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煩悩を生む我執の時代

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 152-155)

第2章 ニヒリズムの諸相

2.7 煩悩の放縦

2.7.1 煩悩を生む我執の時代

金銭に関わる人間は不徳であるという近代以前の文化イデオロギー(シェイクスピ ア「ヴェニスの商人」の商業・商人像)は、近代以降は逆転する。金銭を得ることは

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善なることであるという文化イデオロギーに転じる。物質文明化のなかで社会的価値 観が転換される。個人による富の獲得や個人的幸福が善なる営みとされ、剰余価値(も うけ)を生み出し得ることは、社会的正当性を得る社会的善とされるようになった。

「金銭をもうける仕事は、上位の階級から蔑視されていた。労働の生産物の売買に よって利益をあげる手段は、すべて不名誉のものと見られていた。(略)。ところがむ かしの日本では百姓と職人という職業は軽視されてはいなかった。ただ商売だけを卑 しいものと考えていたらしい。」1(ハーン 2006, 206)

厭世的ニヒリズム観を象徴するよこしま(邪)(ユイスマン)な背理の感情・心理 あるいはそれらにもとづく行動が、競争の互いに敵対する個人主義時代の近代におい て放縦なまでに吐露され為される。近代以前なら非道徳的な悪行と非難される個人的 感情にもとづく様々な行為さえもが、今や社会的認知と正当性を得る。

個人的欲望や欲求への満足に向けた言動が盛んに自由に放縦なまでに行われるよ うになる(モーパッサンやゾラらの自然主義文学へのハーンの強い拒否・拒絶反応は ハーンの反近代意識の表現である)。個人の欲望・欲求とその充足・実現が社会的正 当性を得て制度化され組織化され、様々な産業形態を生みだす。産業革命が進展し近 代商品経済が活況を呈し、こうして商品販売・購入が著しく促進し物質文明が開化し 進展する。

近代の人々における煩悩の自己充足へ強い思いが、物質文明の<豊かな>経済の基 本的基盤であり支えであり価値観である。

「ひとりの贅沢な人間の欲望をみたすためには、千人の人間の労苦を必要とする。

労働のおかげで、おのれたちの文明からひねりだした快楽を享受している人間どもが、

労働者のおかげを忘れて、労働者を同胞でないかのような扱いをするとは、まことに 奇怪至極な話だ。」2(ハーン 1970, 132)

近代以前の共同体における人の関係を支えた儒教倫理「仁・義・礼・智・信」にもと づく「自己滅却、礼節、仁徳といった品格」3(Hearn1973,178)を人々は過剰な我執によ る煩悩のなかに見失い、人はニヒリズムという「マラリアを生む沼気の霧」4 (Hearn 1976,125)という生々しい欲望・零落・頽廃・弱化・厭世なる否定的な個人的精神性の放 縦なる個人感情に囚われて堕落し零落する。

ハーンがニューヨークにて体験した主体的享受を超える物質的恵みの過剰なる氾 濫、あるいは東京におけるような物質文明が生み出す過剰なる物質が人にもたらす疎 外状況のなかに、世界との真なる絆たるその世界の多くの意味が失われ、幽鬼のよう に修羅のようにとまどう人間生態 5(Hearn1973, 413-420)の実態が見えてくる。

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我執に根差す煩悩により自我の生み出す幻想を実在・実体視すること、犯してはな らない自由と放縦が繰り広げられる。仏教は常に実体的自我なるものの否定と自我へ の執着たる煩悩を厳しく戒めることを説く。ハーン怪談の主要テーマこそが、煩悩と 煩悩が本質的に有するその空虚性・無意味さであり人間の修羅たる迷いである。

ハーン作品「幽霊滝の伝説」、「因果話」、「悪因縁」、「雪女」、「破られた約束」、「生 霊」、「忠五郎のはなし」、あるいは「耳なし芳一のはなし」も、人間の我執(煩悩)

こそが奇怪なる事件を生む源となっている。そうしたネガティブな我執(煩悩)こそ が、近代個人主義の自由の過多のなかに、社会的抑制の箍た がが外れ噴出し社会を席巻し 尽くす。

ハーンと同時期に世紀末西欧のニヒリズムの渦中に生きたノルダウ (マックス・

ジーモン・ノルダウ 1849 年- 1923 年ハンガリー出身のシオニズム指導者、医師、小 説家、哲学者)は、世紀末西欧精神の在り方を分析するなかで、「信仰者の場合は、

教義の拒絶、超感覚的世界の否定、完全な現象論への堕落である。」と語る 6(マック ス・ノルダウ 13)。

人間は 5 感覚によって世界を経験する。しかしながらユクスキュル(『生物の目か ら見る世界』)に従うと、人間の聴覚・視覚・触覚・味覚・臭覚それぞれの感覚が及 ぶ範囲・射程には限界があり、5 感覚が世界を正しく伝えること自体に限界がある。

世界は人間の 5 感覚によるその認識を凌駕する形而上的な多様性と広がりと深さ で存在し、マクロ的にもミクロ的にも世界は多様なものを人間に提供し発信し、与え ようとしている。世界の多様性や豊かさに人間の言葉つまり概念や認識はとうてい及 ばないのである。

ハーンは、ダシエ(アンヌ・ダシエ 1654 年 – 1720 年フランス古典語学者)の霊 力についての研究を評価して、その試みを、「低俗な物質主義から人々の心を解き放 ち、人間性 humanity のより深い理解をうながそうとする」7( Hearn 1973, 87)と 語る。

「悲観主義は、と彼(論者注:世紀末フランスの高名な哲学者ジャン・マリー・ギ ュヨー)は言う、今の時代における知識の拡大に必然的に相伴って生じるものである。

それはある意味では、不可知なるものに対して無力さしか感じないわれわれの意識が 生み出したものであり、またある意味ではこの時代に普遍的なる精神的重圧の結果で もある。」8(Hean 1976,130)とハーンは語る。

やがて来る低俗な物質主義の到来とそれに伴うニヒリズム的時代精神を、ダシエが かつて鋭く予言し指摘をおこなったのである。

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「かれは、そういう文明を憎んだ。恐ろしい、すべて計算ずくめの機械主義を心か ら憎んだ。功利的ながっちりさを憎んだ。その常識を、飽くことを知らぬ貪婪を、盲 目的な残忍さを、底なしの偽善を、欲望の不潔を、その富の傍若無人さを憎んだ。 現 代文明とは、一つの大きな豹狼的争闘であった。」9(Hearn 1967、227)。

ハーンは人間の言葉による認識の限界を超える不可知界、つまり形而上界・霊界と のつながりと霊界の神聖なる豊かな理想をー限界ある言葉のその限界を超えて超自 然的にー彼岸世界・霊界へ超越して求めまた問い続けたのである。ハーンの作品は怪 談ではなくむしろ世界の真理、人間の真なる言動、世界と人間との真なる在り方を示 し、失われつつある意味を理想的生と存在という形で提示する試みなのである。

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 152-155)