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時計の時間の幻想

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 60-63)

第 1 章 近代の共同幻想

1.4 時計の時間ー物象化される時間

1.4.4 時計の時間の幻想

時計の時間という近代的時間とは、人間が人間的な座標軸を世界のただなかへ分節化 しあてがった人間には無関係のつまり無意味な抽象的な社会制度である。時間が世界に おける人間の定点化のための人工的創作物(制度)である限り、またその時間概念が、

神なき時代のミクロコスモス存在である近代的人間により広範に普遍化されたものであ る限り、またその時間が、地球というそれ自体が動く存在のなかの存在である人間によ り恣意的に定量化されたものである限り、その時間はその根本からして相対的なつまり 主観的なものでしかなく、万有を純客観的に測る絶対時間などではない。

時計の時間とは恣意的な幅へと空間化された非実体的な人工的分節化の結果に過ぎな い。恣意的幅で表現される時間はもはや時間それ自体ではなく、空間に翻訳され改変さ れた被制作的平面記号としての相対的な物理的空間の幅に過ぎない。つまり時計の時間 とは時間を空間へと分節化する基本的な空間的概念であり、空間性と相矛盾することの ない概念なのである。時計の時間とは人間による人間のための制作物にすぎず、それは 世界自体ともあるいは人間ともいかなる関係もいかなる意味もないものである。

「私にある場所とある不思議な時間の思い出がある。その場所と時間のなかでは太陽 も月も今よりも大きく明るく輝いていた。それが現生のことなのか前生のことなのか 私には分からない。しかし、空は今よりもはるかに青く、それは大地にはるかに近か った。」1( Hearn 1973,17)

宇宙大地では悠久の循環があるのみである。過去・現在・未来を貫き生起するような 歴史的なる時間も、人間の瞬間は 18 分の一秒という瞬間的時間も含めて時間は世界の中 に実際は生起も存在もしない。万有そして世界はすべて無時間なのである。万有の存在 的変化現象を人間は時間という概念を組み立てることで理解し説明しかつ納得する。そ れは万有の変化や動きを定量的に合理的に理解するための人為的概念なのである。

時間は人間が人間のために物象化によって世界へあてがい投げ入れたものであり、時 間は人間の心に恣意的に生まれた幻想なのである。時間ではなく時間的なものがあると

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すれば、その時間とは外界と内面とが一致しそぐう心中の遺伝的記憶により伝えられる 遺伝的持続しかない。それは持続であり時間ではない。その意味で浦島太郎が故郷の村 を離れそこに戻るまでの時間も、ハーンが愛した民話の蓬莱伝説の極楽的時間も、過去 の先験的体験の教える体験的なる遺伝的持続性なのである 2(ベルクソン 2002, 12―14 および注釈「純粋持続」)。

人間は非本来的な時計の時間を作り上げ、それに強く呪縛され拘束される中で社会 生活を過ごす。時計の時間とは、物象化により不自然に生み出された余計なものであ る。近代の人間は労働過程における疎外のみならず、時計の時間による人間疎外のな かを不可避に生きているのである(既述のエンマの悲劇)。

「物の形を、推し量ることもできないほど、入れ換え、入れ交ぜながら、永遠に 宇宙の万象を作ったり作りかえたりして行く無限の未知力、その変貌自在な神通力を 表徴する万象の海の、遠い遠い世の岸なき水のまっただなかを覗いたと、かれらは思 うのである。」3(ハーン 1973,38)

「今ここにある、この奇妙な道路の神や大地の神は、なるほど、いたく磨滅もし、

苔も蒸し、これを拝む人さえ、いまは稀ではあるけれども、なおかつ、これらの神々 は、今でも生きているのである。この微妙な刹那において、わたくしは、いま目のあ たり、古代の世界にいるわけだ。」4(ハーン 1973, 38)

近代的な先入観にとらわれることなく、自己の想いに従うことで、ものは生き始める。

時計の時間は過去も未来もどこにもなく、今の瞬間にさえも実在しない。人間の観念の なかにのみ時計の時間は実在する。言葉が世界を分節化し、そのなかで分節化された時 間を人は世界の今の中に投影し物象化し時間を生み出すのみなのである。

「終わりがないように始まりもなかった。時間さえも幻想である。100 億の太陽の もとに新しいものなど何もない。死は死でも、休息でも、苦の終わりでもなく、もっ とも醜悪なる悪ふざけにすぎない。」5 (Hearn1995, 129)

人間にとって時計の時間ー継続する空間化された時間あるいは外的に数量化され た時間ーは実在しない。時間とは人間が自らの主観的印象(思い込み)を実体である かのように幻想化する煩悩のなせるものなのである。したがって、時計の時間を含め 日付、曜日、月、年号などの時間・時刻に関わる概念一切は、言葉の物象化による実 在しない主観的幻想なのである。時間はいわば幽霊的であり、その幽霊により人はあ

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「…こんなわけで厭世主義にまで冒された危機的状況は、もはや斥 力せきりょく(論者注:引 力に対する反発し離れようとする力)によって人々の精神を、それが危機的状況へと 歩み出したその出発点を越えてその彼方へとーいや、考えられるすべての理想主義の その彼方―あらゆる合理主義的想像力を越えー世界そのものの限界を越えた彼方へ と投げ返し、時間と空間と無窮の神秘の中へと投げいれつつあるようだ!」6(ハー ン 1988, 38)

近代という時代において人はニヒリズムの苦悩をも不可知界の項目に仕立て上げ、

その「時間と空間と無窮の神秘」7(ハーン 1988, 38)という「幽霊さながらの偶像」

8(ハーン 1988, 35)に加えようとしている。こうして人は不可知界の領域を広げるこ とになり、さればこそ厭世主義はいっそう進行することになる。

不可知なる時間はペシミズムを増し加える危険性を社会にもたらす。時間は人間を社 会のなかに組み込み拘束し社会に順応させる、つまり人間を疎外させる幻想とハーンは 考える。

「終りというものがありえないとひとしく、始めというものもありえないはずである。

そうなってくると‘時間’というものさえが、ひとつの幻覚であり、幾千億の太陽の下 に、新しいものはひとつもないということになってくる。」9 (ハーン 1995, 181)

遺伝的記憶を信奉するハーンは、人は過去の時間のなかに統合的に生き続けると考え る。ハーンは、ユダヤーキリスト教の直線的時間ではなく、現在はどちらを向むいても 常に多様に質的に変化しながら持続するというベルクソンの持続性の時間的流れの意識 を、遺伝的記憶の一環として信奉する。

実体として永遠化され得る質とは精神のみであり、物質の消滅的なる幻想存在性は肉 体的物質的な消滅の空虚を必然的に伴う。存在を支え活かす精神の永遠の力に比して、

物質的時間である時計の時間なるものは空虚であり空無なのである。時計の時間とは、

エンマの場合におけるような近代的な物象化の最たる問題である疎外という重荷を、人 間に与え生み出すものなのである。そうした時間は人間が生み出した幻想にすぎない。

「『時』のなかに存在するものは、すべて消えて滅びる。正覚正念を得た者にとっ ては、『時』も『空間』も『変相』もない。夜も昼もありはしない。(略)。経文にも 言うてある。『過去未来来世に於て、「時」を超越したる者は、智慧正覚を得たる者な

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時間は空無なのである。それに気付くことが空観に至る階梯での歩みなのである (後述)。

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 60-63)