第3章 ニヒリズムの超克―個我から共同へ
3.4 唯識論
3.4.3 記憶の蔵―長大な時間・空間
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このように唯識論は世界を心の働きのその結果としての心の像と考えるのである。
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えらせたのであろう。」3(ハーン 1995, 399―400)
アーラヤ識に眠る前世にて刻印された声・響きに感動した前世での誰かの体験が、
およそ数百年~数千年後の 1800 年代末の神戸でのあるいはロンドンでのハーンの体 験の中で突如目覚め、時間・空間の差異をはるかに超える過去の誰かの感動が覚醒さ れたと考えることができる。このようにアーラヤ識には前世の無量無数の諸経験がは るかな時間を超えて宿り、時に生々しく目覚めるのである。
「耳なし芳一のはなし」において、芳一のもとをはじめに訪れた平家の怨霊は 1185 年 に下関海峡壇ノ浦で入水した平家一門の一人である。それらの怨霊が赤間が関海岸にし ばしば出没し、住民に人騒がせなふるまいをよく起こすという事で、その入水の約 100 年後の 1191 年にその地に阿弥陀寺(現在の赤間が関神社)が鎮魂のために建立された。
その後では怨霊たちの出没は一定程度収まった。しかしそれでも彼らはその後も時々赤 間が関海岸に現れて、怪しい事件を起こしたという。
その原典『臥遊奇談が ゆ う き だ ん
』中の話「琵琶秘曲びㇵの ひ き ょ くゆうれいをなかしむ泣 幽 霊」を天明 2 年(1782)に京都の菊屋安 兵衛が出版する 4(ハーン 2003, 332)。原典と言われるその「琵琶秘曲泣幽霊」が語る今
(つまりそれが出版された 1782 年)から数百年まえの、1500 年代に芳一がその阿弥陀寺 に住むことになる。「琵琶の弾き語りの技で評判を得ていた」5(Hearn1973,162)その琵琶 法師芳一に事件が起こる。
ハーンの再話作品であるその「耳なし芳一のはなし」の物語冒頭で、「今から七百年あ まり前」と語られるのは、平家一門の入水から始まり、怨霊が芳一に引き起こした事件 を経て、ハーン自らの再話本発表に至る長い時間幅なのである。このように「耳なし芳 一のはなし」は、多くの人の長時間にわたり伝え続けられてきた時間の長さ、ひいては 人々の記憶の強靭なる強さとその驚異的継続性により、今なお新鮮な感動―諸行無常の 感慨―をまざまざと呼び起こすものなのである。
ハーン作品「夏の日の夢」のなかで最終部の玉手箱から出る白煙は、浦島が故郷の 村を離れまた戻るまでの長い不在の時間―300 年とも 400 年とも言われる―経過を実 証的に示すものである。玉手箱から白煙が立ち上がったその瞬間にその長大なる時間 幅が身体を貫通する。浦島が呆然とするままに青年から高齢の老人へと一挙に変貌さ せられる。浦島が生まれ故郷の村を離れ、竜宮城での生活を経て、再び故郷の村に戻 るまでの 300~400 年という不在のつまり消えた時間全体が瞬間へと凝縮しその時間 が瞬間的に流れる(瞬間はすべての存在におけるしかもそのすべての生きる時間・空 間において、多様な幅を持つと、生物学者ユクスキュルは語る)。
浦島は白煙の立ち上がった瞬間に一気に老人に化す。白煙を機に長期にわたる不在 の時間が浦島を襲う。生命的なる連続する流れの極度に凝縮した猛烈なる負荷を実感
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させる。白煙は、過去世の体験(業)が縁・縁起による輪廻の輪として、人間個々人の 生きる時間をはるかに超える個人が有する有機的つながりの時間を凝縮している。心 のアーラヤ識に宿される体験性の感覚とは、過去世―現世―未来世とをつなぐ輪廻の 長いつながりとして個人において宿されるものであることを教える。
ハーン作品においては、太古が昨日のような、あるいははるか以前の過去がそのま ま今に近くに生き存在するといった超時間空間的な場面が出現する。作品世界におけ る生きる時間が長大にあるいは短く可変的に広がる場面がしばしば出現する(「夏の 日の夢」、「蓬莱」、「耳なし芳一のはなし」、あるいはポンペイの遺跡に現れる亡霊の 話であるゴーチェ作「ポンペイ夜話」へのハーンの強い共感等)。
作品の時間意識はまさにベルクソンの持続(既述)の意識性であり、プル-スト(マ ルセル・プル-スト 1871-1922 年 フランスの作家)の作品『失われた時を求めて』
における意識的時間の脈絡のない多様な流れに共通するものである。
相対的時間が自由に広がり、自己内の心のアーラヤ識に宿る過去から継続する意識
(ハーンの遺伝的記憶)が支配する場面が出現する(「夏の日の夢」にて魂が虫とな って 1400 年前の夏と今とを往復する夢のシーン)。それは人間のなかに連綿と内在し 続ける生きる形而上的時間としての、ハーンにおける遺伝的記憶の長大な自由な射程 にある時間である。
「死者はけっして亡びることがない。死者は、疲れおとろえた心臓と、いそがわし い脳髄の無明の部屋のなかとに、こんこんと熟睡しつつ、まれにかれの過去を呼びお こす、なにものかの声が木魂するたびに、目をひらきさますのである。」6(ハーン 1995, 401)
西欧近代のキリスト教的時間である直進する時間性を全く逸脱し個人や世代の時 間を超えて、長大な時間と遠い地理的空間での過去の業の記憶が、個人にてしばしば 回帰する。時間が近代の時計の機械的な物理的時間ではなく、それをはるかに超える 自由なる時間幅のもとに人の心の経験の種子は継起的に目覚める。生の哲学の祖スペ ンサーの有機的記憶の中に見出される内なる生命的なる過去と、現実的に生きる現在 とのモザイク的に多様なそれらが入り混じった時間相により、ハーン「耳なし芳一の はなし」あるいは「夏の日の夢」等の作品での長大な時間幅の移動・変化がある。
ハーンの怪談における生々しい実体験の情緒や感覚(諸行無常の感覚)は、アーラ ヤ識が継起的に種子として伝えている多様な記憶の凝縮された時間である。個人を越 えた人類のはるか過去からの業がアーラヤ識において種子あるいは残気となって蔵 され、前世の業(行為・言葉)が現世における煩悩という報いとなって心に現出する。
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