第6章 漢字圏での日本語言語資源とトランスナショナル空間
6.1 漢字圏年少継承日本語話者のトランスナショナル空間
非日本語環境で、日本語の語彙力は、いったいどのようにして身につけられていくのであ ろうか。日本語環境であれば、周囲の言語環境から語彙は取り込まれ、自然に身につけてい くことも可能であろう。しかし、非日本語環境においては、子どもの語彙の力を育成するに は、意識的な努力や工夫が必要となる。限られた日本語の言語資源環境で、日本語のインタ ラクションを実践するために利用される空間を本稿ではトランスナショナル空間と呼ぶ。
本節では、そのトランスナショナル空間について基本的に概説した後、第4章と第5章で取 り上げた北京在住日中国際結婚家庭のトランスナショナル空間について、分析考察を行う。
6.1.1 「越境」サブシステムからトランスナショナル空間へ
柳瀬(2015)は、北京在住日中国際結婚家庭の継承日本語教育について、トランスナショ ナルな視点から捉える「越境」という概念を用いて、長期的・包括的にその全体像をつかも うとしたものである。
日中の国際結婚家庭では、日本の言語文化システムと中国の言語文化システムが共存す るものと考えられる。中国で生活をする日中国際結婚家庭では、出会った経緯から夫婦間の 言語使用が日本語である場合も多く、また夫婦間の言語使用が中国語である場合も、子ども への日本語の継承を行おうとすれば、家庭内に二つの言語文化システムが併存することに なる。そうしたシステム間の境界を行き来することを「越境」として捉え、子どもへの継承
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日本語教育戦略をいくつかの「越境」サブシステムから構成される一つのシステムとして描 こうとしたものである。
具体的には、社会の主流派である中国の言語文化システムの中で生活する子どもが、日常 生活の中でどのような日本語文化システムへの「越境」を行っているのかについて、面接調 査で得られた内容をもとに子どもの言語発達に関連する要素を抽出し、「越境」という概念 を用いて整理した。その結果、以下の9つのカテゴリーに分類できた。カテゴリーごとの内 容を簡単に表6に示す。
表6.1 「越境」概念によるカテゴリー化
カテゴリー 内容
[1] 居住地の「越境」 日本から中国へ移住
中国から日本へ、或は第三国へ移住 [2] 国籍/エスニックアイデンティテ
ィの「越境」
中国社会で「日本国籍者」として生活する 重国籍でも「日本人」として見られる [3] 家庭内言語の「越境」 家庭内での言語の使い分け
家庭のウチとソトでの言語の使い分け [4] 家庭内学習の「越境」 家庭で日本人母親が学校の勉強を見る 日本の通信教育で日本語の勉強をする 日本語の塾に通う
[5] 学校外活動の「越境」 「日本語と日本文化のための子供会」77に参加する
「ニッポン塾」に参加する 日本人コミュニティに参加する
[6] 家庭内文化空間の「越境」 家庭内で日本的なモノ、習慣、しつけをする 日本のテレビ番組を視聴する
日本のアニメを観たり、漫画や本を読む [7] 国境の「越境」 日本へ一時帰国する
[8] 親戚友人関係の「越境」 日本の親戚が中国に来る 日本の親戚や友人と交流がある [9] 教育機関の「越境」 日本の学校に体験入学をする
中国語以外の教授言語の学校に通う
これらの9つのカテゴリーについて、面接調査や質問調査のデータから個々の「越境」性 の有無を調べ、子どもの優勢言語及び母親の満足度との関について分析を行った。
その全体像は、中国語と日本語、それにグローバル言語である英語も加えたマルチリテラ
77 N会主体の子どものための活動で、当初「日本語と日本文化のための子供会」としてスタートしたが、
後に「ニッポン塾」と改称した。
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シー育成の教育戦略として一つのシステムを構成するものとして捉えられた。システムの 日本語習得に関連して、中国語中国文化環境の中で日本語日本文化へと「越境」するサブシ ステムが 9つあり、その9 つのサブシステムが相互に影響し合い、一つの長期的・包括的 システムを構成する。9つのサブシステムは、エスニックアイデンティティと家庭内での日 本語使用が核となり、それに続いて影響力が大きい家庭内の日本文化空間と日本への一時 帰国、そして越境教育、日本に繋がる親戚友人、移住経験、コミュニティ、日本語学習から 成る。これらのサブシステムは別々に存在するのではなく、それぞれのサブシステムの間に 相互作用の関係があり、一つのシステムを構成しているとされた。
本研究は、柳瀬(2015)の継続と発展という位置づけであるため、「越境」の概念は踏襲 するが、次の三つの点で異なる。一つめは、「継承日本語教育」という言語と文化やアイデ ンティティまで含む非常に幅広い設定から、日本語習得に焦点を絞ったことである。二つめ は、一つめに関連して、9つのサブシステムから言語習得に影響を与えるものの、日本語の インタラクションが行われる空間としては適当でない「エスニックアイデンティティ」と
「移住経験」を除外した。三つめは、社会文化的アプローチから言語使用、言語運用を重視 し、インタラクションが行われる「空間」という概念をシステムに替えて採用した。したが って、トランスナショナル空間とは、インタラクションによって言語文化システムの越境が 行われる「越境空間」である。
このような言語文化システムの境界を越える「空間」は、家庭の条件や志向に合わせて、
また子どもの成長や興味関心に合わせて構築されていくものと思われる。次項では、本研究 の小学一年生後期修了時漢字読み調査に参加協力した北京在住の児童18名について、保護 者が記入した言語背景質問票をもとに、児童を取り巻くトランスナショナル空間への活動 参加の実態を明らかにする。
6.1.2 北京在住漢字読み調査協力児童のトランスナショナル空間
次の表6.1は、北京の小学一年生修了時漢字読み調査協力児童の家庭の言語使用状況をま とめたものである。
表6.2 北京の小学一年生後期修了時調査協力家庭の言語使用
父
(1)
母
(1)
両 親 間 会話(2)
父/子 母/子 兄弟 間
言語 優勢 順位(3)
備考
B1-1 B A J CJ/C J/J - 中日英 祖父母同居(C)
B1-2 ✕ A CI C/C JC/JC CJ 中日英 家政婦(C)
B1-3 A A J J/JC CJ/CJ - 中日英 父日本語母語話者(4)
母中国語母語話者
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B1-4 B A J/J JC/JC J/JC CJ 中日 祖父母同居(C)
B1-5 ✕ A C C/C J/J JC 中日英
B1-6 B A J CJ/CJ J/J - 中日英 日本へ移住予定あり
B1-7 A A C/C C/C J/J J 日中 祖父母同居(C)日本人学校
B1-8 A C C/C C/C J/J J 日中 祖父母同居(C)日本人学校
B1-9 ✕ A C C/C J/J - 中日英
B1-10 A A J/J J/J JC/JC JC 日中 父日本語母語話者/母多言語
話者(朝・中)/日本人学校
B1-11 B A J/J CJ/CJ J/J - 中日英
B1-12 A A CJ/J CJ/CJ J/JC JC 中日英 蒙古
父多言語話者(蒙古・中)母 日本語母語話者/家政婦(C)
B1-13 ✕ C C/C C/C JC/JC CJ 日中英
B1-14 B A JC/JC C/C J/J - 日中
B1-15 A A C/C C/C JC/CJ CJ 中日英 母家庭内外で日・中使い分け
B1-16 B A C/C J/C C/C - 中英日 父日本語母語話者
母中国語母語話者
B1-17 B A J/J JC/CJ J/CJ - 中日
B1-18 A A C/JC C/C J/J - 日中
注(1) 父母それぞれ配偶者の言語の力をA.日常会話レベル、B.ビジネスレベル、C.ネイティブレベル、全 くできない場合は✕で表した。
注(2) 主な使用言語を夫/妻で表示、一人の話者が二つ以上の言語を主として用いる場合は、多い順に表記。
Cは中国語、Jは日本語、以下、父/子、母/子、兄弟間も同様である。
注(3) 質問票記入の保護者が判断した子どもの言語の得意順。順番が同じぐらいのものは読み書きが得意 な方を優先した。
注(4) 特記していないものは全て、父中国語母語話者、母日本語話者である。
どの家庭も中国語のC と日本語のJが交錯するトランスナショナルなインタラクション の状況が見て取れる。次の表6.2は児童を取り巻くトランスナショナル空間への参加活動状 況をまとめたものである。
表6.3 北京の小学一年生後期修了時調査協力児童のトランスナショナル空間
言語 優勢
家庭 言語
一 時 帰国 頻度
メディアの利用
(絵本・本・TV・ゲーム インターネットなど)
日本語学習 家庭外日本 語コミュニ ティ
体 験 入学
B1-1 中日英 中日 1/年 動画(C) しまじ ろう注(1)
(過去)
✕ ✕
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B1-2 中日英 中日 2/年 図鑑・アニメ(CJ)
ゲーム
しりとり・ドリ ル
たまにN塾
注(3)
あり
B1-3 中日英 中日 1-2/
年
童話・アニメ(CJE)・動 画
公文(日本語) ✕ ✕
B1-4 中日 日中 2/年 本・アニメ(C)・TV(J) N塾への参加 N塾 ✕
B1-5 中日英 中日 1/年 絵本・本・TV・ゲーム・
音楽
チャレンジ N塾 あり
B1-6 中日英 日中 2/年 絵本・本・TV 家 庭 内 会 話 ・
TV・日記
✕ あり
B1-7 日中 中日 1-2/
年
本(物語)・アニメ・漫 画
日本人学校 学校の友人 ✕
B1-8 日中 中日 2/年 本・ゲーム・アニメ 日本人学校
公文(中国語)
学校の友人 ✕
B1-9 中日英 中日 2/年 漫画・DVD・検索 チャレンジ注(1) 過去N塾 希望
B1-10 日中 日中 1/年 童話・アニメ(J)・TV(C) 日本人学校 学校の友人 ✕
B1-11 中日英 日中 1/年 図鑑(C)・絵本(J)・ア ニメ・ゲーム
ドリル・読み聞 かせ
N塾 あり
B1-12 中日英 中日 2/年 絵本・TV(CJ) 進研ゼミ ✕ ✕
B1-13 日中英 中日 2/年 本・漫画・アニメ ✕注(2) N塾 ✕
B1-14 日中 日中 2/年 本・漫画・アニメ 会話・ドリル・
読書
N塾 あり
B1-15 中日英 中日 2/年 絵本・TV(JC) 読み聞かせ・ひ
ら が な ポ ス タ ー
野球チーム あり
B1-16 中英日 中日 1/年 DVD(J)・本・アニメ・
ゲーム(C)
日本語の会話 ✕ あり
B1-17 中日 日中 1/年 絵本・本・アニメ(JC)・
TV(J)
チャレンジ ✕ ✕
B1-18 日中 中日 2-3/
年
絵本 読み聞かせ・日
記
たまにN塾 あり
注(1) ベネッセの進研ゼミ通信教育。0歳から6歳向けの「こどもちゃれんじ」(通称「しまじろう」)と小 学生向けの「チャレンジ」がある。
注(2) 言語背景調査の回答に「日本語学習はしていない」と記入されていたため、「×」となっているが、
B1-13は平仮名・カタカナの読み書きは学習済みであり、N塾の活動にもよく参加する。何を「日本
語学習」とするかは、回答者の主観が影響する。
注(3) N塾はN会の母親が組織する日本語と日本文化に触れる子ども会活動で、月に一度2時間半程度、