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近代における理性的自己の不在

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 105-108)

第 1 章 近代の共同幻想

1.10 自己という幻想

1.10.1 近代における理性的自己の不在

西洋近代において初めて人間は、宗教的絶対者の絶対的精神による長きにわたるく びきから解放され、理性を礎に自律する実体的主体として存在視されるようになる。

それが個人という言葉に集約されるものである。西欧近代社会は、理性的精神の主体 である個人の理性的言動とその理性的社会制度に支えられる人間共同体と目された。

ハーンはアメリカ滞在時の 1887 年から 1888 年までの約 2 年間を仏領西インド諸島 マルティニーク島で過ごした。マルティニーク島ではかつてキリスト教カトリック宣 教師による厳しい宗教禁圧の歴史があった。その宗教禁圧の徹底性をハーンは語る。

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「偶像破壊 iconoclasm の例などそのような国ではほとんどまれに見るほどしか起 こることはない。金持ちであれ貧乏人であれ、白人であれ混血の者であれ、村人は、

祠の十字架の前を通りがかった場合、あるいはその前をそのまま通り過ぎてしまった と気づいた時にもただちに、自分の帽子を取るのを怠りはしないのだから。」 1

(Hearn1973, 213)

偶像破壊など今や起こるはずもないほどに、住民はキリスト教を当然の如くに信仰 させられている。人々の日常生活では古来の土着信仰は全く消え失せ、キリスト教が ー不自然なままにー根づき、住民は違和感を感じずにキリスト教信仰に従順に従って いる。

近代の理性的人間たちは、啓蒙主義的優越的理念のもとで非文明を差別化する。彼 らは、時間的には束の間の、空間的にはローカルな西欧近代の知たる啓蒙主義をそし てその理性概念を、世界・歴史における絶対的優位の価値あるものとする。

世界に西欧近代科学・近代理性による均一化・均質化つまり普遍化を求める近代主義 は、非近代的・非西欧的つまり非理性的文化と、それぞれの主体的また個性的な文化・

歴史あるいは価値を劣等視し排除し抹殺し抑圧する。理性を根拠とする啓蒙主義とは、

近代以前における非合理的であるがゆえにこそ有意味なる、大地的アニミズムの豊かな 質と文化を抹殺する文化的ジェノサイドなのである 2(注釈:差別・迫害という非理性的 状況について―西成彦著『ラフカディオ・ハーンの耳』32 より)。

こうした点においてハーンは、先進諸国による世界の植民地化の政策的イデオロギ-

とも言い得るオリエンタリズム(サイードの批判する「オリエンタリズム」)に対し厳し い批判を行う。ハーンは白人で西洋人でありながら、とくに西洋の中心とされるイギリ スのしかも栄華を極めたヴィクトリア王朝の時代にすでに、稀有な存在としてポストコ ロニアリズムに立脚し、クレオール文化やマルティニーク島の黒人・混血文化、日本の 周縁地域に生きる伝統文化に深く共感し偏見なくいつくしみそして考究した。

人間・文化・社会の本来的主体性や多様性を抹殺し管理すること、そのために西欧物 質文明の理性に適う合理的制度の導入を画一的に強制すること、それが近代啓蒙主義の 理性主義の輝かしい成果であり、結果であった。近代における歴史的大惨事の影には、

崇高なる理性的理念のもとでの合理的方法に裏付けられた破壊し抹殺する社会・人間戦 略が貫徹している。

近代の理性的自己とは、その理想主義的理念が物象化された像であり、内実の実体 のない空虚なる概念でしかない。反理性的で反啓蒙的な様々な歴史的事実を考えた時、

人間理性あるいは理性的自己というものの実体的実在を歴史的に見出すことはでき なくなる。

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理性に関する近代の様々な文化情報が、理性的事象や理性的人物あるいは理性その ものを物象化し、その普遍的実在を言葉を介して錯視化させ、理性が人間自己の近代 的実体であるかのような共同的錯覚をうながす。近代という時代において、その実体 としての空洞的自己に神性なる理性という概念を物象化し当てがい、理性として神格 化し、理性的自己信仰に支えられる個人主義社会をつくりあげた時代、それが自己を 実体視する錯覚・煩悩の近代なのである。

1.10.2 「虚妄の自己」 (ハーン)

カフカ(フランツ・カフカ 1883 年―1924 年 ドイツの作家)は作品『巣穴 der Bau』

等で、生きる自己の本質を近代人の生き存在する実存性のなかに探究し続けた。その 作品『変身』において、主人公グレゴール・ザムザは朝起きた時自分が毒虫になって いることを発見する。ザムザは、毒虫になった自分を認識するが、しかしザムザ自ら の意識においてはそうした外面的激変にもかかわらず、いつもの朝同様に仕事上での 軽い悩みが次々と頭に浮かぶばかりである。ザムザの内面は変わっていないのである。

それに対しザムザの上役やザムザの家族にとって、彼が毒虫になったことは事実で あり衝撃であり、その衝撃の中から彼らは毒虫という意味との新たな関係の構築に腐 心する。従業員あるいは家族の一員あるいは友人・・・というザムザとの従来の様々 な関係が突然に消滅・解体し、今や彼らにとってザムザは毒虫であり、毒虫という存 在に対する関係の全体が彼らにとっての今のザムザそのものなのである。

周りの人間たちにおける毒虫との関係によって、ザムザの意識において自分が毒虫 である事実をいよいよ納得するが、そのなかで、彼はますます主体的に毒虫へと<変 身>してゆく。関係の変化のなかで新たな関係性が実体性を獲得するなかで、その関 係が彼を根本的に変え、そうした新たな関係の束に包まれるなかで、彼は自分が本物 の毒虫であることを自明視し受け入れてゆく。

実体的自己以上に関係的自己が自己を自分にとっても周辺の人間にとっても優位 性を得る時代なのである。自己にもはや実体は失われ、自己はその自己とまわりの人 間が作る関係のみからなる蜃気楼の如きものとなっている。

ハーンは自己を「虚位の自己(False Self)」1(Hearn1973, 218)とし、彼はその自己を 多様な遺伝的自己性(霊魂)の集合体とする。人間のそうした自己は多様なペルソナ(キリ スト教三位一体論の人格が有する品位)を示すが、人間の自己とは近代においてはペルソ ナという他者との関係の自己である。

それは自己が多様な他者との多様な関係の対象であり、他者との多様な関係が自己 に反映され、関係性の変化あるいは自己的な因子自体の変化成長の中で、自己像は常 に固定せず変化し続ける。人に見えて実在するかのような現前の自己は存在者として の虚位の幻想の自己であり、自己の存在あるいは存在意味に裏付けられている表象さ

108 れる自己であり、実体的自己そのものではない。

それは関係が生み出し関係に支えられる自己である。それは関係という空無的な存 在性による非実体的な自己性である。関係性のもっとも純粋な自己の形としては、ハ ーンが好んで描く幽霊あるいはハーン作品「和解」における骸骨たる遺体とさえ言え る。

自己が見出す自己とは常に他者との関係の上に構築される仮のー関係でのー自己でし かない。近代における自己も常に空無なる非在的存在である。

「形なるものは見かけであり幻想である。生者であれ死者であれ、すべての人間感情 は形のない無窮なるものにのみ属するのが真実である。」2(Hearn1973, 497)

と,ハーンは大乗仏教空論に従って言う。

ゴーギャンのニヒリズムの問いについてハーンが言うように(ハーン「石仏」既出)、

自己存在そのものについては形而上学的には一切が不明であり、全くの謎である。自 己の生と存在の出生、自己の生の意味、自己の死後の行方、なぜ自分が自分であり他 者ではないのか等々、自己とは自らにとって存在論的にはすべてが不明である(「わ れわれはみな、われわれ自身にとって謎であり、また、おたがい同志にとって謎なの だ。」3(ハーン 1995,621)

近代においては自己とは他者あるいは世界との関係(縁起)の凝集された関係の総 体という幻想的実在とされる以外、自己とはすべてが不明なのである。

自己はそのように仮象でもあり現れてはまた消える霞でもある。自己は非実体的で 非実在的な存在であり、形・量・内実・運動を存在範疇とする近代実証科学的観点に とっては、わけても理解不可能な対象化不能なものである。しかし人間は自己を実体 的実在存在として錯覚しつつ自己幻想のなかを生きている。

ハーンは自己とは生涯を通じての律動であるとさえも語る。「個々の人間の一生は、

完成品でもなければ、始まりでもなく、果しない振動の一つに過ぎないのである。」

4(ハーン 1989,330)

既存の自己定義から逸脱する疑似科学的定義という、ハーンにとっての主観的主体 的な定義であり、微塵たる運動性を示す自己の在り方を象徴するものである。

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 105-108)