第2章 ニヒリズムの諸相
2.6 人をつなげまとめる理念・存在の不在―個人主義 .1 形而上学の劣化
2.6.2 孤絶の感情
「われわれの古い社会は、あなたがたから称賛される自己滅却、礼節、仁徳といった
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特性を、個人を犠牲にして養うことに努めてきた。それに対し西欧社会は、思惟と行 為の力の無制限の競争によって個人を養うように努めて来ました。」1(Hearn1973、
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ハーンは個人主義を根本的に否定し憎悪さえする。日本における西洋人の生態に対 するハーンにおける憎悪にも近い反発、旧来の共同社会的な融和的人間存在に対する 敵とも映る個人主義的生態への怒り、こうしたハーンによる個人主義への批判・反発 の最たる対象は、その自我への執着であった。「すべての悲しみと罪のもと」2(Hearn 1973, 163)たる煩悩にいそしむ閉塞的な存在性に対しハーンの怒りは向けられたの である。
人が個人を意識したのは、人が近代以前の大地的共同体の集合的な制度の網から解 放され、それまでの人類の共同的な精神的制度的つながり(ゲマインシャフト 前近代 的共同体)を脱して、外的規制のない「真の自由、すなわち個人的自由」3(クーラン ジュ 1995,327)を現実的に得たと錯覚する近代においてである。
近代的個人というものは、外的環境との精神的身体的な幻想としての関係性から解 放されたと、それゆえに個人の自由を与えられたと自ら錯覚する存在なのであり、錯 覚を実体視する迷妄にある存在なのである。それは、時間的な今と空間的なここへと 執着し、時―空を超えるあるいは此し 岸を超える彼岸の形而上的世界との精神的関係性 を実体的意味で失った存在である。
人という近代の人間概念は、全人格による世界との本来的なきずなという点で、そ れが欠損した在り方である。つまり近代の個人は、実体的実在の関係性をではなく、
現世との関係的関係性のみの過剰なるしかし非本質的な関係性によってのみ構成さ れる存在である。
神的な形而上学的普遍概念を失った神の死の時代において、人間は間人間の相対的 で関係的な個性的という差異にもとづき、本質的に分断されることを免れなくなる。
人は真なる確固とした意味・根拠を有することのない非形而上学的世界の中で、即物 的に個人として孤絶して生きそれぞれが任意に放縦なる自由のもとに存在すること しかなくなる。
近代人の孤独なる生と存在をそしてその近代的営みの空虚さを見抜いた梶井基次 郎(1901-1932 小説家)は、「路上」という作品の中に近代という個人主義時代の空虚 なる心象風景を多感に描き出している。
「誰かが何処かで見ていやしなかったかと、自分は眼の下の人家の方を見た。それ らの人家から見れば、自分は高みの舞台で一人滑稽な芸当を一生懸命やっているよう
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に見えるにちがいなかった。――誰も見ていなかった。変な気持であった。」「飛び下 りる心構えをしていた脛はその緊張を弛めた。石垣の下にはコートのローラーが転が されてあった。自分はきょとんとした。」「何処かで見ていた人はなかったかと、また 自分は見廻して見た。垂れ下がった曇空の下に大きな 邸やしきの屋根が並んでいた。然し 郭寥として人影はなかった。あっけない気がした。」「自分、自分の意識というもの、
そして世界というものが、焦点を外れて泳ぎ出して行くような気持に自分は捕らえら れた。笑っていてもかまわない。誰か見てはいなかったかしらと二度目にあたりを見 廻したときの廓寥とした淋しさを自分は思い出した。」4(梶井 2011,84-85)
「路上」の主人公は或る日の雨上がりの際に、学校から自分の家への帰路に、近道を しようと傾斜のきつい坂道をあえて選び、そこを滑り降りる。しかし斜面は予想以上に 難物であり、降りるにつれて滑りやすくなり泥に足をとられ危うくなりながら滑り下り る。身の危険性を感じる中で彼はいつの間にか最初の軽い気持ちを失い、ひどく真剣な 緊張した必死の形相に変わってゆく自分を覚える。彼は今や坂道の斜面と戦う羽目に陥 っていた。
しかしやがて彼の必死の悪戦苦闘も終わりに向かい、彼は坂の下の平坦な場に至り、
坂道を滑り降りるこの間の苦行も無事に終わる。
軽い安堵感のなかで、しかし彼は今降りる途中の自分の思いをふと想い出す。それは 彼が必死に降りながらも、誰かが自分の滑り降りる様子に気づき、その様子を心配し見 守ってくれてやしないかという思いあるいは期待であった。彼は、自分の行動を下から 見守ってくれる人がいることを無意識のうちに求めていたのである。
しかし下では周囲を見渡しても誰もどこにもそういう人は見当たらなかった。その坂 下の世界には誰もいず、いかなる人間の気配もなく、ただ風景が押し黙ったように広が るばかりだった。坂を必死に滑りながらも降りる自分の営みを下から見て心配し同情し 共感してくれる他者はいなかったのである。
必死に真剣に壁に挑む自分を見守り心配してくれる誰かは、期待とは違っていなかっ た。自分と関係を持ってくれる者、自分を支えてくれる者はいない。無意識に前提とし ていた自分の期待がはずれた孤独な感情のなかに、かれは一人黙然と立ち尽くす(その 見守り心配する誰かとは近代以前の神でもありえる)。
近代における個人主義社会の原風景のような観を呈する光景である。近代的存在認識 において関係的関係性の要素が人間存在を大きく規定するという状況のなかで、真の他 者存在の実体的存在の不在感と自分自身の空無感が増大する。実体がなく幻想的なる関 係性へと時代精神が激変する中で、実体を失う深く虚しい世界感情、空無で空虚なる自 己存在というニヒリズムの感情が崖下の彼を激しく苛むのであった。
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ハーンにとっては、幻想に満ちる空漠たる個人そしてその利己主義的関係性こそが、
ニヒリズムの根源であり、近代そのものの危険な源たり得るとされるものであった。
明治期日本における西洋人の生態に対するハーンにおける憎悪にも近い反発、旧来の 共同社会的な融和的人間存在に対する敵とも映る個人主義的生態への彼の怒り、こう したハーンによる個人主義的存在への批判・反発は、とくに彼ら近代的人間がいだく 我執の煩悩へ向けられたものなのである。
個人主義とは、そうした個人自らの中に内在する祖先からのあるゆる持続的累積体 としての自己の本質あるいは根拠を拒絶し、人間存在を先祖らとの有機的連関の系列 からー幻想的錯語的にー切り離す単独者としての存在様式なのである。他者との共生 を尊ぶ仏教的立場にあるハーンにとって、個人主義的個人とは、最たる危険な近代の
「Self to false 虚位なる自己」5(Hearn1973, 163)なのであり、それらは幻想の 非実体なる自己の群れたる修羅達なのである。
ハーンにとっては近代の都市の人の波は、偽善的なままに真なる生のその影を生き る人間たちにしか見えなかったのである。