第2章 ニヒリズムの諸相
2.3 ニヒリズムへの時代意識
2.3.1 ニヒリズムの危機意識―ハーン論考「ロバの道を歩め」
ハーンは言う。「不可知なるものの存在が深く認識されたのは、今世紀に入ってからに すぎない。つまり、人間の精神は、みずからの不能性を発見したショックから、いまだ 立ち直れないでいる。」1(ハーン 1987, 413)と。
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ニーチェの言う「神の死」によって人類は、神・神性・聖性に根差す理念(例えば、ア リストテレスの形相)の根拠あるいは意味を失って行く (それが第Ⅰ章で述べた物象化 による意味の解体たる近代の諸幻想例である)。人間がそれまでに直面することのなかっ た「神の死」の闇のなかにあるということ自体が、世界の実体的客体がその客観性を失 い、人間主体の主観的なるものとなっていることを象徴するのである。
世界の客観と客体はまさに物象化が示すように、人間の主観と主体が転倒されたもの であり、世界の実体は人間の主体的主観が唯一の基体をなすということこそが、人間中 心主義の科学実証主義の時代精神そのものを表現している。
今や主観―客観と主体―客体の分断の上で、あるいは両者を分断することそのものに おいて、人間主観と主体の絶対的自由がすべからく支配し、それゆえかつての絶対的ま た客体的存在一切の無の闇が広がるのみなのである。こうして客体についての不可知を 唱える不可知論の闇が一挙に拡がり深まる。ニーチェの「神の死」宣言は不可知論の広 範な拡がりとその深化・拡大をも象徴するものである。
ニーチェ「神の死」の時代精神とともに、超越的で非世俗的で純粋に精神的なる形 而上学は、社会的に無意味なるものとなりその規範力を根本的に失う。また形而上学 的存在概念の場たる超越界・物自体界も、非実証主義的な仮想的世界として解体され る。「神の死」のなかで人間は、神に呪縛される前近代的ゲマンシャフトの血縁と地 縁による共同的存在から個人へと解放されつまりは個人へと放擲され、人間は生存競 争の「豹狼的争闘」2(ハーン 1970, 227)という近代ならではの原子論的孤立とそ の上での相互の戦いのなかで、物質文明の豊かさの煩悩に苛まれつつ生きる。それこ そが煩悩の放縦という「神の死」の時代的・社会的現実なのである。
ハーンは来日する 4 年前の 1886 年 9 月 29 日付けタイムズ・デモクラット紙上にて、
論考‘Follow the donkey-path ロバの道を歩め’を発表している 3( Hearn 1967, 125-131)。 その論考においてハーンは、ニヒリズムほどに激しい哲学の動揺はなく、それは伝染 病の如くにアメリカにも侵入しつつあると警告を発する。
発刊されたばかりの「政治・文学評論」に掲載されていた当時世界的に多くの読者を 得ていたギュヨー(ジャン・マリー・ギュヨー1854 年-1888 年フランスの哲学者・進化 論者。『未来の無宗教』で有名)の言葉に添ってハーンは論考を進める。
ニヒリズムの原点をショーペンハウアーの汎神論的ニヒリズムによる虚無主義である とギュヨーは語る。世界的評価を得ていた悲観主義者マイレンダーの自殺の原因もギュ ヨーによるとショーペンハウアーの虚無主義の影があるように、ドイツこそがニヒリズ ムの本拠地であり、ショーペンハウアーこそがニヒリズムを誘発する危険な指導者だと ハーンは語る。
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ハーンはさらにそこから、ニヒリズムの根拠について、科学的実証主義の有限性(相 対性)を指摘し、それが意味の不在や意味の空虚感を満たすことの出来ない人間の苦悩 の解決にとって力にはならないことを述べる。人間の深い空虚感の譬えとしてハーンは ギュヨーの文章、つまり山中での自分の足もとに現れた小さなトカゲの示す世界への十 全なる信頼感に比した人間の心の飢餓感の絶望的状況を語る。
ギュヨーの問題提起のもう一つは不可知界の問題である。人間は近代においてはじめ て不可知界を見出し、それを克服できない精神的苦闘を続けているという。それがニヒ リズムの苦悩である。人間のその苦悩をギュヨーは飛ぼうとするが飛び立つことの出来 ない、つまり不可知を乗り越えることができない人間の無力に対する人間の自虐的絶望 の悲観的状況にニヒリズムの刃を譬えている。
最後にハーンはさらにギュヨーの言葉を借りて、現在の蔓延しつつある二リズムの病 が、ロバの道を歩むロバのような真摯な確実な努力のなかでかならず乗り越えられ癒や されるのだという希望(「ロバ道を歩め!」)を抱くよう求める。ニヒリズムは今の一時 期に流行している伝染病に過ぎないのであり、それは新たなる変化への兆しであるとハ ーンは語る。
論考は、このようにスペンサーの漸進主義的な、順次に確実に良くなっていく上昇へ と向かう進化論的希望の提示で終わる。またその論考にはハーンの次の文章もある。
「大西洋の東の地(論者注:西欧)ではこれ以上の国家的発展は望みえない。その地 では輝かしい未来など見えない。それどころか現状を維持するにさえ予想される困難さ のなか、人間の不安は募るばかりである。信仰、社会的道義そして伝統的道徳は零落の 坂道を転がり落ちるかのようである。新しい懐疑主義の分厚く繁茂するツタの葉が、ゴ シック式宗教建造物の石をむしばんでゆく。その建物の玉座へは破滅への階段が、ニヒ リズムのコケでつるつるに覆われて続くばかりである。」4(Hearn 1967,125)
近代において崩壊する神的絶対的な最高の価値観が、近代以前に形而上学におい て考察され保持され守られた。しかし、近代における概念の実在性の解体と唯名論的 普遍概念の流布・広がりは、存在するものの意味の解体を加速化する。産業革命の大 成功とその大成果に酔う近代の実証科学主義イデオロギーは、従来の形而上学的な絶 対的世界とその不可知の「物自体界」(カント注釈)への懐疑・不可知化と、それらが 積み上げてきた意味の解体を招く。
また実証主義における時空・因果に自己限定しそれらに拘束される相対主義の根 拠の虚弱なる意味化のなかで、絶対的な根拠を有する意味が失われることになる。
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「われわれの頭上に広がる夜の闇のように深い疑惑の深淵である。対象(論者注:=
意味)を喪失した汎神論である!われわれの気づかないうちに現代のヨーロッパ文学に より、この疑惑は教え込まれている。詞や小説、歴史、物語、社会学、さまざまな科学 において、さながらヴィシュヌの化身のように、それは姿を現している。」5(ハーン 1987,356)
ヴィシュヌとはヒンドゥー教の神であり、その化身とは人間が堕落し道徳が衰微する 時に人類を救うべく立ち現れる救世主(神々・英雄・偉人)のことである。懐疑の闇が 覆う世紀末の現世に人間は堕落し磊落し、道徳も衰微している。そのような時だからこ そ、疑惑の闇を晴らすべくそして人類を救うべく、ヨーロッパの様々な文学のみならず 芸術・学問もが、その危機を語り始めているとハーンは語る。
ハーンは厭世主義デカダンスを「不可知なるものの前で不能感を抱く」6(ハーン 1987, 414)ものとし、デカダンスを厳しく批判する。「不能感を抱く」という厭世主 義あるいは不可知論をハーンは自らにおいて断固として否定する。
ハーン自身は進化論的漸進主義に従ってロバ道を頑固に歩きながら次第に霧が晴 れ展望が見えてくる理想主義的観点から不可知なるものを形而上的に可知可能なも のとする希望を述べる。つまりハーンは、「ヴィシュヌの化身」と語るように、混沌 とした不可知や懐疑が逆巻く迷いの時代ゆえにこそ理想の光が現る希望を述べる。
「わたしが気づかぬまま、私の周囲には広大な生命が存在するのではないだろうか。
それは、私の足の下で脈打っているのではないだろうか。そのものは、そうした広大 な「全」によって、目に見えない形でいかされているのではないか。」7(ハーン 1987、
412)
地上という空間における宇宙的存在への超越的志向をハーンは試みて、存在を宇宙 的なる全一的在り方へと全体論的に考える。それは楽観的つまり汎神論的希望への模 索と言える。ハーンの漸進主義的な希望である。
「個人の自己の完全な消滅が、全一の自己あるいは宇宙的自己へ帰還する方法であ る。これが『涅槃』という章の核心である。」8 (ユー1992, 430)
ハーンは不可知なるものの前で不可知を乗り越える超越への志向性を抱く。ハーン は不可知の絶望的認識からの仏教的論理によるニヒリズム的救いを求めて、実体論的 志向を図り求める。そこから目的がそして理想が生まれる。不可知論的闇を乗り越え
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理想論・目的論の高みへとハーンは超越を試みる。そうした進化論的漸進主義の理想 論的基調 9 (ユー 1992,305)がハーン「ロバ道を歩め」では流れている。
「マラリヤの沼気の如き絶望の哲学の霧」10( Hearn 1967, 125)たるヨーロッパの ニヒリズムの状況は、むしろ新しい時代に向けた変化・胎動をも示すものであり、絶 望的な虚無の無から新たなる生と存在の根拠の見出され生まれる希望と期待を語る ものである。ハーンはニヒリズム超克への正しい道は自らの生の歩みを堅実に実直に 歩み続ける「大衆の素朴な社会感覚」11(Hearn1967, 131)に期待するとも断言する。
ハーンは、ある論文においてモーパッサン(ギ・ド・モーパッサン 1850-1893 フ ランスの自然主義文学者)の作品『ベラミ』について、「ぞっとするような奇妙な絶 望感」を与える悲観主義として厳しく批判する。ハーンはその作品について「理想主 義の否定」「向上心に対する嘲笑」と語り、それに対し「実現不能事や非存在物が人 間の心にとっていかに必要であるか」と語る 12(ハーン 1988, 80)恒文社 1988 年発 行 76-80 頁)。
懐疑的なもの、悲観的なもの、非現実的なもの、不可能な不可知なるもの、到達不 能のもの、失意といった 13(Hearn1967, 125―131)懐疑主義や不可知論のニヒリズ ム的厭世・放念・断念への志向ではなく、ハーンは克服への理想を提示しその克服を 目標として設定することを主張する。それがハーンにとっての大乗仏教への関心(後 述)を支えるものなのである。
そのなかでもとくに不可知論は形而上学的絶対者の存在・認識についての徹底的不 可知を示すものであり、世界自体の根本的不可知性さえをも唱えるものである。それ はキリスト教信仰のまさに根幹を揺るがす破壊力を内包するものである。
人は形而上学的実体(例:価値観・人間観)を無意識なままに自己の内に宿し続ける。
ハーンは現象の背後にある形而上的力実体を立ち上げ、それをニヒリズム克服への手 がかりとすることになる。それはやがてハーンにおける縁・縁起そしてカルマ(業)
の確信・信仰に導くことになる(後述)。