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物質・物質現象という幻想

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 63-71)

第 1 章 近代の共同幻想

1.5 物質・物質現象という幻想

63 り』と。」10(ハーン 2009, 255)

時間は空無なのである。それに気付くことが空観に至る階梯での歩みなのである (後述)。

64 じめて知り彼らは深く恥入った。

見えないものに比した見えるものたる物質に対する否定的認識が、西欧形而上学に 一貫して流れている。見ることそして見えるもの(物質的存在)を劣位的に把捉する西 欧的価値観の原点を示すのが、この失楽園神話である。見えないものが神聖で清いも のであり、それに対し欲望(物欲・肉欲)の対象で見えるものである物質存在は、近代 以前の西欧において不浄で不毛な劣位の存在とされた。

世界におけるものの姿・形を一切否定し空論を唱える唯心論は、「三界は唯だ心の みである」として、「煩悩なき智慧」2(ヴァスバンドゥ 1983, 200 ,232 および注釈

「三界は唯だ心のみである」)の悟りを涅槃寂静の心に求める。見えるものから見え ないもの、つまり姿・形ある物質存在の世界から仏教の真如(真理)の叡知を求める超 越こそが、仏教信仰の本質とも言える。

人間の不浄なる煩悩ゆえに映え見えてくるものが物質存在であり、物質存在とは、

現世に生きる者の煩悩の心が生みだす一見実在するかのような、しかし実体としては 存在しない空無の幻想体なのである。煩悩こそが姿・形あるものつまり物質を求め、

煩悩こそがその像を作り見い出す源であると、唯心論は考える。

ものから形而上学的神聖さや形相(アリストテレス)という精神性が除去され失わ れ、それ自体では無意味で無機的なる物質存在が残される。物質文明こそが物象化さ れた無意味な可視的物体を生み出し求め続ける文明なのである。

近代の共同幻想のうちの物質観は、近代を支える根本的で社会契約的な普遍概念であ る。近代を切り開く産業革命の躍進を生み出し支えた科学技術の知と力への畏敬感や崇 拝感そして満足感が、時とともにますます高まる。それまで非神聖で不浄なるものであ った物質(物質現象)に、近代の人々は自らの生と存在の目標、意味、根拠を置き、より 豊かで快適な生と存在への夢と期待に物資を介し人生を掛けるに至る。

今・ここに具体的に眼前化されているもの、人間主観に直接に応えそして具体的に映 えるもの、人間の感覚に即物的な満足感を与えるもの、そうした物質(物質現象)こそ が今や実体たるものとされ、絶対的価値を有し崇拝されるに至る。空虚なる空洞たる物 質と物質現象とくに商品・貨幣が、狂奔する物象化のフェティシズムの神々として崇め られることになる。これは時代精神の人間化(incarnation)による精神から物質への実体 観の逆転である。

マックス・ノルダウ(1849-1932 年ハンガリーの小説家、哲学者)は、19 世紀末の 第二次産業革命により重工業が人々にもたらす物的欲望逆巻く時代(そのヴィクトリ ア朝イギリスはー皮肉にもー黄金時代と語られる)の人間模様を、堕落、頽廃あるい は変質として批判し、その卑俗なる生と社会の実情を、「世紀末―『変質論』」のなか で克明に描いている 3(ノルダウ 2002, 129~178,および注釈 秩序の終焉)。その中

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で彼は、「信仰者の場合は、教義の拒絶、超感覚世界の否定、完全な現象への堕落で ある。」 4(ノルダウ 2002、134)と、当時のキリスト教信仰がかつての絶対性を失う 宗教事情に触れて述べる。

人々における物質存在に対する物的欲望、物質存在が人々を煽り駆り立てる物的執 着の、過剰にして尽きることなき再生産こそが、資本主義的近代の実体であり本質で あり基底でさえある。物質存在が物神化される崇拝・信仰のなかで、空虚にして零落 した堕落の闇が社会全体に果てしなく広がる。プラトン以来の西欧の伝統的精神にお いて常に否定的存在であり続けた物質存在への崇拝が、人類史上初めて人の心そして 社会全体を根本的にあまねく支配する時代、そうした近代とは、人間にとって神格化 された物質存在による人類史における異常なー空虚で無意味なるー物質の時代なの である。

1.5.2 空虚なるもの

「どれほど堅固に見える重い金属であっても、それは原子を組み合わせたものにすぎ ない。その原子も我々がこれまでに分かったことによれば物質的な存在などではなく、

力の中心(centers of force)としか考えられないのである。そしてその力というもの が何なのかについて我々は知ることが出来ず、決して知り得ないのである。バークレ ーの言った仮説をもはや一笑に付すことなどできないのである。」1(Hearn, 1960, 63)

ハーンにとって物質は、究極的には「力の中心 centres of force」という形而上 学的な空無の広がりである。どれほど堅固に作られた物質でも、究極の素粒子の段階 に至るなら運動性(震動)という非実体的な空無の場としか存在論的には言い得ない のである。空虚なる根拠が物質の究極の実体なのである。

言語哲学者ソシュールは、「言語(つまり言語の状態)には差異しかないという原 理です。」、あるいは「厳密に言うと、記号などなく、記号間の差異しかありません。」 2(ソシュール 2009,176)という。差異あるがゆえにその差異を伝えるためにのみ言 葉を作り、言葉の差異により世界を知る。差異により言葉は生まれ、差異をもって人 は言葉を個別に使う。

水という言葉は、水が氷や水蒸気という項同士の関係において、氷や水蒸気ではな い独自の個性的差異を有する存在たる水を意味するのである。また水という物質存在 の特性・特徴が認識されそれらが維持・確保されるのは水分子までであり、水原子と いう名前もそうした物質も存在しない。それは関係性の差異が与えられるのは水分子 までであり、水は原子に至ると他との差異関係がもはやないために、水原子という言 葉は、言葉としてもつまりは物質そのものとしても存在しなくなるためである。

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何かがもの同士を結びつけることで、無から個々の有が、個々の有から別の個々の 有が生み出される。その何かとは、無が有と有が別の有となる理由、条件、原因とい う因果関係を作り出す仏教がいう縁・縁起である。つまり仏教的に言っても物質の根 拠は空なのでありかつあるようだが無いという空無である(「物質は、それ自体にお いて何らかのかたちで存在するものだという保証がまったくないのは、――実に驚異 的な一つの事実です。」3(ハーン 1988, 301))

「『車』とは、 轅ながえ・車軸・車輪・車室・車台に依存した相対関係のもとにて、はじ めて呼称・標徴・記号表出・言語的通念・名のみのものとして成立するにとどまり、

それ自体としての存在はないのでございます」 (「バクトリア王国のメナンドロス王 と仏教僧ナーガセーナの対話編『ミリンダ王の問い』)4(服部・上山 2003, 90-91)。

「人間が物と名づけておりますものは、これはただ、人間の五官、知覚の総計した ものなのでありまして、もともと人間の心に映ったまぼろしにすぎないのでございま す。」5 (ハーン 2009,326)

物・物質・物質現象は外部から心に感覚的にのみ映るものであり、その実体は人に とって不可知であるということである。こうした本来的に究極的に空無なるものが、

物質・物質現象という見える様態に至るのは、縁・縁起さらにはハーンのいうカルマ がそのように成り立たせているためである。

人間も物も大地・大気・太陽とすべて繋がってはじめて存在し得ている。すべては 全体の部分として繋がっている(一如)のであり、個々に差異ある万有同士が緻密に 重なり合ってつながり続ける相対的関係(縁・縁起さらにはハーンのいうカルマ)こ そが、見える世界の究極の真なる成り立ちなのである。

つまり相対の因果の関係(縁・縁起・カルマ)という無たるものによって有たる物が 生まれるのである。物質(物質現象)とは組み合わせの関係性から成り立つものであ り、それはどこまでも非実体的なる空無なのである。

「西欧人が今日もっている神という観念は、じつは幽霊に対する原始的信仰から発 達したものだと教える進化哲学を認めるならば、幽霊という言葉を神にもちいても、

べつに非難するにはあたるまい。(略)。われわれが昔から物質的な固体と考えてきた ものが、じつは本質的には霊的なものだったという、明白な証明であったといえる。」 6(ハーン 1973,332)

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物質の究極の姿は霊性であり、非実体の空虚なものつまり無なのである。無が有に 見えるのは縁・縁起・カルマの因果関係のなせるものであり、つまり物質・物質現象 はその構成・成立の一切にいて無なのである。

1.5.3 人のメッセージを伝えるもの

物質存在とは実在する実体ではない。物質・物質現象とは、物質存在の有する存在 の意味(存在の目的)のメッセージを人に伝えるために、物質同士が組み合わされた 記号表現体なのである。

「私たちは怒りを赤い顔で表しているのではなく、赤い顔そのものが怒りである」1

(丸山 1987 ,10)というように、赤い顔という物的存在によって内的心的なる怒り のメッセージが伝えられるのである。リンゴという物体は、見る主体に対しリンゴ自 らの意味(例:リンゴの意味、存在目的のみならずその食べ方、価格、本質等)を告 げ・示すものである。

そもそもすべての物質存在(山にせよ海にせよ)は、商品・製品という物質存在は もとより人間の精神が物象化された道具的存在者 2(ハイデッガー「道具的存在者」

の注釈 1)、2))であり、それらは人間からのあるいは人間に対するその意味やその存 在の目的や関係性のメッセージを、物質自らにおいて人に示し打ち出す記号存在なの である。

ハーンの作品に「鳥取の蒲団」という名の再話作品がある 3(ハーン 1973,116-119)。

むかし鳥取の町に貧しい家庭の二人兄弟がいた。彼らの両親が病死した後収入は途絶 えその生活はますます貧窮する。やがて食べ物を得ることも家賃も払うことも困難な 状態に至る。

ついにある晩家主が家賃の最終取り立てにやって来て、その二人の最後に残ってい た一枚の布団を取り上げ二人を追い出す。やむなく二人は冬の降雪の中、街中をさま よい始める。しかし戸口を二人のために開けてくれる者も、また入り込む場所も見つ からず、二人は雪の降る中を抱き合いながら真白い雪の蒲団にくるまれて死んでいく。

二人の遺体は近くの寺にて葬られ弔われたという。

二人のその蒲団は悪大家からただちに売られて、古手屋や道具屋を経てある宿屋に 買われるに至る。やがてその宿にたまたま泊まった客から、蒲団から夜な夜な奇妙な 声が聞こえて来るという苦情が寄せられる。「兄さん、寒かろう?」「おまえ、寒かろ う?」という二人の男の子の声が、何度も何度も蒲団の中から聞こえるというのであ った。

そこで兄弟を弔った寺にその蒲団は寄進され和尚がその蒲団にお経を上げて以来、

蒲団はもはや何も言わなくなったという。

ハーンのこの再話作品「鳥取の蒲団」という名は、実体的な蒲団たる意味をもたな

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