第3章 ニヒリズムの超克―個我から共同へ
3.1 触覚
3.1.2 多感なる臨場性
言葉による関係の網の目を構築し抽象性のレベルを高める近代の言葉にとっては、
実物について視覚がもつ強いイメジャリー機能が抽象性を保証する上で最適である。
近代が視覚優先時代であるのも、言葉の抽象的なコード化からくる事態であることは 否めない。しかし例えばテレビのドラマにおいては人の語りが人間の内面や映像の意 味を直接伝えるに対して、視覚映像そのものはドラマでの人間の心や感覚や事態の隠 された複雑な意味を伝えることはない。言葉による説明つまり事物や事象の意味の直 接の伝達がそこには必要とされる。映像を見るものが、ドラマの脚本家と同じ質と量 の意味を先入的に保有していない限り、見る者は、映像化された像からのみでは映像 の意味を読み取ることはできない。
視覚がそのように表面的現象しか読み取ることができない機能的限界を持つに対 し、触覚は、実在物の内なる見えない隠匿するその実在性を主観的に感覚化し、その 存在意味を獲得することを視覚に比してより直接的により可能とするのである。肌触 りの感覚は他者に伝えやすいのである。
ハーンの「富士の山」という作品は、古代的中世的な自然の実感―畏怖感のもとに 自然に囲まれ包まれる一体感ーに満ちている。その畏怖の感情は、富士登山のそれぞ れの箇所に広がる奥深く雄大な神秘空間についての多様な感覚性により生み出され
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る。山中空間の神秘性はわけても触覚によって臨場的に生き生きと打ち開かれる与え られるのである。ハーンにとって山中の神秘的霊性は触覚的に迫り威迫するものであ り、山中の霊気は富士山の富士山たる意味つまりハーンにとってのきずなあるいは関 係を、ハーンの触感を介して生々しく微細に伝える。
「再び登る…登山道は最初は相変わらずの灰と砂ばかりだったが、今や大きな石が 砂に混ざり道はますますけわしくなる。私はたえず滑り続けた。安定し立っていられ る所はどこにもなかった。一歩上るごとに石のかけらや礫が滑り落ちてゆく。こんな ところに大きな溶岩の塊でも剥がれ落ちて来たとしたら! 」「・・・やがて白い霧に 包まれてしまう、というよりも雲のなかを通り過ぎるのだ!後ろを振り返ってみたい と思っても、これほどの靄では何にも見えやしないし、そもそも振り返ってみようと する気にさえなれなかった。風が突然止んだ―山の峰に遮られたのだろう。沈黙が迫 りくる。」1 (Hearn 1973、14 )
世界との古代人的な実体的体験性の、自然のただなかへと身体の没入するなかで、
自然の神秘的威力が、次々と押し寄せ迫り来る。それは世界との近代的視覚による非 接触の間接的関わりではなく、感覚に直接迫りくる実在するものの自然の威迫である。
それは心の中で神との内なる交流を図る祈りの静的瞑想ではない。それは直接に実在 的に皮膚感覚に迫りくる皮膚的威迫の接触感を介し、自然の実在物はハーンに迫りハ ーンを包み没入させ、神秘空間としての異次元世界の気配を皮膚を介して深く感じ入 らせる。富士山の本質がその存在意味がハーンに触覚によって迫るのである。
そのように接触を想像させるほどの対象との距離を超える身体的一体感のなかで、
ハーンの「富士の山」においては山中世界の意味が生々しく肉薄し見出される。畏怖 の感覚と畏敬感に満ちる中で、自然アニミズムあるいは神々信仰の実在世界が、身体 的に深く実感され、霊的交流がなされる。世界は関係性による対象化あるいは距離化 されるのではなく、圧倒的に人を飲み込み包み込む実在する意味の威迫に満ちる。
作品「富士の山」には、伝統的日本文学とは異なる接触感覚による相互交流の位相 (パースペクティブ)がある。
「頂上に向かって出発。熔岩の塊がゴロゴロ轉がっている中を行く。ここは登りの 坂道での一ばんの難所だ。まっ黒な歯をむきだしにしているような、ざまの悪い岩く れの間を、右に折れ、左に曲がれ行く。ぬぎすてた草履の道は、さらに幅が廣くなっ ている。」「道はいよいよでこぼこで、いよいよ険しい。ときどき自分だけは這いずら なければ攀じ登ることができなかった。」「恐ろしいようにニュッと突き出た黒い熔岩
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の尖ったのが、へんな傷あとが破れたとでもいうように、火口の両側に数百フィート の高さに幾つも聳え立っている。」2(ハーン 1970,271)
「今、その蓮華の花が燃えかすになった端っこのここに立って眺めると、まずこん な恐ろしい、無気味な、凶々まがまがしい、凄惨な場所が、またと世にあろうとは考えられも しない。」3(ハーン 1970,272)
日本の伝統文学においては自然は眺め、堪能し、感嘆する視覚の対象であり、踏み 入り体験し触覚的に感覚化することは少なかった。『奥の細道』の旅での芭蕉の場合 も、求道の仏教的精神性がその旅の主眼であり自然探勝が目的ではなかったとも言わ れる。国木田独歩の武蔵丘陵への散策に日本文学における自然感性の体験する時代が 始まる。
それはフランス象徴主義文学におけるような、豊饒な多感覚的表現による実在的リ アリティ表現の感覚わけても触覚的生々しさである。臨場感の供与である。フランス 象徴主義文学において、感覚表現は存在の新しい輝きを生み出す斬新性をかもし出し ている。触覚に凝縮された感覚表現が、富士山のうちなる生命的律動を生動的に力強 く紡ぎ出している。万有が照応し呼応し合い、かつ見えないゆえにこそより実体的に 集う合一性を、臨場的体験性を醸す効果を生み出している。それはポジティブな意味 での客体的世界の華麗な主観化であり、意味化による一体的で神話的な共感化である。
「ところが、ひとたび日が落ちると、この先生の、ごく小さな小さな魂が、ぱっと 目をさますのである。すると、えも言われぬ、妙にあやしき楽の音が、へやいっぱい に鳴りひびき出す。まず、きわめて小さな電鈴が、かすかにかすかに震えて鳴る、銀 のトレモロとでもいおうか。」4(ハーン 1970, 299)
音に包まれるという接触的感覚が人と人と、人と物との場の共有性を時間的あるは 実在的に確証させる。近代の主感覚となった視覚が対象化と距離化を促し、世界を三 次元から奥行き・厚みを失わせて二次元化し記号化する傾向があるに比し、より単純 で素朴な感覚である触覚は、主体ー客体の対象化あるいは対立化させる位相はなく、
主観―客観の分裂以前の始原的一体化を行う機能がある。物理空間的な感覚性は絶対 的な超え得ない隔たりによる孤絶さのなかに視覚は成り立つものである。
触覚は、思惟や観念ではなく他者のぬくもりを通して他者の意味を伝えるものであ る。触覚とは意味を立体的に伝えるもの、他者と自己をつなぐ他者の意味の身体を介 するメッセージなのである。本来的に人は、皮膚感覚による身体的実在感を得つつ、
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夢や仮想という現象を現実の物として、身体化し肉感する。人類に共通する無意識層 の「遺伝的記憶」(ハーン)による互いの共鳴・共感のなかで人は、仮想を現実的に 呼び込み、仮想的なことや夢幻的な事象を、触覚により現実的なものとして共鳴する。
作品「富士の山」において山中の霊的事象が混沌と入り乱れ、離合集散を繰り返し、
山中という異次元界にて自然は互いに距離を超えて躍動する。互いの宇宙的大地の存 在性は思惟や観念によってではなく、触感に身体的に訴えられそして実感される。ハ ーンにとって富士山は自然の霊魂が人と触れ合う霊場なのである。