第2章 ニヒリズムの諸相
2.7 煩悩の放縦
2.7.4 自己存在の不確かさ
「科学にとっても仏教にとっても、宇宙は巨大な次々と移り変わる幻想に、不可知 の測り難いほどの諸力の単なるゆらめきへと化してしまう。しかしながら仏教の教え は、‘どこから’そして‘どこへ’という問いについてそれなりのスタイルで答えを 出しているのである。」1( Hearn1973, 454)
世界が一見あるようだがしかし無いという空無であり、世界の万物は諸行無常である ことがよく言われる。では世界はなぜ空無であり、所業無常であり得るのか。近代科学 は、世界の根拠や存在意味を問う‘なぜ’を、その非形而上学的本質ゆえに問うことの ない構造の上に成り立つものである。近代の科学的知の営みとは、形而上学的不可知界
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解体後の瓦礫の上に花開いた相対的なあだ花でさえある。
<我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか>とは、 ゴーギャ ン(ポール・ゴーギャン 1848 年―1903 年 フランスの世紀末の画家)が 1897-98 年にかけ て作ったニヒリズムの問いかけを具象的に描く絵の題名である。ハーンとゴ-ギャンに はニヒリズムへの関わり方とその超克において多大の共通性がある。そのゴーギャンが、
西欧近代の病たるニヒリズムから逃れて移住したマルティニーク島へほとんど同一時期 にハーンも訪れ、しかも 2 年間同島に滞在している。
ゴーギャンによる上記大作の表題は人間存在についての究極の問いであるが、それは、
西欧世紀末に生きる人々の精神を襲い蝕むニヒリズム的不可知性の、その絶望的なー無 根拠という淵のー深さを象徴する問いなのである。
存在の意味を問う「なぜ」という問い(充足理由律)は、その答えが循環論証に陥り 答えの終結が見えない困難な問いである。その問いに一度とらわれ始めるとその謎・不 可知さがますます増し深まり、その問いを問い続けることから抜け出す事ができなくな るため、「無限後退」2(下中邦彦 1971, 1367)の問いと語られるハードプロブレムの一 つである。
ニヒリズムにおいては不可知であるという言葉さえも不可知となり、相対的という言 葉自体も相対的となり、ニヒリズムの苦悩・不安に一度捉えられると加算的に苦悩や不 安がさらに増す。物質のみならず光もそして闇さえをも闇の中に吸い取るようなブラッ クホールのごとき状態のなかで、人は一度陥ったニヒリズムの絶望的闇のなかから抜け 出すことが出来なくなる。
「最大の難問題は、人間がなぜこの世に生きているかということだと思うな。」「人 間がこの世に生れて来たのは、何の目的があってのなのかい?」「なぜ人は一生けん 命勉強なんかするんですかねえ?」「こうした、閃くように浮かんでくる暗い思想は、
ことに、明治以降の若い東洋人の心には、ときどきあらわれる。それは、夏の雲の影 のように、消えやすいものであって、西洋の青年のばあいのような、深い意味は持っ てはいない。」3(ハーン 1970, 149)
しかしハーンにとって熊本5高での学生たちとのやり取りのなかから、ハーンは 彼らのなかにもニヒリムの影を感じているのである。西洋の青年たちに比して、日本 のニヒリズムの問題は若者にとって重い問題というわけではいまだなかった。しかし 近代に生き始めつつある日本の学生の口からニヒリズム的厭世観的言説が出たこと にハーンは深い危惧を感じている。
近代の社会は人が生き存在するというなぜつまり意味に応えることが出来ないよ
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うな、形而上学不在の時代となってきているのである。
「それは我々に我々自身のうちなる虚無、然も我々の歴史的現実となつてゐる虚無を 自覚せしめる。それによつて我々はニーチェのいはゆる‘能動的ニヒリズム’或は‘強 さのペシミズム’に導かれるであろう。」「しかしそれだけではない。我々の本来的課題 は、我々のうちなる空虚の克服である。(略)。それは現在の我々の境位に根本的な転換 を与え、それによって我々の精神的空虚を克服するための方向を開くであろうからであ る。」4 (西谷 1958, 232―233)
西谷は日本人も西欧と同じくニヒリズムに罹患したことについて、日本における西 洋文化の摂取が「政治・経済・軍事その他、多かれ少なかれ強國策のための外面的事 柄」5(西谷,1958, 233)に傾いたものであった点だとする。ニヒリズムは産業革命 以後の物質文明の近代社会が、不可避に内包する危機的問題なのである。
ニヒリズムとは、物事の実体たる存在意味の無の空なる世界にその絶望を自覚する のみならず、ニヒリズムの超克を志向し精神の根本的転換となるような試みをも含む。
西欧近代の哲学・思想そして文学の源は、世界を無たるものとしその無の中に自己存 在を見出すとともに、無たるものを自らにおいていかに超克するかという志向性であ る。それもニヒリズムへの対応における重要な課題と言える(ニーチェのいう能動的 ニヒリズムの構築)。
そういう意味で、世界はおしなべて幻想であるとし、さらにその空無の超克を求め るハーン自身もニヒリストなのである。つまり彼の文学はニヒリズム文学なのである。
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