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アーラヤ識―煩悩と縁・縁起

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 193-196)

第3章 ニヒリズムの超克―個我から共同へ

3.4 唯識論

3.4.2 アーラヤ識―煩悩と縁・縁起

唯識論は華厳経の非常に強い影響下で形成されたものであり 1(ヴァスバンドゥ 1983, 233)、そのために唯識論と華厳経とは非常に接近する考え方をもちともに大乗 仏教の基本的理念の形成に貢献するものである。

大乗仏教自体が小乗仏教に対する新たなる運動として、西暦一世紀前後に編まれた 般若心経から続々と誕生した 2(岡野 2009,23)がゆえに、大乗仏教各派の考えやそ の宗教性に系統的統一的性格が共通する。また唯識論は大乗仏教全体の基本的かつ共 通する叡智を礎石とするものであり、その意味で唯識論は大乗仏教そのものの象徴的 信仰形態を現わす宗教性を有する。つまり大乗仏教の哲理をより深く考究する宗教性 を唯識論は有している。

唯識論は、世界に唯一存在するものは識つまり心のみであり、現象世界とは心が生 み出すものであり、真実には心の外の世界もものの存在もない(唯識ゆ い し き無境む き ょ う)3(注釈:

「唯識無境」)と教える。人の目の前に広がる世界とは心のアーラヤ識が生み出す心 の中の世界であって、それは心の外に広がる世界ではない。その世界とは、心が作っ た心中の世界に過ぎないのであり、人が見えると思う世界は、アーラヤ識が煩悩によ り生み出す心の幻想にすぎないと考える。唯識論は涅槃寂静による煩悩の滅却を大乗 仏教の中でもとくに強く求め、煩悩からの脱却を中心的に志向する宗教性をとくに強 く持つものである。

唯識論は、心には 6 識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識、つまり般若心経がいう

「六根」)その下部に無意識のマナ識(末那識)とアーラヤ識(阿頼耶識)があるとする。

つまり5感覚と顕在心たる第 6 識の意識と、無意識のまま深く潜勢せ ん せ い (隠れひそむ)する第 7 識マナ識(未那識)と第8識アーラヤ識(阿頼耶識)4(アーラヤ識(阿頼耶識)注釈) という2識の潜在心からなると考える。このなかでとくにアーラヤ識は、他の識を生み 出しまた他の識とともに世界をー正しくは世界の影をー生み出す根本的な識(本識)と される。

アーラヤ識には、自己・客体存在を実体化しようと仮構(虚構)する潜勢力と,さ らに前世のすべての営みの業(カルマ)の潜勢力とが種子し ゅ う じとしてその心の深層部に宿

り(薫習く ん じ ゅ う)、アーラヤ識が主体にとっては無意識なままにその種子から様々な煩悩を

絶えずー継起的にー生み出し続ける(ハーンがいう遺伝的記憶の場)とされる。その業 ととともに今と未来に向けた余習(現勢的な、つまり具体的に現れ出る内容)もアーラ ヤ識に宿され、こうしてアーラヤ識はみずからの潜勢力としての種子と現勢化される 余習とをマナ識へと転換(転識)し、マナ識にて種子と余習とが自己の我執を生み我 執が煩悩となる。マナ識が我痴・我見・我慢・我愛の四つの煩悩を生み出して、―本 質的には幻想たる―外界の実在に対する強い自我執着にもとづくさまざまな煩悩の

194 行為(業)を起こす。

「表象はその潜在的な経験の余力が現勢的になったときにあらわれるのであって、外 界の対象の認識によって形成されるのではないというのが唯識説である。」5 (服部・

上山 2003, 76)

西欧思想の基本軸たる人間の内面と外面との関係・影響の考究に対し、東洋思想と りわけ大乗仏教は内面における哲理の考究に向かう。大乗仏教の語る世界とは心の中 の世界であり、外的世界は空無である。

それに関しハーンは以下のように語る。

「夢の中で触れられという驚きが、全人類が幻に取り付かれる経験との接触の場こ そが夢であることを教えるものである。その場は、自己のなかの深き場所―太陽の命 を与えるいかなる光線といえども届かない深所―であるかもしれない。それはまた、

眠りに包まれるなかで奇妙にも目覚め立ち騒ぐ場であるかもしれない。そして、その 闇のなかからこそ、何百万年間もの無限無量の記憶の発する蠕動がただちに夢となっ てそれに応ずるのである。」6( Hearn 1973 , 172)

人間の認識とは、近代の諸共同幻想も含めて、人間の心の最下層の無意識界にある アーラヤ識が蔵する種子・余習から生まれる。それが他7識の変化・展開(識転変) のなかから、意識に浮かび出て(異熟)映し出るという。つまり認識とは「心の中に 浮かんだものを心が見ている」7 (多川 2012,160)事態である。現実界の印象とは、

アーラヤ識における過去の業が種子となって蔵されているその種子の目覚め(転変)

により生み出される心の幻影であるというのである。さらに人の一切の現世での営み も現世なるものも、アーラヤ識が転生した心の幻想であるとされる。

世界一切の眼前にあるものも世界についての認識も思念も、一切が人の心のなかで、

種子相互の縁起による結びつき・つながりのなかで生じる(依他起性)その結果であ るという事である。であるがゆえにこそ唯識なのである。

言葉、時計の時間、遠近法、世界、自我等、本来は無であるものを有と思い違うこ とは人間の表象にしかすぎず、煩悩が生起する我執による妄分別(誤った幻想)なの である。主観的な形状で浮かぶ幻想的な概念への主観的こだわり、つまり人間主観の 生み出すものを実体としてその実在に執着するの遍計所執性へんけいしょしつせいの存在形態であり、そ のように存在しないものを実在視・現前視するのが、煩悩の実態であり本質なのであ

195 る。

「西洋人が、人間の感情のうちで最も強いものとしている妻子への愛情を、東洋人 は、これをひとつの我執と断定しているのだ。」8(ハーン 1955, 105)

西洋における家族愛は、近代以前のあるいは東洋の観念にあっては、個人の利己主 義の現れとしての我執・煩悩と判断されるとハーンは語る。

またアーラヤ識こそが縁・縁起そしてカルマさらに輪廻というブラフマン的宇宙的 自己の種子の場であり、アーラヤ識と視覚・触覚・聴覚・味覚・臭覚の 5 識との関係 から縁・縁起・カルマさらに輪廻が、生み出されるという。つまり人間の心の深層部 にこそブラフマン的自己つまり仏性(ハーン)が潜勢的につまり潜在的にある。見え る世界は決して心の外にあるものではなく、あくまでも心のアーラヤ識にあると唯識 論は考える。

一方では心のアーラヤ識はネガティブな心の活動の源でもある。アーラヤ識にて蔵 される種子・余習がマナ識にて異熟(識転変にともなう変化)される場合には、我執 となり煩悩を生み出す。煩悩こそが悪的業をもたらし、人に迷いを導く。マナ識にて 生まれる我癡、我見、我慢、我愛という4種の煩悩こそが、「仏道を歩む上での障り となる濁り」を生み出すのである 9(多川 2012,23-24)。

一切が人間の主観の為す我執から生まれるのである。人間に普遍的に内在する煩悩 による囚われの幽霊(マナ識が煩悩の我執として生み出した表象)が近代の諸共同幻 想であり、人間の主観的な随意の概念を実体化する錯誤も、我執による煩悩がなせる ものなのである。

「すべての人間は何らかの美の理想なるものを遺伝により受け継いでいる。美の理想 が明確なものであれぼんやりしたものであれ、それは、血縁によって受け継がれた無限 無量の印象の累積体にして、前世での無数の記憶のかけらから合成された有機的記憶

(organic memory)の結晶体なのである。」10( Hearn1973, 149)

人間はものの本当の大きさ、小ささなるものを感覚的に知ることなどはできない。人 間の心が、ものの大きさあるいは小ささを有機的記憶のなかから相対的に生み出し、人 間の心(アーラヤ識)がそれを心の中に映し出し、大きいものあるいは小さいものと拡 大・縮小しつつ具体的像を作り世界の中に当てはめて、事物の大小を判断する。人間が 物体の大きさを推測できるのは、アーラヤ識に以前の体験が種子として宿り(記憶され)、 その記憶が人間の心のマナ識にて異熟しその結果として映るイメージによるのである。

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このように唯識論は世界を心の働きのその結果としての心の像と考えるのである。

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 193-196)