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共同幻想のまとめ

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 111-114)

第 1 章 近代の共同幻想

1.11 共同幻想のまとめ

―「仮構された存在形態」 (唯識論)の煩悩から生まれる無明―

「われわれはみな、われわれ自身に謎であり、また、おたがい同志に謎なのだ。空 間も、運動も、時間も、みな謎である。物質も謎である。生まれる前だの、死後だの いうことについては、生まれたばかりの赤ん坊も、死んでいった人間も、われわれに なんの消息ももたらさない。」「無限の謎の地平線のうちに、世界とともに無数の小さ な謎が、人間がくるのを待っていた。」1(ハーン 1995、621-622)

しかし人は上記共同幻想の一切が実在すると盲信して、いや盲信することによって こそ生きて存在し得ている。

後述の第 3 章にて説明される唯識論は、人間がいだく幻想を3つの関係性の存在形態 にまとめる。幻想が、概念や言葉によって姿・形をもち識(心)を離れて確固とした独立 した現象と妄想される「仮構された存在形態」 (妄分別も う ふ ん べ つ

されたもの・遍計所執自性へ ん げ し ょ し ゅ う し ょ う

)とい う関係性の幻想、幻想が縁・縁起により他からもたらされ他により瞬間的に生じて仮現 すると認識される「他に依存する存在形態」(他による依他起性え た き し ょ う

―縁・縁起―自性じ し ょ う) とい う関係性の幻想、幻想が現象・形象を伴わない真なる最高の真実の認識であるとされる

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「完成された存在形態」(完成されたもの・円成実自性え ん じ ょ う じ つ じ し ょ う

)という真如につまり真実にー形 而上学的にー存在するという関係性の幻想である。

識(心)が生み出す幻想には実在との関係性において以上の三つの存在形態(三自性)

があるという。

この第1章で述べられた近代の共同幻想は、唯識論の「仮構された存在形態」の関係 性にある幻想であり、極めて危険なる修羅としての妄想・錯誤・思い込みである。実在 しない不可視的なる言葉あるいは概念が実用的価値を支えに広がっている。言葉は、生 と存在の根拠たる意味(シニフィエ)を失いながらも、その魔術力によって未だにものの 意味が世界に保たれ開かれていると錯覚させ幻想を与え続けている。

真なる意味を確固として保持することのない空虚なる概念・言葉が世界に氾濫する。

物象化によって人間が編み出した近代世界の表象・現象の無意味さが、言葉の意味の空 洞化が、存在を弱体化させあるいは意味を消滅させる。自己と世界との関係自体が実体 的関係から関係的関係性へと転倒し、今や世界はそのためにますます幻想化し、世界本 来の意味を人間に対してますます失ってきているのである。

そうした幻想は人にとって肯定的な喜ばしいあるいは幸福な局面において必要とされ るものではなく、むしろ否定的存在性をその実態において不可避に示すものである。

近代の幻想は「逆ホメオスタシス」2(丸山 2004,170-175 および注釈:ホメオスタシス・

逆ホメオスタシス)なる、人工的なつまり不自然で恣意的で過剰に日々直面するものな のである。言葉、時計の時間、物質・物質現象、実証科学、透視遠近図法、死・死者、

世界そして自己、これら 8 つの幻想の近代の諸幻想は、近代の世界が空無である真実を 象徴的・代表的に物語るものなのである。

「実在は一なり。われわれが従来実体と考えていたものは、あれはただの影にすぎない。

形あるものは、すべて実在にあらず。肉体は幽霊である。」3(ハーン 1988, 233-234)

「・・・・それから、お月さまがほしい。(略)。あの画題は、あれは仏教の譬えばなし でしてね。水は知覚と観念のまぼろしの流れ、そしてお月さんは―歪んで映った影でな い方のほんとうの月は、あれは唯一無二の「真理」なのです。(略)。この煩悩夢幻の世 で、しんじつ人間は今でも水にうつる月をとらえんとするサルにすぎんですからな。」4

(ハーン 1988,399-400)

共同幻想は、我執の煩悩により生まれた物象化による幻想である。人間は架空の過剰 なる言葉に依存するがゆえに実体を見失う。そのなかで人間は宇宙・大地との関係と意 味を忘れ実質的に失い、架空の言葉による意味の空無が広がり、架空のミクロコスモス

113 のー関係のみのー世界に迷い続ける。

ハーンの言う「水にうつる月」とは、まさに自分のみに見える映像としての月であり、

見えるその月は観念としての自分にとっての像であり、見える月は自分にのみ見える月 であり実物の月ではなく幻想の月でしかない。

これが共同幻想のことであり、「月をとらえんとするサル」とは「水にうつる月」の 如き共同幻想を実体視し、それによりたぶらかされ迷い続ける近代の人間を意味する。

ハーンの『仏の畑の落穂他』の文章(上記)はさらに続く。

「いや、じっさい、サルだな」とわたくしは答えた。「でも、サルはサルでも、

神のサルー日輪をつかむラマヤーナの神聖なサルだな」5(ハーン 1988,400)

人間は幻想に戸惑い迷うのみではなく、絶対的な真理・真如であり世界の究極の源たる 日輪の太陽を求め志向する存在だとハーンは語る。霊長類の最高位にいる人間ならば、

不可知論の不可知なるものの不可知性の前で立ち止まるのではなく、不可知を可知と明 らかにし不可知をも超え行くー形而上的なー力・可能性があるとハーンは考える。不可 知を何らかの努力で認識し超越を試みることで、不可知論を脱却しそれを超える夢と理 想を手に入れる存在であるとする。

不可知を超え真理にいたるべく超越・修養を志向し、そのなかで理想に至ることを 求めるその志向性こそが、人間の人間たるゆえんであるとハーンは考える。それが、

「神のサルー日輪をつかむラマヤーナの神聖なサル」(上記)という隠喩にてハーン が語ろうとする真意なのである。

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