第3章 ニヒリズムの超克―個我から共同へ
3.2 盆踊りの霊界―人々が縁により集う時・場
「煌々と照る月明かりのもとで踊りの輪に囲まれていると、自分が魔圏の輪のなか に据え置かれているかのように思われる。実にこれこそまさに妖術に絡められるよう なものなのだ。」(Hearn‘Bon –Odori’‘Glimpses of Unfamiliar Japan’154)
3.2.1 幽霊踊りの夜
西成彦はハーンにおける非文字文化への強い関心をハーンの社会的・時代的背景か ら考究する。民俗学者ハーンの多彩な文化への関心のなかに西は、非文字文学・非文 字文化の土着的民芸に対する関心に注目する。そこから西は、「文字文芸よりも非文 字文芸、要するに「文字所有者の文学」(literature)よりも「文盲者の文学」
(illiterature)の中に民族の根源的精神を読みとるロマン主義的な文芸観の継承 者」1(西 1998、58)としてハーンをとらえる。
しかしハーンにおける民俗学的関心は民族的関心を超えるより普遍的な人類的な次 元を目指すものとなっている。
ハーンが日本到着の最初の夏に鳥取県中山町上市か み い ちにある下市し も い ち妙元寺にて見た盆 踊りは、お盆期に行われる鳥取の「以西い さ い踊り」であった。ハーンはその盆踊りについ て、
「下市の盆踊りを見に行かなくてはなりません。ここの盆踊りは、わたくしの知り得 るかぎり、他所のどこの踊り方とも異なっておりまして、ぞーっとする幽霊のような 踊り方をするのでーー人は霊の踊り Dance of Souls を見ているような気持ちになり ます。」2(ハーン 1992, 420)と語る。
それは別名「死者たちの踊り」3(平川 1994, 181)とも呼ばれる怪奇的にしてかつ神 聖なるものであった。
「再度太鼓が打たれるとただちに踊りが一斉に始まる。それは言葉では表現できない 想像さえもできない、夢のような幻の一つの威迫でさえあった。」4(Hearn1973,154 )。
大地が醸す原始的リズムのもと踊る中で、共鳴し合う躍動感に醸成され、死者を迎 えることができた喜びと、死者とともに今を生きる喜びに世界は満ちる。死者と生者、
自己と他者、人間と自然・大地の万有が一体化し、互いに触覚的な身近な触れ合いを もって集い続ける。盆踊りが行われる妙元寺の世界は、今や生き生きとした神秘なる
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ここにハーンは人それぞれの生の時間・空間を超え、ア・プリオリ(先天的)に人に 普遍的に内在化される共鳴感や一体感のみなぎる集いの感動を、忘我的に陶酔的に体 験する。自らの自我性を超えて他者とともに生き一体化して存在するという人間の本 来の存在する意味が実現される。その意味が身体的に実感的に体験される場において、
死は生の一局面であり、死者は生者と生を共有化する。
踊りの場は、見える存在と見えない存在との、死者と生者とのーー肌も触れ合うよ うなーー身近なる親近性に満ちる霊場であり、ディオニュソスの饗宴の場となり(ニ ーチェ)、霊的雰囲気に酔い痴れながら集う世界となる。踊るなかで場はますます強 い霊性を帯び、より多くの死者と生者あるいは神々を呼びさらに多くの霊魂・神々が はせ参じる。
“いま・ここ”にて自らを自らが超越させながら、人は現世ミクロコスモスの人間 的意味から解き放たれ、霊性漂う大地的宇宙的世界での連帯を忘我的に堪能する。山 中他界・山上他界信仰の神々(死者たち)の里へ降臨した霊魂の、あるいははるか西 方浄土より帰還した仏(死者たち)の霊魂と今を生きる生者らとが、ともに親しく集 う聖なる時間と場である。季節という大宇宙的大地的循環する時間とその感覚にもと づく人間と大宇宙・大地との原初的一体化の喜ばしい聖なる時と場におけ復活と再生 を願い感謝すること、それが祭りの原義であり、下市幽霊踊りの原初的意味なのであ る。
それは宇宙・自然と人間とをつなぐ意味が具体的関係を得て開示され実現される希 少なる時・場であり、人間存在が個人という近代的呪縛から解放された共時的共空間 的な汎神論世界が今や実現され、生者と死者とが、現世の人間とその先祖らが自然の 霊魂とともにこの聖なる時間と場にて一体化し、「以西い さ い踊り」をともに担うハーンを その輪の中に包みこんでいたのである。
3.2.2 ブラフマン的自己への超越
孤絶し個別化する近代的個人のその存在的差異が、踊りのるつぼの中で消えゆき溶 解し合う。生きる他者と死んだ他者同士の深いつながり・結びつきによる、生の意味・
生きる根拠・生きる時が開示され体験される。こうした機能を有する集団的踊りは、
西洋でも日本でも過去から遍く広がる神秘的な性格を有する原始的始原的な祭事と してとり行なわれていた 1(注釈:盆踊りの高揚感)。
「踊り手たちは何かに取り憑かれたかのように狂乱し跳ねまわり踊りまわるので、
彼らの近くにいると危険だと思われるほどだった・・・。踊り狂う踊り手たちの様を 最初に見た時は、古代のディオニュソスの狂乱(some old Dionysiac revel)を見て
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いるかのような思いがしたものだ。」2(Hearn 1973, 99)
ニーチェが唱えるアポロン的芸術に対する神秘的熱狂・陶酔のディオニュソス的芸 術は、アポロン芸術の主我の理知的な理性的客観性に対する、忘我的一体性と全体の 混沌とする躍動性をその本質とする。それが、人間の初源的な心の奥底に宿る人間本 来の宇宙的大地的存在である習合的集団的な宥和願望である。その宥和願望が人間に は普遍的にアプリオリに内在するのである。それこそが、「華厳経」の説く、「すべて の個物はその分割性と相互抵抗性とにもかかわらず、ここでは全くの相互渉入の状態 にある。」3(鈴木 2000, 276)という無礙の真理の実現なのである。
ハーンの松江での第一日の朝、人々が戸外でかしわ手を打って朝日に向けて祈念す るが、その際の祈り「(論者注:原文のママ)ニッポン-コク-チュウ-ヤオヨロズノ-カミ-ガミ-サマ!」4(Hearn 1973、165)が示すように、人間は近代以前には宇宙的 大地が生み出す様々な意味の中に、その循環する自然時間とその恵みの多様な意味の なかに包まれ、自然・大地と交流しつつ生きていた。近代以後、人間が作り出した人 間世界の閉塞的拡大発展の中で、意味は解体しあるいは人間にとってのみの実用的功 利的な意味へと、意味とその環境が大きく変貌を遂げる。
マクロコスモス(宇宙大地の世界)からの発信を受け、その霊性や神聖なる大地的 宇宙の威力を浴びて関係し交流する次元から、ミクロコスモス(人間のみの世界)へ 閉塞する中での世俗的・物欲的関係への零落・変質を、近代において人間は被る。人 間世界というミクロコスモスに一元化され、人間世界における関係(意味)のみに関 係しつつ人は今・ここを単独に孤立して生きるようになる。
盆踊りは、近代以前のマクロコスモスにおける人の本来的意味、つまり宇宙的大地 の存在という意味と、人々や霊魂や自然万有とのつながり・きずなのなかでの生と存 在を、今のこの時代において再現するものであり、そうした近代以前の人間存在の意 味を再び実現し再び荷なう機会が、ハーンにとっての盆踊りだったのである。下市の イサイ踊り(幽霊踊り)の時間空間において人々は、近代以前のマクロコスモスの時 空間とそれとの関係に生きる時間と場を、‘今、ここ’における霊的時間と場所のな かで超越的に体験するのである 5(岩井 2003, 7-14)。
3.2.3 宇宙的な存在の意味の実感
ニーチェがいうディオニュソス神の復活は、「個体化への呪縛が打ち砕かれんこと を!」1(Nietzsche 1976, 99)という時・場として把握される。それは、大地の存在 の本源的実相としての生者と死者との霊的一体化の聖なる恍惚感のなかでの聖なる 時と場である。そうした全体的集いをうながし生者とともに踊りを楽しむのは、盂蘭 盆に山中あるいは山上から降臨する死者たちの霊魂(地霊魂)であった。日本は霊魂
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(地霊魂)が導き支配する死者の神々の国であるとハーンは考える。
敬虔なる大地の神々あるいは死者の神々との神秘的一体化のなかに、汎世界的な大 地のきずなを日本の風土のなかにハーンは実感する。日本の国土には自然神や死者た ちの霊魂がみなぎりあふれること、日本の大地は神聖なる清い力に満ちる世界である ことを、来日後間もないハーンはイサイ踊りとその集いにおいて実感する。
そのイサイ踊りの場の神秘的雰囲気は鎌倉期に始まる時宗の開祖一遍の「踊念仏」
に由来するものであり、先祖供養の「幽霊踊り(ゴーストダンス)」とも言われる原 型的盆踊りの一つである。それは集団を形成して踊る宗教行事が、人の信仰心を高め あるいは信仰に誘う集いの機能を付与する契機となったものである。
「『絵詞伝』でも、18 人の僧が円陣を組んで、食器のヒサゲのリズムにのってス テップを踏んで、奔放に念仏を唱えて踊躍している。気ままなリズムに乗っての集団 の乱舞。この乱舞を果てしなく繰返していけば、当然到るところは、夢か現つの集団 エクスタシーであり、その先は、おのれの心をまったく忘れ去る脱魂の状態、すなわ ち集団的トランンスの境地である。心が空になった。それが解脱・・・仏の幻像と出会っ て、懐に入る。ありがたくて、嬉しくて、大歓喜が踊躍となる。まさに法悦。一遍が 求める、人・仏一体の姿が、そこに実現する。」2(三隅 2002, 23-24)
「特に七月中元をお盆と称して、ご先祖の御魂を慰め、成仏されてもなお心安かれ と、踊念仏を奉り、また、久々の交歓を尽くしましょうよと、祖霊と子孫とがうち交 わっての踊躍を楽しんだ。」3(三隅 2002, 36)
人間は見える他者とのみならず、見えない他者つまり死者との超感覚的なきずなのな かに生き存在している。そうした他者との実体的で強いきずなを、畏敬感と親近感のも とで共有化することこそが、先祖への慰霊であり現世に生きる人間としての務めなので ある。それこそが人間存在の豊かな存在の実相(インド古代ウパニシャッド哲学がいう ブラフマン的大我たる自我)の有する一つの意味であり、下市の盆踊りにおける、死者・
生者の霊魂との身体的な実在的感触に満ちる集いが示すもう一つの意味なのである。ハ ーンの大いなる感動もこの一体化の喜びにある。
「敬虔なキリスト教聖職者ならばこうした奇跡に神の愛を読み取ろうとするのだが、中 世の民衆はそのような精神の面の解釈よりも、奇跡の現象そのものに、つまり人間の感 覚で感じられる驚異的な吉なる効果に魅力を覚えていたのである。」「フランス国王は戴 冠式で聖別され俗界における神の代理人になったが、民衆はそのような王をイエスと同