を表明し、人々の認識を統一して、

有力的に土地改革を推進した(鄧小平『鄧小平文選(第 2 巻)』(人民出版社・1983 年)315-317 頁) 1980 年 9 月、中共中央は「関于進一歩加強和完善農業生産責任制的幾個問題」の中でも、集団経済 の発展が遅い地域では、農民が「包産到戸」を要求した場合、当地の政府が禁止することができない と規定した。1982 年は農業経営体制改革の転換点である。1982 年 1 月 1 日、「全国農村工作会議紀要」

が中共中央によって批准され、発表された。この「紀要」により「包産到戸」「包幹到戸」 などを 含める各種の生産責任制が、その地域の農民はそのまま維持しようとする場合、改変されることがで きなくなった。さらに、「紀要」では、「包産到戸」、「包幹到戸」が社会主義農業経済の重要な部分で あると指摘した。「紀要」において「包産到戸」「包幹到戸」を肯定したため、中国全国で農村土地 の請負経営制が急速に推進された。

3231983 年末まで、全国の約 1.75 億の農家は、農家総数の 94.5%を占め、生産請負制を実践していた 家庭経営を主とする請負生産制は全国で定着される。1985 年までに、人民公社は政社分離、郷鎮政府 を設置する仕事を終えた。既存の約 5.6 万の人民公社は約 7.2 万の郷(鎮)人民政府に変わって、そ の下級に約 94 万の村民委員会を設置した。これは人民公社制度の正式な終わりを告げた(中華人民 共和国国家統計局「1985 年農村基礎組織状況」http://data.stats.gov.cn/easyquery.htm?cn=C01(2 015 年 9 月 19 日最終検索)

324梁慧星・陳華彬『物権法(第 5 版)(法律出版社・2012 年)258-259 頁。