• 検索結果がありません。

遠近法の虚偽と幻想性

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 87-90)

第 1 章 近代の共同幻想

1.7 透視遠近図法―煩悩の先入観よりなる世界

1.7.5 遠近法の虚偽と幻想性

物自体の大きさはどこにおいても常に一定であり、遠くにあるものが小さく近くに あるものは大きいという観念は幻想であり錯誤である。人間の眼の場合には、近くの ものに対しては水晶体の筋肉は緊張し、水晶体の厚さが厚くなる。遠くのものに対し ては水晶体の筋肉は弛緩し、水晶体の厚さは薄くなる。水晶体の厚さの変化に伴い光 を通す際の屈折率が瞬時に変わる。

こうして水晶体の自動調節機能(カメラのオート・フォーカス機能よりもはるかに 優れた機能)により、自分に対しより近くにある物体は実際より小さく映り、自分に 対しより遠くにある物体は実際よりもより小さく映ることになる 1(ユクスキュル/

クリサート, 2010, 45-46)。

つまり物体の大小は人間の目の遠近感覚により人工的な調節を受けているのであ り、それは事物の真の大小ではないのである。

眼のこのオート・フォーカス機能により遠近感覚が生み出されるのである。透視遠 近図法は、そうした人間の視覚機能により映ずる像をもって、実際の世界を恣意的に 変形させて描く。透視遠近図法では目のこのオート・フォーカス機能により遠近感覚 が恣意的に生み出されるのであり、人間の目が見るのと同一の遠近感覚による視覚が 得られるのである。

そこにおいては、現実の三次元世界を記号の二次元世界に組み替えた過程での本質

88

的欠損が、非常に重い問題を提起する。その像の世界では、見えるもののみが重要視 されまた強調され、背景に退いているもの、画題にそぐわないものなどは排除される。

あるいは個々のものの意味・目的や個体間の関係と関係を生みだす意味、画家と個体 とを結ぶ関係なども、画面世界の単純化・均質化・直線化そして遠近化という幾何学 的構成のための合理的加工変形により失われる。透視遠近法の絵画画面は、現実を畏 敬感なく無残に加工し変形し歪曲する風景に対する蹂躙であり侵害なのである。人間 の目に映る風景のみを幾何学的な直線をもって分節化し描くものでしかない。

「それら諸点の存在は、その相互関係に尽きる。つまり、その存在は関数的存在で あって、実体的存在ではないのだ。これらの諸点は、結局のところ、およすすべて の内容において空虚であり、それらは理念的関係の単なる表現になってしまう」

2(パノフスキー 1993, 12)

各個体と画家との自由で差異に満ちる豊かな生命的関係と多様な意味の影あるい は雰囲気が、絵画の世界から消える。透視遠近法により描かれる世界は、現実の世界 の諸個体の見えない関係と命を奪い、かくして非生命的な記号的な幾何学的世界―現 実とは異なる非生命的な合理的異次元世界―が現出することになる。安藤広重の浮世 絵の遠近法的処理のなかで、あるいはダビンチ『モナ・リザ』の遠近法構成のなかで 描かれる世界は、基本的に世界の数学・幾何学的模造としての非有機的世界性を演出 しているのである。

量的存在は描写されるが、質的存在は抹殺され排除される。パノススキーは、「こ の‘中心遠近法’全体は、全くの合理的な空間、すなわち無限で連続的で等質的な空 間の形成を保証しうる」と語る 3(パノフスキー1993,11)

世界とはただ茫漠と不分明に広がるものと推定されるのである。人類における近代 の知の広がり、言葉と概念わけても科学的概念の緻密化、人間中心主義の普遍化によ る近代的な世界認識のなかで、本来的に非分節的で茫漠とし無時間でありつづける現 実世界は、透視遠近図法により、科学的幾何学的に分節化される二次元平面に定量的 にかつ合理的に置き換えられることになる。その世界は人間による人間のための人工 的なる異世界なのである。

透視遠近図法の世界では均一・均質を自然空間にも求めようとする近代科学の世界 認識の無機的な技術的な衝動が支配している。人間の知を超えるあるいはその知が対 応することが可能な限界を超えるものは描くことはない。

「世界はもはや神聖なるテクストとして聖書解釈学的に解読されるのではなく、数

89

学的に規定される時空に位置づけられていった。その時空を満たしていたのは、“中 立的な”研究者の冷静な眼によって、外側からのみ観察されるような自然の対象だっ たのである。」4 (フォルスター2007,30)。

視覚は量的存在者しか教えないしまたそれしか表現することもできない。可視的な形 ある姿あるものについてのみ視覚はひいては透視遠近図法はその対象となりえる。そう した視覚の限界および弱点が透視遠近図法には潜在している。「中立的」あるいは「冷静」

という言葉の裏には、対象から距離を取るという姿勢が伴う現実世界への冷酷なる視点 に対する批判がある。透視遠近図法の打ち出す科学的客観主義が伴う非情さがここで指 摘されている。

「これ(この調和の原理)を思考ないしは抽象的作用としておおまかにとらえてみ ると、近代西洋芸術の方向を左右してきたことはほとんど疑う余地はない。逆に、こ の原理(論者注:西洋の幾何学的調和の原理)は、(略)、すくなくとも伝統的な東洋 芸術には、欠落している。ハーンの言説は、この不調和―不揃い―の観念を西洋に紹 介し、その結果西洋の芸術と生活に衝撃を与えるであろうという観点からすると、記 憶すべき価値があろう。」5 (ユー1992,384)

視覚優位時代である近代の人間は、世界を透視遠近図法という鋳型のもとに、自分 の先入観に従って作り上げる。そこでは自分の前で世界が自分を中心に自分に対して のみ世界自らが自らを打ち開き従うように広がる。近代的自我は、世界を一望のもと に睥睨するような錯覚を与えられ、それを自明なものと考えるようになる。理解でき ない事象は画面から消え去るのみなのである。

透視遠近図法は、自動的網膜機能を駆使する人間視覚による風景にいわば窓枠を自 動的に設けて、世界から風景を絵画的に切り出す手法である(図法それ自体の幻想性)。

人間にとって理解可能なここ・今の状況で理解可能な形にすべてを単純に平明に均質 化するという近代科学の本質的目的を透視遠近法は人間の煩悩(先入観)によって描 く手法である。

「形あるものは空なのです。こうして林檎は絶対無の中に消え去りますー残るものは と言えば不可解の一語です。」6(平川 1944,118)

大乗仏教空論に従うと形あるものは空であり無である(後述)。世界は空無なので ある。形ある姿あるという視点にハーンは人間の煩悩の危険な影を感じる。ハーンは 日本の細工師の絵筆の生き生きした写実的な筆さばきについて言う。

90

「あのヨーロッパ版画の、絵ぜんたいに行きわたっている五分の隙もない細密精巧さ が、いたずらに味もそっけもないクソ写実をやっているのに反し」、「(日本の細工師 の方は)そのひとつひとつが、どれをとってみても、いやしくも偏見の雲に曇らされ ていない人の目には、まさにひとつのりっぱな教えであり、啓示であり、・・、開眼 でもあるのである。これらの芸術は、みな、生きている。きびきびと生きている。そ れにちょうど対応するような西洋の絵を、そのそばにおいてみると、西洋の絵はまる で死んだものに見えてしまう。」7(ハーン 1995,129)

幾何学的調和の認識は東洋美術では欠落している。ハーンは日本庭園の美の一つと して石の不揃いの美の観念に着目する。あるいは日本の絵には影がないとハーンは語 る。非合理的なしかし美を見出す力・効果、自然の力は人工的な幾何学の均衡の取れ たものではなく、常に不揃いの複雑な多様な姿・形の組み合わせのなかに無秩序に非 合理的に生み出される。

西洋芸術には人間の手の加工による人工的な影が常に漂う。抽象化し先入観として 固定化する人間中心主義への危惧を、西洋近代絵画にハーンは感じている。

それは透視遠近図法のように、人間の煩悩がその我執のなかで生み出す自己中心的 世界像を、見事に画面化する擬制的世界の幻想なのであるから。

ニーチェは遠近法(パースペクティブ)について以下のように語っている。

「ニヒリズムの極限的形式は、いずれの信仰も、いずれの真なりと思いこむことも、

必然的に偽であるという洞察であるかもしれない。というのは、真の世界なるものは 全然ないからである。したがって、それは遠近法的仮象であり、この仮象の源は私た ちのうちにある。」8(ニーチェ 1969,17)

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 87-90)