第 1 章 近代の共同幻想
1.4 時計の時間ー物象化される時間
1.4.1 時計の時間の脅威(疎外)
シュニッツラー(アルトゥール・シュニッツラー 1862ー1931 年 オーストリアのウ ィーンにて世紀末に活躍した印象主義作家)は、世紀末ウィーンの人間の在り様を深 層心理の観点から陰影ある印象主義的詩風のもと見事に描いた作家である。彼の『die Toten schweigen 死人に口なし』1(Wiese1974, 54-67)は、近代的な時計の時間が 人間を疎外し拘束する脅威を描くものである。
主人公である人妻エンマは、若き恋人フランツとのウィーン市内での逢瀬(不倫) のさいに、二人で Fiaker フィアカー(ウィーン独特の2頭仕立ての辻馬車)に乗る。
夜になる頃その馬車はウィーン郊外にて突然事故を起こし、エンマは意識を失い馬車 から放り出される。意識が戻ったエンマは自分が無傷であることを知り、近くにいる
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はずのフランツをただちに探す。果たして彼は彼女のすぐそばの地面の上に意識を失 い死んだようになり横たわっていた。そのフランツの耳元をゆっくり流れ落ちる一条 の血を見たエンマは、フランツの死を推断しその事故現場から逃げ去る。
ウィーンの自宅に夫が帰宅する前までには戻らなければならない、という思いがエ ンマを激しく追い立てる。「さもなくば(sonst)」、事(不倫)が発覚し、家庭の幸福 も自分の存在もともに破滅することになるという不安が彼女を襲う。事故のさいに腕 時計を失ったエンマは今の時間の確認を行うことも出来ず、今が何時か分からないま まフランツが横たわるあの事故現場から逃げ続ける。
エンマは夫の帰宅予定の時間に迫られ追い立てられ、夜の闇の中をウィーンの自宅 に向けて急ぎ走り続けまさに時間から逃げ続ける。途中人に発見されそうな危険な場 でも、エンマは道路端の土手の闇に身を隠しなんとか逃れる。
しかしエンマはこうした激しい不安と焦燥と煩悶のなかで、人に発見されそうな幾 度かの危機を逃れてウィ-ン市内にさらに自宅まで、誰からも不審がられることも見 とがめられることもなく無事にたどり着く。エンマが急ぎ服を着替えるなどして食堂 に入った直後に、夫は帰宅する。
万事うまくいった!。すべては終わった。こうして小さな一人息子と 3 人でのいつもの 幸福な団らんの時間となる。
しかしあたたかく静かな食堂で時間を過ごすうち、危機を逃れ切った安堵感や事故 以来の緊張からの解放感、走り続けた結果の激しい肉体的疲労とで、エンマは息子を 抱きながらうたたねを始めてしまう。そのうちに彼女はいつの間にか夢を見始める。
事故のこと、事故現場から逃げる自分のことが次々と夢に現れる。そのうちに、自分 が現場からフランツを残したまま逃げた事実をきびしく責める声が夢のなかで聞こ えてくる。その声に応えるかのようにエンマは、「Die Toten schweigen!(死人に口 なしなのよ!)」という言葉を、夢のなかで思わずささやいてしまう。
しかしエンマはその言葉を―どのぐらい強くかは分からぬが―夢のなかではなく 声を出し実際に叫んでいたのであった。その言葉をしかもさらに 2 度目につぶやいた 時、その「死人に口なしなのよ!」という言葉がエンマのすぐそばに座る夫の不審を 呼ぶ。最終局面で、エンマの命運は尽きるのであった。
近代の時計の時間は、生きる人間の多様な感性やその多様な環境の中での存在性 に関係なく、つまり人間を包む内面のあるいは外面の状況とは全く無関係に機械的に 冷酷に進みゆく。時計の時間は時にはみずからに従うべく人に迫り、拘束し、威迫す る。それは人間に服従を求め、拘束し呪縛する暴力的性格さえも有する。
永遠に直進するのみの近代的時計の時間が、事故現場から逃れてウィーンの自宅に 戻り着くことをエンマに強いたのである。時間のその威嚇が、事故現場から逃れた挙
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句の激しい肉体的負担と疲労そしてそのためのエンマのうたた寝と、最後にはエンマ に夢をも誘い出したのである。つまりエンマの悲劇の原因となったのは時間―時計の 時間―の恐ろしい物象化の牙であったのだ。
西洋及び日本の近代美術史研究家高階秀爾(1932~)は人の時間感性について、フラ ンス世紀末時代を例に語る。「19 世紀末から 20 世紀初頭にかけての時代と言えば、人び とはただちにあの“良き時代ベル・エポック”という懐しい名称を想い出すにちがいな い。」彼はさらに、産業革命の大成功がもたらすフランスの繁栄のさなかにある人とその 時代を評して、「幸福な人は歳をとらないという。幸福な時代もまた年をとらない。」2(高 階 2008, 64)と語る。
満ち足りた環境と人の心との幸福なる蜜月的状態のなかでは、時計の時間はそのなか の人間にとっては成立せず時間は失われているのである。
「その頃夏の日は今と変わりはなかったー眠気を催うような物憂げな青い空が、どこ までも広がる。鏡のような海面の上には、純白の雲が雲間から時折陽光を降り注ぎ浮か ぶばかりである。その頃はまた、丘も今と同様に青々とはるかに広がり、柔らかな輪郭 を帯びて風物が青空の中に溶け込むばかりであった。風も眠気に誘われるかのようにそ よとも動かなかった。」3(Hearn 1973, 3)
ハーン作品‘The Dream of a Summerday 夏の日の夢’の冒頭は、熊本近郊の三角西港で のハーン自らの体験を語るものである。その地の港に面する西洋式ホテルの女将(山下 芳)はあたかも竜宮城の乙姫のような麗人であり、果たせるかなホテルは浦島屋という 名の浦島伝説に適う美しいホテルであった。かくして三角西港の真夏の午後の穏やかな 時間と空間とは、ハーンにとって、亀に乗る浦島太郎の、幸福な時間の漂う竜宮城への 旅立ちの時間と空間とに重ね合わされている。
「まもなく青年も釣りをしながらうたたねを始め、舟はいよいよ海の流れに漂うままと なった。」4(Hearn 1973,5-6)
変化があるばかりで時間は求められもせずまた見出されてもいない。穏やかな環境と の穏やかな深い合一感情による一体化が実現されているのみである。海面の神秘的律動 が生むかすかな波動に身を任す快い漂いが続くのみである。そのなかでは、浦島にはつ まりその風景に包まれるハーンにおいては、時間への意識は生起していない。世界は人 間にとって無時間なままである。
環境が自己の精神と肉体にとって宥和的関係にある限り、時計の時間の意識は発生し
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ない。大地宇宙的リズムの緩やかな波動に揺籃のように揺られながら漂い流れるなかで は、つまり人が環境にあるいは環境が人にお互いに適いそしてそぐう状態のなかでは、
人間は時間を、時計の時間を忘れ、無時間的なままに世界の中に違和感なく包まれ今に 陶酔し没入するのみである。竜宮城での幸福なる生活にあっては時間は存在しなかった。
しかしやがて浦島が竜宮城を去り故郷の村に戻り着いた時、眼前の村への激しい違和 感に浦島は襲われる。その時初めて浦島は自分が不在にしていた時間の経過を意識する。
つまり浦島が乙姫との約束を破り玉手箱を開き、その煙りを浴びた途端、竜宮城では 潜んでいた時計の時間が、その封印を解かれる。気も遠くなるような長き時間が一挙に 彼に襲いかかり、若き浦島は直ちに恐ろしいまでの超老齢の老人に化する。故郷の岸辺 を出て竜宮城にて過ごしそしてまた故郷の村に戻るまでに経過された時間が、浦島の肉 体的変貌となって一挙に立ち戻り外化したのである。
至福の状態が破れ、世界と自己との関係に断層が生じ、近代の時計の時間が回帰し、
積み重なっていた近代の時計の時間が浦島の身体を走り抜けたために、彼は大変に高齢 の老人に変貌する。
浦島が亀に乗って故郷の村を離れる時、浦島は自然・世界という環境との心地よい一 体化を得て、自らの時間の概念を封印し捨て去ったのである。浦島が故郷の村に戻り外 的環境に時計の時間による経過をふたたび実感し、玉手箱を開きその煙を浴びた時にこ そ、時間の概念がその封印を解かれて再び外的に出現する。
近代の時計の時間はどこまでも自己にそぐわない外的な存在であり、それは自己に本 来は内属しないものなのである。環境と自己との間に断層が生じる時にこそ、人は時の 流れつまり時計の時間とその経過を意識するのである。