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人間主観による世界の単純化・均質化

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 77-80)

第 1 章 近代の共同幻想

1.6 世紀末実証科学-意味・価値の解体

1.6.4 人間主観による世界の単純化・均質化

上述のようにコントによる実証科学の理念・目標のうち確実・現実的・明確・積極 的・建設的という概念は、極めて現実的で具体的でありまさに実証主義的ありかたの ための理念である。実証科学は、経験的事実性を根拠に要素還元的手法により客観的 対象を分析(実験・観察)し、客観的・数値的表現での結果を志向するものである。

ハーンが非常に警戒する近代科学による世界の単純化とは、人間と世界とのありの ままの複雑にして豊かな関係性の否定・破壊であり、近代以前の神秘的で霊妙なる恐 怖的自然観の否定である。ハーンにとって近代の科学とは、こうした神秘的で霊的な 世界をも、数式・数字への量的還元を介して抽象的普遍化し無意味化する試みである。

「近代知識の全面的な傾向、いわゆる科学教育全体の傾向は、古代インドの婆羅門 がすでに考えたように、神や仏というような超自然の力は、人間の祈念をうけつけな いものだという、究極の確信にむかいつつある。」1(ハーン 1995,194)

そのような科学教育や科学信仰の中で、世界の意味は失われ無機化が促される。

「全知全能の神だの、救世主だの、守護神だの、そんなものはこにもありはしない、

けっきょく、われわれは、われわれ自身以外に、たよれるような逃げ場は何ももって いないのだ・・」2(ハーン 1995, 194)

人間がこの 200 年間に渡って行ない続けた科学による複雑系の世界の単純化の試 みによって、世界は、意味に満ちる非単純化(有機的複雑系)の場(神話・迷信・民 話・呪術等の場)から、抽象的なそれゆえに単純なる非意味的な場(無機的科学的世 界)へと変質されまた変容され続けてきた。科学は世界をノモス(人為)の場として 関わるのではなく、ピュシス(自然)の場として対象化し対峙化し続けてきた。

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産業革命を機に人間は自然を対象化し、その無尽蔵なる資源を本格的に社会的に有 効に利用し始める。自然とのそれ以前の呪術的一体性の即自的な融和関係が、支配―

被支配の対自的な対立的関係へと変わって行く。管理されつつ利用されるなかで、自 然は自らが長年培った豊かさを人間により失って行き、人間の生と存在を豊かに支え 育んできた形而上的意味・価値・目的・本質を人間は急速に失って行く。

「コントの精神においては、人間性は単に偉大であるにとどまらず、神々しいもの ー神そのものとして認められる。」3(ハーン 1987, 381)

実証主義の科学精神こそが神に代わる精神となって世界を主導すると、コントは人 間中心的科学精神を掲げる。それをハーンは危険視する。人間が対象をそのものとし て直接に主観的に体験し、主観的に主体的に理解し体得するときに、対象から人間へ と意味が開示される。観察者が近代の科学的姿勢を取る限り、事象はその意味を主体 に対し開示することはない。人間の側の科学的認識が客観的世界を蔽い拡大し支配し 続けるのであり、それにより世界は人間のものとなる。

「白い切り紙細工みたいな妙なもの(御幣)が真直ぐな木の棒にさがっているだけ。

(略)。そこ(論者注:伊勢神宮奥神殿)には、空間、空寂、過去への暗示のほか別 に堂々と構えたものは何もない。(略)。つまり、偶像(崇拝)などよりももっと年代 の古いこの信仰には、像などの必要はないのである。その神々は精霊なのである。そ してその神殿の空漠の静寂さからは、何か形あるものによるよりも一層森厳の畏怖の 気をさそわれる。4(ハーン 2006, 117-118)

日本の神宮の奥神殿においても建物の中に何もないことが多い。像のない森閑とし

た神奈備か ん な びた空間が広がるばかりである。アニミズムとは文化つまり言葉を越えた始原

的な自然信仰であり、それは精霊信仰という姿・形を超える超自然的な素朴な信仰で ある。それは空無の森閑とした神聖さにより我執の煩悩の気が滅せられることになる。

直接的な感覚との応答により得られる純粋さや透明性が、神道の神聖さを保証する。

人間は空無となり煩悩や我執から浄化される。

実証科学を源とする近代科学は、ギリシャ神話におけるような人間と宇宙大地の世 界との一体的宥和的関係性を排除し阻む。「ガイア」(古代ギリシャの「生きる大地」

の神)としてのきわめて有機性の高い極めて複雑な現実世界を、近代科学は対象化し 分析し観察し解析し、科学的記号、数式、法則、因果律により抽象的にされた非現実 の世界へと無機化しそして無意味化する。

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こうした実証科学の客観的事実学なるものも、神話・民話・呪術等と同じく人間の 相対的限界内で行われる主観的な営みという人間的限界に実はあるのである。「神の 死」の近代にあっては客観性はあくまでも主観的客観性でしかないのである。

「私はキリスト教以前の神々の存在を知り、愛することを覚えてからというもの、

世界はふたたび私の周りで輝きはじめた。世界に垂れ籠めていた陰鬱な雲は、次第に 晴れつつあった。(略)。青空の下、緑したたる草原で陽光を浴びていると、以前には 知らなかった喜びが、湧き上ってきたのである。」5(ハーン 2004, 42)

近代的キリスト教の遠き厳粛な神の導きを否定し近代以前のはるか太古の自然宗 教の自然の神々が、ハーンに初めて世界というものをその真なる豊かな相貌を打ち開 いてくれた。ハーンにおける世界の意味の初めての触れ合いであり体験であった。喜 ばしい自然との一体化の中で、意味の世界の闇が晴れ、世界の輝きを感謝のなかでハ ーンは見い出す。

「その目に見えぬ何かが、私を恐れさせた。」6(ハーン 2004, 36)あるいは「異 教徒とか異端という言葉は、略、私の心の内に光と美、自由と喜びの感覚を呼び覚ま してくれる。」7(ハーン 2004, 37)「この私という現在の一身に宿る霊的なもの」8

(ハーン 2004,39)

実証科学という「事実学」(ハ-ン)も根本的には、人間の経験的事実及び人間の 主観的認識に立脚しつつ客観的な事実を問うという、人間中心主義の限界内にあるも のである。実証科学は事実を人間主観的判断において事実とするのであり、事実学の 事実性を実証科学はそれが人間の科学である限り実証化(科学的正当化)することは できないのである。

事実を事実と判断し事実的情報を事実としてまとめることは、科学が世界と即自的 ではなくあくまでも対自的関係にある限り、そして科学がどこまでも主観的で相対的 で有限なる人間が担うものである限り、不可能なのである。実証科学は根本的には人 間の主観に依拠する相対的な限界を持つものである。科学的客観主義でさえも人間中 心主義的限界を持つものであり、実証科学は、主観一元論に矛盾のうちに最終的には 至るという限界のなかにある。

実証科学は人間の主観をむしろ絶対視し、人間の主観的経験に絶対的実証性を置い た主観的独我論でさえある。それは「神の死」が示すメタ性崩壊の不可避なる帰結で ある。その点から言っても近代科学の礎である実証科学は、事実にこだわるその対象、

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方法論そしてその科学的分析の結論において、ハーンが言うように空虚なる主観的幻 想なのである。

「新しい実証主義哲学は科学であり宗教ではなかった。それは空無(void)を埋める ことはできなかったし、またペシミズムを抑える力もなかった。」9( Hearn 1967,128) とハーン自らが語っている。

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 77-80)