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物象化

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 36-41)

第 1 章 近代の共同幻想

1.2 物象化

「人間の手が築いたものであっても、もはや死んだ石の塊などではなくなっている。

それはみずから思考し、人を脅かすような何物かが吹き込まれており、形ある悪意を もった、さまざまな種類の物の怪の集まり、あるいは怪物的な 物 神フェテイッシュと化している」

(ハーン小泉八雲著池田雅之編訳『さまよえる魂のうた』筑摩書房 2004 年発行中の

「ゴシックの恐怖」53)

1.2.1 物象化という関係の対象化

先祖とは自己的他者である血脈でつながる自己内存在であるとハーンは語る。幽霊

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はこの場合外的他存在ではなく、内的な存在たる記憶化されている存在である。幽霊 は過去の様々な既視感・未視感といった感覚的記憶が生み出す祖霊魂としての幻想で あり、その感覚的記憶が凝集され物的対象化されたものである。外的対象との祖霊に おける内的で恐怖的な関係の物象化されたものが幽霊である。

幽霊はまさにハーンが言う上記のフェティッシュ 1(Hearn1973,72)の対象なので ある。対象との関係である自己における主観や恐怖的感情が生み出す幻想、それが幽 霊なのであり、人間の心における人間が有する恐怖感の具体的な物象化された像なの である。また恐怖的関係性とは自己の内面におけるイメージと自己意識との間に生ま れる恐怖的感情なのである。恐怖感情を物象化して具体的対象に化したものが幽霊で ある。

古代ギリシャの数学者ユークリッド(エウクレイデス 紀元前 300 年頃、古代ギリ シャの「幾何学の父」と呼ばれる)はその原論第一巻において線の定義について、「二 線は幅のない長さである。」「六 面の端は線である 2(中村幸四郎,1978, 19-20)

と語る。しかし線自体においても必ず幅がある上に、線が面の端であるということは、

線とは一つの面が他の面に接する端であり、接する 2 面のそれぞれの一部ということ である。

つまり端は面と面との端であって線が単独で自立して存在するわけではない。面の 二つの端は存在するが、しかし線は存在しないのである。線とはあるようでないとい う大乗仏教が語る空無なるものであり、線という言葉により人は線を独立した単独の 実在存在と錯覚しているのである。

線とは人間の認識が生み出した概念つまり言葉でしかなく、線・辺があると思うの は言葉の魔術力により生み出される人間の思い込みによる幻想である。線は存在しな い。それは、幽霊という言葉で人は幽霊という存在をしかも実体的に有たる存在とし て幻想化するのと同じである。

「そしてわれわれの美的進化の長き過程の中で、ついに女性美の理想がわれわれに とっての美的な抽象観念に至ったのである。そのような抽象観念を通してのみ、われ われは世界の魅力を知覚するのである。それは、虹色の蒸気のように広がる南洋の大 気を通してこそ、様々な形が知覚されるのと同様である」3(Hearn 1973,86)

虹は霧であり曖昧模糊としたものでその色について分節・識別は困難なものである。

しかし各国語は虹という同一対象の色を 3 色、7 色、12 色・・と様々に認識する。そ れは個人がその文化の規範に従って虹というイメージを様々に分節化し物象化する ためである。固有の文化そして言葉によりつくられた先入観が、人の心に虹の色を瞬

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間的に決定し、内的先入観の色により外の空の虹を見るためである。先入観がイメー ジを外的形象へと作り出すのである。

文化たる言葉は実体を指示するものではなく、言葉は実体を観念化・想像化つまり イメージ化を図り生み出す「存立的関係」(丸山後述)にあるのである。物のイメージ を生み出す作用を言葉は果たすのである。言葉とは物象化活動なのである。

物象化についてポストモダニズムの旗手とされ近代批判を志向したボードリアー ル(ジャン・ボードリアール 1929 年―2007 年 フランスの哲学者・思想家)は、

従来のマルクスの労働・経済活動での物象化論を広げて、近代社会の人間活動の根本 にある現象と考える。

「最近の現象学では必ずしも経済過程と関連づけないで、少なくとも行為の対象化、

客体の自立化というふうな現象を物象化と言っている」4(ボードリヤール 1982、226)。

その物象化においては主体たる人間のいだく主観的なイメージ(意味・価値のみな らず観念・願望・期待・必要性)つまり物そのものとの主観的関係が、客観的な物的 姿・形として物質化・物体化し、そのように関係性が幻想化されるのである。

物象化は、本来は啓蒙思想家シャルル・ド・ブロス(1709 年-1777 年、フランスの比 較宗教学者)が宗教の原初的形態を特徴化する事象としたフェティシズム(呪物崇拝・物 神崇拝)に始る。さらに近代においてマルクス(カール・マルクス、1818 年-1883 年、ド イツの哲学者・思想家)は、「商品の物神的性格」5(マルクス 1965、65-76 )のなかに物 象化を読み取り、それを近代の商品生産様式を根本的に支える精神活動とする。

商品価値とは形而上学的概念であり、実在する客観的存在ではない。商品価値は商 品の中に固定的に内在化されているものではなく、商品を取り巻く社会状況や文化状 況の多様な影響を受けつつ、人の心において商品価値として存在し生み出される観念 である。

そのように商品価値は、文化的社会的関係として人の心のなかに生み出され維持さ れるものである。しかしながら人は上記の幽霊像におけるように商品価値を対象化し、

それを心の外の実際の商品のなかかあるいは商品の背後に超越的に現前化する。

霊魂の宿りの如くある精神を、物的存在のなかにあるいは物的存在として仮託する 人間の心の営みが物象化である。精神そのものは、物的現象のような定量的存在性つ まり姿・形を有するわけではなく、精神とは形而上学的存在としての空的存在性をも つ。人間の主観つまり精神的はたらきは、それ自らを自らで外化し表現することはで きない。

精神は、もの(物・物質・物的現象)によってのみ自らをー間接的にのみー表現する

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ことしかできない。人間精神一切が、物質・物的現象により自らを打ち開き自らを伝 えることそのものが物象化の意味である。したがって物質とは精神を伝える媒介に過 ぎないのである(後述)。

関係の観点にもとづき商品が他の類似する商品と差異化され、その購買価値が他の 商品に比してより高いあるいはより適切とされる、つまりその商品と自分との文化的 社会的関係のなかで、その商品を介して得られる利益が他の類似する商品を介して得 られる利益よりも自分にとってより高い益となると認識されるがゆえに、その商品が 購入される。商品価値は、商品と購買者との関係のなかにあり、その関係は社会文化 的な状況により決められまた常にその関係のなかで変動する。

商品購買を求め決意させる社会文化的関係状況のなかで、はじめて商品は商品と しての意味がー錯覚的にー実在視され、価値あるものとされ、その商品について価値 あるとする判断からその商品が貨幣を介して購入される。購買を決意させる社会文化 的関係状況にない限り、商品は人間にとって無価値であり無意味な存在であり続ける。

また貨幣は、無機的な物的存在であるとともに、感覚を超越する霊的存在性さえ示 すものである。近代の人間生活において、貨幣が持つ感覚を超える価値・価値のレベ ルそして意味が、貨幣のなかに常に物象化される。貨幣は物象化という幻想を促すた めの存在であり,また物象化を自らが受けるために存在する道具的幻想存在である。

生の哲学というハーンと同じ系譜にあるジンメル(ゲオルク・ジンメル 1858-1918 ドイツの哲学者・社会学者)は近代の人間同士の社会的関係を貨幣に象徴的に見出し た。彼は、「貨幣とは何であるかではなく、貨幣は何のためにあるかが、貨幣にその 価値を与える」6(ジンメル 2008,199)と言う。つまりジンメルも貨幣の価値を貨幣 そのものではなく、貨幣が有する関係性のなかに見出すのである。貨幣こそが、空虚 なる近代物質文明の空虚なる幻想存在として、空虚なる近代の本質を見事に象徴する とジンメルは考えたのである。

物象化には、近代以前の実体論的パラダイム(時代思潮)から近代の関係論的パラダ イムへの転換の相が如実に現れている(近代言語学者ソシュールに従う。後述)。この パラダイム転換の、近代社会における社会的普遍的概念(下記にて扱われる近代の諸 幻想)への関係化や意識化のなかに、物象化は人間疎外の危険性の源たりえるものと なる。物象化にもとづく商品・生産の枯渇することのない、質量ともに肥大化する欲 望が絶えることなく続くことを、社会は必須とする。物質文明の大量生産・大量消費 様式は物象化にこそ支えられ、それにより発展をし続ける。

人間により物象化された事物の有する空虚さは、物象化の有するその不自然で過剰な る必要性に由来する。近代社会における廃棄物の膨大な量、危険廃棄物の惨状、都市に おける鉄筋コンクリート建築の無機的世界、こうした山積する環境問題など多くの問題

ドキュメント内 2015 年度博士学位申請論文 (ページ 36-41)