第7章 総合考察
7.1 漢字を媒介とする言語間転移メカニズム
本研究の第一の研究課題として、漢字圏における年少者の継承日本語話者は、日本語の漢 字をどのように認識するのかと設定した。そのサブ課題として、Cummins の相互依存仮説 をもとに、中国語から日本語への言語間転移がどのようにおこるのか、その漢字認識という 点において漢字圏の継承日本語話者にはどのような独自性があるか、漢字圏年少継承日本 語話者の日本語の漢字を認識するプロセスを明らかにする、の3つを挙げた。本節では、そ れぞれのサブ課題に対する考察結果を述べる。なお、漢字圏での独自性とは、非漢字圏での 継承日本語漢字習得、日本語環境での母語として日本語漢字習得、及び中国語母語話者の外 国語としての日本語漢字習得との比較においての相違を意味する。
7.1.1 同根語の漢字による中国語から日本語への言語間転移
第一のサブ課題は、Cumminsの相互依存仮説は日本語と中国語の漢字の間でどのように 実証されるのかである。
本研究で実施した漢字読み調査の結果、現地校児童は日本語の「未習」の漢字を含めて、
既習の中国語の意味概念の転移が見られ、Cumminsの相互依存仮説を実証できたと言える。
転移の効果は、正式な日本語学習を行っていない高得点群児童が日本語モノリンガル児童 と同程度のテキスト読みを見せたことから明らかである。
Cummins の相互依存仮説は、「言語Lxによる教育が Lxの言語能力を獲得するのに効果
的であるならば、その効果の程度によって、この獲得された言語能力はLyに転移する。但 し、学校教育であれ周囲の環境であれ、Lyの十分な接触があり、Lyを学ぼうという十分な モチベーションがあることを条件とする」(Cummins, 2008: 68)という仮説である。
この仮説は通常、一つの言語がしっかり育っていれば、もう一つの弱い言語の方にも強い 言語から言語能力が転移して、両言語の発達につながるというと解釈される。しかしながら、
この解釈は単純化し過ぎて誤解を招く可能性がある。Cumminsの相互依存仮説の転移には、
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いくつかの条件が必要とされる。子どもが受ける教育がその教授言語の発達に効果的であ るということ、教育を受けていない方の弱い言語には十分な接触が必要であること、子ども の弱い言語に対するモチベーションの 3 つが挙げられていることが分かる。それを本研究 の対象者に当てはめると、現地校児童は中国語で受ける教育が中国語の発達に効果的であ ること、日本語の十分な接触があること、子どもが日本語を使ってインタラクションをした いと思うことである。
しかしながら、仮説の条件を検討すると、いくつかの疑問点が浮上する。本研究の漢字読 み調査で明らかとなった小学一年生の段階での転移促進要因は、認知の発達、平仮名の習 得・習熟、日本語の語彙力、中国語の漢字知識の4つである。日本語の語彙力は日本語の十 分な接触があることに相当し、中国語の漢字知識は中国語で受ける教育が中国語の発達に 効果的であることに相当する。
まず、はっきりしないのは認知の発達である。二言語のリテラシー能力を促進させるため に有効なバイリンガル・ストラテジーの一つとして、「共通の言語起源を共有する言語間で は、同根語に注目させること」(Cummins, 2008: 73)を挙げているが、同根語への気づき や同根語の同定は認知力の発達と大きな関わりがあるのか、認知と関わりのない個人差な のかは明確でないが、中国語から日本語への転移はほとんどが同根語の漢字によるものだ と考えられるため、子どものバイリンガル発達を考える上で認知の発達差や個人差を検討 しないのは一つの不足点だと言える。
次に、日本語の十分な接触というのは非常に曖昧である。北京の小学一年生前期修了時調 査の結果から学習者要因を分析考察したが、低得点群の B0-11 は日本語の接触は十分にあ り、日本語に対するモチベーションも高いが、日本語インタラクションの相手が父親である ためなのか、会話言語としての日本語の発達につながっていない。B0-12も日本語の接触は 少なくないが、漢字による転移に困難を生じている。一方、B0-1は家庭内の日本語使用も メディア利用も少なく、日本語語彙が少ないが、転移の効果は明らかである。
そして、中国語の漢字知識について検討すると、小学一年生の段階では知識差はあまり顕 著には出ないが、言語背景質問票のアンケートの結果から、中国の「語文」(こくご)が嫌 い且つ、或いは苦手という子どもが少なくない。中国語で行う教育が中国語の発達に効果的 である程度によって転移が起こるのであれば、中国の「語文」が苦手であることが今後中国 語から日本語への転移によって日本語習得を進めていく上での問題として立ちはだかる。
本研究の調査結果では、平仮名の習得・習熟が転移の促進要因として分析された。
Cumminsの条件には入っていないが、平仮名の習得・習熟は日本語の読み物に多く触れる
ことによって達成されるものである。したがって、弱い方の言語の読み書き能力を一定レベ ルまで到達させることが重要であると結論づけることができる。
Cumminsの転移の条件では、もう一つ子どもの日本語へのモチベーションが挙げられて
いる。モチベーションにもまた曖昧さが残る。小学一年生の段階ではモチベーションがある かないかははっきりと分からないが、少なくともモチベーションが問題になるようなケー
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スは、心理的問題を抱えているように見えたB1-16を除いて見当たらない。
以上、本研究の漢字読み調査の結果に基づいて、Cumminsの相互依存仮説を実証できた かどうかの考察を行った。両言語の依存関係は漢字を通した意味概念の転移という現象と して確認できたが、仮説の条件についての実証は今後の課題となる。
7.1.2 非漢字圏継承日本語漢字習得プロセスとの相違
第二のサブ課題は、漢字圏年少継承日本語話者の漢字認識はどのような独自性があるの かである。本項では、その独自性を非漢字圏継承日本語話者との比較において考察する。
北京・台北・香港で実施した小学一年生の漢字読み調査の結果から、日本語として「未習」
である漢字でも、中国語の漢字の既有知識を利用して、漢字を読むことができることが実証 された。それは、日本語と中国語間の形態的に同一或いは類似していて、意味も同一或いは 類似している同根語の漢字による効果を示したものである。そして、この漢字の同根語の効 果は、中国語の漢字を学習していることが必須条件となる。
漢字圏、非漢字圏に関わらず、継承日本語話者である子どもは家庭で培った音声言語とし ての日本語の基礎があり、日本語を含む二言語或いはそれ以上の言語を音声言語として身 につけている可能性もある。音声言語としては同様の日本語の発達がありながら、漢字の存 在が漢字圏と非漢字圏での日本語の読み書き習得を大きく分かつことになる。非漢字圏で は、日本語習得のためにゼロから漢字学習を行わなければならないのに対し、漢字圏では、
現地の学校教育の中で蓄積された中国語の漢字知識があるからである。そのため、中島
(1998)の報告では、非漢字圏の継承日本語学習では、日本語学校や週末補習校で長年日 本語の読み書きを学習しても、日本の子どものより数年遅れのレベルにしか到達しないと される。それに対して、漢字圏での継承日本語学習では、漢字をゼロから始める必要はなく、
小学4年生までの中国語の漢字学習で、日本語の常用漢字をほぼカバーできるのである。
また、非漢字圏と漢字圏での継承日本語学習の相違は、読み書きの到達レベルだけではな く、その学習の継続にも表れる。岸本(2008)は、アメリカでの日本語継承のつまずきが、
多くの場合、読み書き学習の困難によって起こることを指摘している。そして、読み書きは 自然には伸びず、努力しないと獲得できないと主張し、継続して学習することの大切さを説 いている。しかし、北京での事例は、読み書きに対する継続的な「学習」は一般的ではない ことを示している。読みについては、通念としての「学習」ではなく、様々なメディアを通 したインタラクションと現実のインタラクションの相互作用によって総合的な読みの力が 育成され、漢字を含めた日本語習得につながっていると言える。書きについては、実際の必 要に応じて学習するという立場が大勢である。
さらに、香港の事例から、漢字圏であっても学校教授言語の違い、中国語学習の程度の違 いによって、中国語の漢字が日本語習得に果たす役割が異なることが明らかになっている。
英語で授業を行う英文校・国際校に通う13名の児童の漢字読みタスクのプロセスを学校形 態と中国語授業数をもとに比較した結果、現地英文校・現地国際校児童 6 名には明らかに