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言葉の表音性へのハーンの関心

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 41-45)

第 1 章 近代の共同幻想

1.3 言葉という幻想

1.3.1 言葉の表音性へのハーンの関心

言葉は、人間と事態(物事)との相互の交流・交渉をその意味として伝え、言葉を 使う人間と世界との関係の経験を心中で常にリアル化させるものである。それが個々 の言葉に内在するその人間にとっての意味の機能なのである。

命なきもの、言葉をもたぬものに音・響きをあてがうことで、そのものの存在感、

意味、本質が関係性として響きを通して開示されることになる。さらに言葉の音・響 きが相互に関係し合うことによって、心の中にある過去の体験や文化風土の記憶の一 コマに触れて言葉は意味を瞬間的に誘発し、人は意味を瞬間的に理解し反応する。

「故三条公の年忌儀式は、太古の昔のごとく素朴なものに思えました。その儀式の 不気味な単純さ―御霊に捧げられる宴、(略)、呻くような詠唱、未開なる音楽、これ らすべてがわたくしにとっては、この民族のまさしく揺籃時代の伝承であり、投影エ コ ーで あるように思われました。」1(ハーン 1992、445)

言葉が今はない太古の民族音楽の調べをふつふつと呼び覚まし現前化する。

ハーンは文学作品における外国語の使用についてのチェンバレンとの論争におい て、言語の表音的使用の効果・重要性をダイナミックに擬人的に主張する 2(注釈:

論文「ラフカディオ・ハーンと音楽」)。

「人々が語の色彩、語の色合い、語の秘された霊的運動を見ることができないからと いって、かれらが語のささやき、文字の行列が進んでゆくときの、さやさやという衣ず れの音、語がかすかに妖しく吹き鳴らす夢の笛、夢のドラムの音が聞こえないからとい って、・・・」3(ハーン 1988, 28)

「わたくしは、語に色彩を見、花咲き乱れる音節の芳香を嗅ぎ、語の精妙で、妖精の 国の電気に感電しえる能力をもった最愛の友人たちのために書くのである。」4(ハー ン 1988,28)

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オノマトペの音象徴は、五感すべての体験印象を抽象化し音表現として象徴化させ るものである。その音象徴が提示されることで、自らが体験した聴覚・視覚・触覚・味 覚・臭覚の印象が瞬時に感覚的に再帰され、連想される。こうして言葉のコンテクス トの場に人は自らの場を置いて、場の情緒性、場の気配への共時性と共鳴感を躍動的 に得ることになる。

人は世界の一切の事物が有する個々に固有の微妙なその意味を、言葉は文字ととも に多様で微妙なる音・響きを介して分節化(差異化)する。分節化によって人は差異あ るそのものに固有とする意味をあてがい表わし、言葉によって個々のものの意味の差 異を理解する 5(岩井 1999、57‐65 および注釈:オノマトペについて)。こうした言葉 による人の分節能力はその多様性の点で実に驚異的な広さと深さとを示す。

言葉は本来的にフェティッシュ 6(Hearn1973, 72)たる呪術的なカリスマ的性格 を有するものであり、言葉は万有の実体的存在を呼び起こし現前化し反映するもので ある。言葉そのものが実在する存在であること、言葉とその言葉が表す事物との神秘 的同一性さえ信じられたのである(言霊観)。

ハーンの再話作品「弘法大師の書」にて伝えられるところによれば、日本史上で の優れた三筆の一人弘法大師空海は、流れる川の水面に龍という文字の点が欠ける 状態で書かれていたが、彼がその文字に点を打つと、文字の龍が現実の龍となり天 にのぼって行ったという 7(Hearn 1973,36-37)。

こうした日本古来の言霊観は、意味と言葉とが必ず照応し、さらにその意味が実 現する霊力さえ言葉に宿るとする呪術的言語観である。言葉はまさに個物そのもの として実在し、世界の意味を伝え教えそして実現する霊力を有すると考えられた。

それはハーンが多様に使用した音表現であるオノマトペとして現れている言語形態 である。

ハーンは英文作品中に外国語単語(日本語の「開門!」を kaimon!と、「車」を kuruma!

と、「芳一」を Hoichi と!等。)を脚注にその意味説明を加えつつ、巧みにかつ効果的 に使っている。そうした言葉は文字よりもむしろ響き・音により意味を伝えるもので あるが、意味の臨場性・迫真性を非常に実感的に高める効果がある。その場合の言葉 は、翻訳という近代的な知的認識ではなく、言葉の響きが生み出す情感の共鳴感情を 見事に誘うものとなっている。

言葉の響きや音こそが心のアーラヤ識(後述)の遺伝的記憶を聴覚的に呼び覚まし、

共感の輪を呼び起こす。言葉の音・響きが象徴となって内なる心に宿るかすかな記憶 を揺り動かす。それは言語を超える音楽への志向と同じレベルである(実際にハーン 自身における音楽論の論考・論文が残されている)。

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「美保関での軍艦見物にて。男たちは櫓をこぎながら古の海岸で歌われる舟歌を うたう。アラ――ホウ、サン オサーア、イラーホウ、エンーヤーアーア。ギイギ イ!

ギイごとに櫓が漕がれる。この歌は大変神秘的である―かんだかく泣き叫ぶよう な声ではじまると、低く沈んでゆき、ほとんどささやくような声になりーそのあと に、このギイが、歯の間から、無声摩擦音といった感じで発声される。過去から漕 ぎ出して、最新式機械の現代の中へと入り込み、そしてまたもとに戻る、―往き帰 りでそれぞれ1千年の年月をくぐりぬけて。わたしが耳にしたあの農夫たちの驚く べき歌の楽譜を書いて、あなたにさしげることさえできたら!―奇妙にもまた物悲 しい、心の底にしみ通るような、大地が生み、そこの土地が生んだと思われるもの ーーあの古の土そのものの、その土壌の古の魂の叫びの楽譜を。」8(ハーン 1988, 48)

音・響きの豊かな力、自然風土のなかに秘められた始原的なその意味・魅力が音・

響きをとおして今・ここに臨場的に再現される。場は 1 千年の昔に立ち戻る。

大地とは自然のみならず人間や文化そして言葉をも含む全体を意味する。言葉は風 土における人間と自然との共働の長い歴史を介して作り上げられた文化的な産物で ある。その地(美保関)の人々と自然との一体化あるいは共生の結実が、言葉の音・

響きの生み出す音色・波動となって聞く者・読む者の心の底に染みわたるのである。

ハーンは言葉の音・響きに、つまり世界や風土や大地と人との健やかな共生の結実

(音・響き)によって臨場的意味を感じさせ共鳴化を促し求めるのである。

ハーンは日本語の文字を表意文字(一語一語が意味を持つ)ではなく、みずからの 自国語である英語のように表音文字(一語一語は意味を持たず音としてのつながりの なかで意味を持つ)として、人は言葉を共感し共鳴し理解できると考える。

言葉の音・響きなかには本来的に、心中のその実在的実体的感覚とその感覚体験が すべての人に普遍的に内在化され潜在化されている。ハーンの日本語の言語観には言 語のオノマトペ表現性が強く認められるのである。

「(論者注:杵の)そのドスンと落ちる音が、一定のひょうしをもってひびいてく るのである。この音は、日本人の生活のなかにあるあらゆる物音のうちで、ことに哀 れ深いもののように、わたくしには思われる。じっさい、この音は、日本の国の脈拍 の音だ。」9(ハーン 1973, 49)

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「いかなる文学的文体も、その最も恒久的な拠りどころとなる普通の人々の言葉か ら始めるべき」10(ユー 1992,92)というように、ハーンは庶民の間で語り伝えら れる口語表現―非文字表現―にこそ実体的な言語の在り方を見出している。

「石も、岩も、ものを感じた。風は息吹であり、言葉であった。地上の川と海は情 意の部屋に閉じこめられていた。」11(ハーン 1996, 375)

ハーンは基本的に語の耳による非文字的感性に秀でた人であった。聴覚がひいては 触覚が世界に開かれたハーンの言語的器官であった。彼は並外れた耳の人であった。

つまり自然のアニミズム世界においては、石も、岩も、風も、川も海も生きて感情を 有するとハーンには思われた。自然世界はおしなべて生きる聖霊に満ちて、すべての 存在は自らの声や音を発する。

風は息吹となった言葉であり、万有の意味あるいは声や音を伝える役目を果たす。

万霊が音・声を示し、生きるものも声を発し、万霊は音・声・響きに満ちそれぞれの 意味を開示する。世界はシンフォニーを奏でるのであった。

その言葉はすでに実体的かつ実在的であり、普遍的概念を体現する実在する個体存 在であり、名前は個物の本質を示す声とされる。ここにおいて言葉は近代的な知性的 領域やそのレベルに生き活動していず、それは抽象的なものでもなく、呪術的で神秘 主義的なフェテイッシュとなる。

ハーン―チェンバレン論争においてハーンが唱えた言語観は、こうした言語の表音 文字性を強調するものであった 12(注釈:遠田 勝『神国日本』考―チェンバレンと の対立をめぐって」について)。

「西洋のメロディーのなかにあるどんなものにもぜんぜん似ていない、原始的な歌 によって呼びさまされた情緒、(略)、それは、わたくしなどより無限に古いものだと いうことはわかる。この宇宙の日の下にある、生きとし生けるものに共通した、喜怒 哀楽の情にふれるものだろう。そう思ってくると、今夜の歌が、教えずして「大自然」

の最も古い歌と偶然にも暗合している点と、それと野の音楽―あの多数にして甘美な 大地の叫びの一部をなす夏虫の声と知らぬまに血のかよっている点に、そこに何か深 い秘密がひそんでいるのではあるまいか」13(ハーン 1973, 48)

ここにはハーン独特の言語の表音性を重視する言語観がある。つまり言葉はあくま でも音象徴であり、響きや余韻のなかにこそ、意味がわけても言葉の大地性が潜在し 実感されるのである。ハーンのアニミズム世界の表現可能性とその源は言葉の表音性

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 41-45)