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恣意的像としての世界

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 99-105)

第 1 章 近代の共同幻想

1.9 恣意的像としての世界

「天の河 波は立つとも 我が舟はいざ漕ぎ出でむ 夜の更けぬ間に」(『万葉集』

2059 秋雑歌,七夕より、ハーン‘The Romance of The Milky Way 天の川ロマンス’に てのハーンによる転記)

―万葉集時代の人々は現在とは異なる雄大な宇宙的世界に生きていた。世界は宇宙 大地に広がるものであり、彼らは決して地上の人間世界のみには生きていなかった。

近代と異次元の時間空間の大宇宙の世界を人々は生きていたのである。

1.9.1 かつて世界は意味の体系であった

地図は紙上に二次元化された世界の像であるが、その世界像は、三次元の現実世界を 二次元に加工したものであり、世界そのものを正確に映すことなど不可能であり、地図 は世界の極度の複製にすぎない。現実の立体世界を二次元平面に図示化するには、大き な多様な歪みがともなう。しかも人間は、世界地図から人間の関心や必要に適う意味あ る情報のみを任意に個別に読み取り選び取るのであり、地図上の世界全体を人間は認識 するわけでも利用するわけでもない。人は、世界地図における自分にとって意味ある部 分のみを、断片的あるいは局部的に選択しそれを自らの世界として利用するのみである。

しかし現実の世界という言葉も、地図の世界という言葉も、あるいは家庭の世界とい う言葉もすべて成り立つのである。世界とは人間個々人にとっても、さらに個々人の置 かれた時間・空間においても、多様な意味から作り上げられているきわめて不特定な概 念である。

「神の死」の近代において、人間は、自分自身を神による世界の中に見出すのではな く、人間自らが生み出す意味の世界の中にいる自分自身を見出す。近代における風景の 発見・出現は、人間主体における自己の意識化と自己確認にともなう人間が世界の中か ら風景を意味として切り分ける分節化の結果であり、その結果として自然風景が人間に 対して立ち現れてくるのである。

カーペット上に浮き出ている染みを見て、人間はその染みが「浮き出している」か のような輪郭を持つと思うが、「浮き出している」かのようなその輪郭を人に与える 要因の一つが、染みの色やその性質やその意味であると、メルロ=ポンティは言う 1

(ポンティ, メルロ=,1967,45)。

意味とは自分と対象たる染みとの間を支える関係性を語るのであり、関係性こそが 対象の自分にとっての意味の内実なのである。染みと自分との関係は染みの意味とい うことに還元される。

「私が眼前に一つの赤い染みを見ていると言う場合、この染みという言葉の意味は、

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私がこの言葉を使うことを覚えた過去の諸経験によって提供されている。」2(メルロ

=ポンティ,1967,45)

意味は自分の過去の体験から汲み上げられるものであり、過去の体験にさかのぼり 検証される観点から意味は自己内で認識される。つまり意味は対象と自己との経験の なかから対象に対し自己内であてがい関係性を得るものなのである。

人はものの意味を常に主観的にのみ理解し、その理解を意味としてその対象に対し てあてがう。事象のなかに自己にとっての意味を読み取り、その意味を主体的に世界 にあてがう行為こそが、理解あるいは解釈である。そのようにして人間は、自らの世 界を独自に主観的に積み上げ世界として作り上げるのである。

このようにして人間主観による世界の意味の積み重ねにより、世界が人間にとって 明瞭になる。個々人の主観における世界の意味の多様性やレベルにより、世界は異な るものとして現れるのである。世界は各個体にとりあくまでも主観的にのみ多様に広 がる真なる世界の局部的断片なのである。

1.9.2 近代以前の世界は宇宙的広がりにあった

レーヴィット(カール・レーヴィット 1897 年―1973 年 ドイツの実存哲学者)

は近代の歴史哲学研究を行ない、西欧近代精神の歴史的検証を行った。彼は西欧精神 の近代における変容を以下のように語る。

「今日、われわれすべては歴史とその運命の地平の中で存在し思考するが、もはや 自然的世界の環境の中には生きていない。(略)。われわれには、人間よりも古くそし て恒常不変である一つの世界というものがなくなってしまった。」「世界はわれわれの 世界になる。人間を超えた自然的コスモスは忘却せられ、世界は根底から人間化され るのである。世界は人間世界となる。」1(レービット 1978, 41・52)

実体主義から関係主義への世界像の変容が見出される。主観―客観、主体―客体 の関係の逆転が反映されている。

七夕伝説についてのハーンの言葉である。

「月のさし昇る前、澄みきった夜の静寂に佇んでいると、この古風な物語の妙なる 魅力が、星きらめく夜空からわたしの上にそっと降りてきて、-現代科学の奇怪なる 事実や「空間」の途方もない恐ろしさを忘れさせてくれることがある。」「すると、天 界がたいそう身近で、あたたかく、人間味あるもののように思えてくる。自分を包ん でいる静寂のうちには、変わることなき不滅の愛の夢が―永遠に懐かしい、永遠に若 い、しかも神々の父性知では永遠に満たされるぬままの愛の夢が、充ちあふれている

101 のである。」2(ハーン 1994,58,59)

人間の主観的に身体で感じ感覚に応える様々な意味が、世界に内在し息づいている。

それがギリシャのガイヤの全宇宙大地的な生命的輝きである。「人間を超えた自然的コ スモス」(レービット上述)とはハーンにとっては、作品集『天の河ロマンス』の名前に 表わされるマクロコスモスとの関係・つながりを有する自らの世界性である。宇宙的関 係の中にこそ人間は本来的には生きていたとする。

だからこそ『古事記』におけるような高天原(天上界)の神々による葦原の中津国(地 上界)との往還や、『竹取物語』におけるかぐや姫の月への帰還や、宮澤賢治の銀河鉄道 が死者を天上に運ぶというロマン的夢物語が数多く生まれるのである。

ハーンが好んだ『古事記』が語るように、人間は、精神・肉体において本来大宇宙の 始原的ダイナミズムに満ちる宇宙的広がりを持つ宇宙と地上を行き来する(影響を受け る)ような、宇宙的大地的なマクロコスモスの存在とされていた(『竹取物語』のかぐや 姫神話)。近代以前に世界は、ミクロコスモスとマクロコスモスとの二重性あるいは二層 性から成る大きな世界であった(プラトンのイデア界ー地上界、アリストテレス月上界―

月下界という二世界説に始まる)。

人の生誕や死において、あるいは「ハレ(晴れ)」(民俗学者柳田國男が使った日常的 時間である「ケ(褻)」とは異なる祝祭、年中行事あるいは式典や儀礼などの非日常的時 間のことである。)の祝祭日において人間は、人間や人間世界の精神的身体的呪縛を脱し 大宇宙・大地存在として、宇宙・大地との絆を直接得る聖なる存在となると自覚してい た 3(この節冒頭の『万葉集』2059 秋雑歌,七夕よりのハーンの転記参照)。

しかし近代において人間は、人間が意識的に有限化する人間世界とそれに対し人間を 超越する無限なる宇宙・大地とを、不特定の漠然とした閾(境目)により分節化し境界 付け、両者の間に見えないが絶対的境界を想定するようになる。そのなかで人間は、人 間存在を中心にして人間の能力と言葉の及び得る限りの世界を閉塞的に作り上げる(宇 宙開発・宇宙探検という言葉が表すものである)。

近代以前の宇宙・大地という大いなる―当時の人々にとって見知らぬ超感覚的世界性 をも含む―世界は、近代においては人間の言葉と概念や感覚そして理解を超えるがゆえ にのみ非在とされ、科学的合理主義によって霊的世界や霊的存在としてタブー視され禁 忌世界として排除される。人類によるマクロコスモスの解体あるいは浸食あるいは支配 が進み、かくして全宇宙がその神秘性・霊性を失い、人間世界化されつつある 4(注釈:

宇宙が人間のミクロコスモス化する近代)。

人間は自己の本来有していた宇宙的大地的ペルソナ(位相・局面)を失い、その世界 との豊かな精神的交流を失い(ハーンが言う七夕祭りや天の河伝説への共鳴や共感の風

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化)、こうして自己超越を可能とし神秘的にして果てしなく豊かな世界を失うに至る。

啓蒙主義が示す如く、近代的人間による世界支配の手立ては、知の言葉・概念である。

近代世界における植民あるいは開発とは、西欧的知の侵入による西欧文明化である。前 文明の始原的で素朴な有意味の世界を、近代の言葉と知による単純と均質により秩序化 し、無機的なそもそも無意味な人工的世界へと塗り替えて編入し尽くすこと、それが啓 蒙という名の知による支配あるいは知による暴力の実態である。

人間の意味により埋め尽くされた人間化された世界が、世界的に広がって行く。産業 革命や産業社会の拡がりとともに、言葉と知による単純と均質なる人工的な無機的世界 に世界は変貌し続けている。

1.9.3 世界の法則・事実・真理は人間のみのもの

世界の法則・事実・真理の発見とは、宇宙的大地の不思議な事象を、人間がー自らは その外にいると誤解しつつ-観測者・観察者として宇宙的大地から抽出し、人間に理解 可能な言葉・記号・数値にて表現する人間の主体的にして恣意的な営みである。それは 世界の法則・事実・真理を、人間が外側に広がるマクロコスモスから自分たちのいるミ クロコスモスへと取り出すものではない(農事暦や風水の考え方が、世界との関係におい て世界に内在する真理に立脚するものである)。世界の法則・事実・真理の発見とは、人 間の内面における恣意的営みであり、世界に影響を与える力はない。

法則・事実・真理とは自らがそのなかに存在する宇宙的大地にあって、宇宙的大地 の一部を引き離し・隔離しかき集め、あるいは組み立てて抽象化(ドイツ語 ab・

starahieren)をする 1 (加藤尚武 2003,145-146)結果である。このように対象に隠 匿的に働く‘どのように’(背景・様態・方法)という動きや流れを検証しまとめ、

その結果を言葉・記号に表現することが成功した場合に、それが法則・事実・真理の 発見と賛美されるのである。

自然科学者は、画家が自らを包む大宇宙や大地からその一部を自分の主観に加工・

変形して描くのと同じく、世界の現象が‘どのように’生じているかというその様子 を法則・事実・真理として抽象化し表現するが、その現象の‘なぜ’つまりその現象 の生じる目的と意味について問うことはない(「実証科学」の章で既述)。

人間は、世界の科学的真理を真理であると主張する根拠をもたない。自然の事象を読 み取って、それを真理であると相対的にのみ主観的に判断し、人間が主体的に作った数 式に従って数値記号に転換するか、数式・法則という見える記号に現象を抽象化するか、

あるいは自然の事象を思想・哲学的に直観化し、その結果を主観的にまとめて、見える 二次元の文章に化するかするのみである。発見ではなく確認とその結果の言表化への移 し変えのみが、法則・事実・真理の発見の意味なのである。

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 99-105)