第 1 章 近代の共同幻想
1.4 時計の時間ー物象化される時間
1.4.2 時計の時間の相対性
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ない。大地宇宙的リズムの緩やかな波動に揺籃のように揺られながら漂い流れるなかで は、つまり人が環境にあるいは環境が人にお互いに適いそしてそぐう状態のなかでは、
人間は時間を、時計の時間を忘れ、無時間的なままに世界の中に違和感なく包まれ今に 陶酔し没入するのみである。竜宮城での幸福なる生活にあっては時間は存在しなかった。
しかしやがて浦島が竜宮城を去り故郷の村に戻り着いた時、眼前の村への激しい違和 感に浦島は襲われる。その時初めて浦島は自分が不在にしていた時間の経過を意識する。
つまり浦島が乙姫との約束を破り玉手箱を開き、その煙りを浴びた途端、竜宮城では 潜んでいた時計の時間が、その封印を解かれる。気も遠くなるような長き時間が一挙に 彼に襲いかかり、若き浦島は直ちに恐ろしいまでの超老齢の老人に化する。故郷の岸辺 を出て竜宮城にて過ごしそしてまた故郷の村に戻るまでに経過された時間が、浦島の肉 体的変貌となって一挙に立ち戻り外化したのである。
至福の状態が破れ、世界と自己との関係に断層が生じ、近代の時計の時間が回帰し、
積み重なっていた近代の時計の時間が浦島の身体を走り抜けたために、彼は大変に高齢 の老人に変貌する。
浦島が亀に乗って故郷の村を離れる時、浦島は自然・世界という環境との心地よい一 体化を得て、自らの時間の概念を封印し捨て去ったのである。浦島が故郷の村に戻り外 的環境に時計の時間による経過をふたたび実感し、玉手箱を開きその煙を浴びた時にこ そ、時間の概念がその封印を解かれて再び外的に出現する。
近代の時計の時間はどこまでも自己にそぐわない外的な存在であり、それは自己に本 来は内属しないものなのである。環境と自己との間に断層が生じる時にこそ、人は時の 流れつまり時計の時間とその経過を意識するのである。
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となるのである。時計の時間とは実に相対的存在である。
瞬間が 18 分の1秒という認識は、宇宙的大地が人間の身体感覚に対して与える刻印(律 動)を、人間主観が恣意的に編み出した(ハーンは「征服した」というー上述)時計の時 間による主観的認識である。人間は、人間にとっての瞬間が 18 分の1秒という主観的で 恣意的なかつ相対的な時間幅により表現されるような、宇宙・大地の環境条件の中に包 まれ、環境が与える条件のなかに生きているのである。
人類の歴史意識は、時間が過去→現在→未来へと直線的に進むとするユダヤ・キリス ト教的時間意識に即応して人為的に造り出されたものである。ハーンは、上記のように
「空間と時間を人間は征服した(vanquished)」3(Hearn1973, 183)という。
変化し生滅を繰り返す人類の時代的・社会的営みを、人間は過去-現在―未来へと分 節化し振り分け、歴史の過去→現在→未来への直線的流れを、しかも人の右手の方向に 流れる流れとして自明視し、そうした流れを動かし難い事実であるかのように普遍化し 錯覚する。歴史事象の変化の質や量あるいは変化の大きさや幅を定性的に問うことなく、
過去→現在→未来の単純な流れへと分節化し機械的に定量化する。時計の時間とは、き わめて任意的で人為的な自然・大地・世界の擬人的に言えば「征服 vanquish」(ハーン)
者なのである。
歴史意識における過去-現在―未来という時間区分は、世界・歴史における人間意識 の定点化のための人為的な範疇での時間枠設定である(時間の定量化)。歴史的事実の背 景や影響さらには歴史的積み重なり等の点を考えると、歴史事象を過去-現在―未来に 明確に範疇化することも、また3者間の過去→現在→未来という右手への直線的な流れ の根拠もまた不明である。
そもそも歴史も過去もさらに未来も存在しないとも言える。また時間が未来から過去 へと流れることも、また歴史的時間が右から左へと逆に流れることも考えられる。人類 史さらには地球史の出発点からの一切の事実が今に積み重なり、そのような今が過去を 自己内に多く包含し続けるなかで、未来へとより大きな時間スケールとなって移動・移 行し拡大し続けるとも言える。さらに歴史的時間などはなく、すべての時間は今の瞬間 的時間の無限の無機的な連続と考えることも出来る。
時計の時間とは古代の日時計や砂時計や水時計といった器具・機械に始る人工的時間 である。太陽光の影の空間的移動距離の幅をあるいは砂時計の砂や水時計の水の単位時 間における落下量を、時間的に分節化し区分し、人間が主観的に物象化したものである。
時計の時間とは、人間が任意に編み出し世界に対しあてがった人間による世界を一元的 に無機的に図る技術なのである。
近代の時計の時間は、自然あるいは世界の時間の多様性や個性を無視し、近代科学に 特有の等質かつ均質に刻まれた無機的で定量的に分節化された抽象的な時間幅を示すた
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めのあるいはそれらを示すことによって成り立つものである。任意の瞬間の無機的な積 み重ねが流れとして錯誤されかつ恣意的に翻訳されたものである。
その時間は流れるということを前提とし、その流れを空間的幅に寸断し視覚表現化し て可視化した二次元記号が時計の時間である。時計の時間は物象化された時間であり、
人間にとって非生得的な人工的概念であり、それゆえに外的要因により意識が時間や時 刻を求めまた必要と強制する条件のもとで、人は時計の時間を言葉の無から有を生み出 す魔術力(既述)により過剰物として対象化(物象化)するのである。
時計の時間は人間の身体や身体感覚に内在するものではない。それは外的に物象化さ れることで生まれる外的現象の幻想である。時計の時間とは人間にとって生得的(ア・プ リオリ)に必要とするものではなく、それは人間にとって後天的な不自然で非本来的なそ れゆえに異物的なものなのである。時間と空間はハーンが言うように恣意的に生み出さ れ物象化された幻想存在である。それゆえに時計の時間はまさにエンマの体験における ように、外的に拘束され威嚇され強制される疎外感覚を与えるものなのである。
カント(イマヌエル・カント 1724 年―1804 年 ドイツの哲学者)はとくにその 3 批 判とよばれる『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』によって人間認識につ いての体系的分析を行い、近代的認識論に大きな影響を与えた。そのカントが言うよう に、時間と空間という形式・範疇は人間自身にア・プリオリ(先天的)に内在化される人 間に固有のものである 4(「コペルニクス的転回」注釈 1) 転回という意味、注釈 2)主 客の逆転)。しかしカントが述べるその時間とは時計の時間ではなく、人間の事物認識を 機能させる人間に固有の内的環境条件に過ぎない。それは事物の有無等についての存在 論的意味の概念ではなく、認識論での理念的な仮説に過ぎない。
浦島太郎伝説では浦島が亀に乗って海岸から竜宮城へ向けて離れた時から、同じ ように竜宮城から亀に乗って故郷の村に戻るまでに経過した時間を 400 年とする 5
(ハーン 2009, 15)。この 400 年間という時間は実証的な根拠のない無意味な数字で ある。「時間というものも相対的な観念に過ぎないかもしれないが」6(ハーン 1987, 362)とハーンは語る。相対的とは実体的根拠・意味を欠く空無という事である。時 計の時間とはどこまでもまたいっさいの実体的意味をも持たないものである。
1.4.3 実体的時間―持続の概念
岩田慶治(1922 年-2013 年 文化人類学者)は自然なる生き方と存在を自然フィール ドワークのなかに体験し考究した。彼のアニミスティックな自然観は、近代的知の地平 を超える形而上的宇宙的豊かさに満ちている。その岩田は異文化体験のなかで真なる時 間の生命的自然的な印象を以下のようにまとめる。
「時間もわれわれの衣装と同様に、さまざまな柄、模様、表情をもっているととも
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に、地、あるいは生地、あるいは本質をもっている。」「われわれは日ごろ、時間の柄 にこころを奪われて、そういう時間のとりこになっているが、ときには柄よりも地、
衣装よりも人、身体よりも魂という立場に立つことによって、深くたたえられた時間、
海底の水のような静けさを味わうことができる。」1(岩田慶治 1995,403)
自然のなかに息づきひそむアニミズム世界の自然の風貌が感じられる。時間のあり のままの姿が時間の表情として現出している。そうした多様で豊かな生命的時間の表 情に対し、近代の時計の時間はあまりに無機的で機械的な表情しかもたない。
その時間は日時計の時間進行の空間的幅にもとづく物理的な幅・量の定量的時間で ある。その一方で、近代以前における自然やその季節の運行に合せた農事暦あるいは 自然暦による時間は、定性的で質的な時間である。それは人間の喜怒哀楽の感情に循 環的によくかなう多様で可変的な表情を有し、また岩田も言うように有機的な生き生 きとした表情にも満ちている。
「蚊か蚋のようなわたくしの小さな魂は、ふとそのとき、海と天日とのあいだに棚び く紺碧の夢のなかへさまよい出て行って、千四百年まえの三伏の夏の霊気の中をくぐっ て、やがてかの住の江の岸べへと、ぶーんと舞い戻って行く。わたくしのからだの下に は、おぼろげながらも、たぷりたぷりと揺れる小舟の動揺のようなものが感ぜられる。
時は雄略帝の御宇である。竜宮の乙姫が、鈴のようなすずしい声でいうのである。(略)。 はっと思って、目がさめると、身は明治 26 年の夏の土用さなかにいる。」2(ハーン 2009, 19-20)
農事暦あるいは自然暦は大地宇宙の循環するリズムと人間主体とが宥和・共生する時 間と言える。自然の中に存在する人類の生きる活動の折節に祈念し畏敬し一体化する。
人間存在が大宇宙的大地に住まう循環の定点(座標点)となるべく、大地的宇宙的世界 という大いなる客観と、大地的宇宙的人間(ブラフマン)という「大我」(ハーン)の大 いなる主観との両者が一体化する神話的質を帯びる。それはまた人間自己を超え自己を 包み自己を支える宇宙大地を貫通する真の時間なのである(「時計の時間」を時間とする のは近代的錯誤なのである)。
それは時計の時間におけるような時間そのものとして対象化することの不可能な、ま たそれがあまりに不遜と思わせるほどに、人を包み込み受け入れる雄大な大自然の時間 である。大地宇宙自身が主体的に刻み生起する自然現象を人間がいわば神話化(意味化) した時間が農事暦あるいは自然暦である。それは人間のものではなく、人間が畏敬的感 情を以て意味化し解釈し理解する宇宙大地のなかに貫通する循環のリズムなのである。