第2章 先行研究の概観と研究課題の提示
2.5 海外での継承日本語教育
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数少ない先行研究であるが、以上の先行研究から示唆されるのは、漢字圏と非漢字圏では、
継承日本語の漢字学習は全く異なったプロセスを辿るということである。台北で週末の日 本語授業校に通う児童生徒に関して、服部(2014)は、「(授業校で使用する)国語教科書で 学年を追うごとに増える漢字は助けにはなるが、壁にはならない。この点は、非漢字圏の JHL学習者と大きく条件を異にする」(服部, 2014: 136)と述べる。
次節では、読み書きを含めた継承日本語教育の実践についての先行研究を概観する。
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れたケースでは子どもの英語力への心配からである。子どもの就学以降に転換されたケー スでは、学校で英語の読み書きが始まり、これに日本語の読み書きを子どもに習得させるこ とは子どもにとって過大な負担となることや、子どもの生活が学校中心にシフトし、英語が 日本語を圧倒するようになるためである。しかし、その一方で、当初英語使用を始めた5名 の母親のうち、2名はその後日本語使用へと転換を行っている。
興味深いことに、家庭での父親と母親の役割、子育てに対する意識が、母親の年齢によっ て大きく異なることが明らかにされている。年齢が上の母親は日本的なものを避け、英国志 向の傾向がある。家庭外で仕事を持ち、子どもに日本語を継承することはさほど重要ではな く、子育てについて比較的楽観的である。それに対して、年齢が若い母親の家庭では、父親 が仕事で忙しく、母親は専業主婦で子育てに専念する夫婦分業のケースが多い。また、母親 は「子ども第一」の子育てとともに日本語継承にも熱心である。Okitaはこうした違いにつ いて、バイリンガリズムに対する社会的肯定と理論の普及という社会歴史的なマクロ要因 と、母親の個人的な経験や日本との関係というミクロ要因に理由を求めている。
Okita (2001) は、日本人母親の継承日本語教育が、相反する様々なニーズに対する葛藤
とそのバランスを取る必要がある、外部からは見えない感情労働であることを指摘する。そ して、子どもに日本語を継承することは、配偶者からもその困難さが理解されない長期に継 続する一つの「プロジェクト」として表現される。Okita 自身も、この研究が英国在住の日 英国際結婚家庭という固有のケーススタディで、一般化はできないと断っているが、このよ うなライフヒストリー法を用い、継承日本語教育について長期的視野で記述した研究は数 少なく、非常に貴重な資料である。
上記の先行研究からも明らかなように、家庭を取りまく社会主流言語や子どもの学校教 授言語と家庭言語の関係から、継承日本語教育を遂行するためには、そのFLPを支える「教 育戦略」が必要であると考えられる。
渋谷(2011)は、日本人と欧米系の国際結婚家庭の熱心な日本語・日本文化教育の実践お よびその困難さを、社会の中に位置づけて、その教育戦略の内実と背景を明らかにすること を目的として、スイスの日本語教育機関に通う日系国際結婚家庭にアンケートを行い、56 の回答票をもとに子どもへの日本語の継承を教育戦略の視点から捉えようとしたものであ る。その中でスイス在住日系国際結婚家庭の日本人母親の教育戦略を、母語・母文化教育、
現地での教育、将来展望に分けて分析考察している。
母語・母文化教育は、日本に関するしつけや教育と日本語教育機関の利用の二方面から構 成される。前者は家庭での言語使用と文化伝達である。回答者のうち 84%が子どもに対し て日本語を使用しており、現地のスイスドイツ語で話しかけるのは1名のみであり、OPOL の考えが浸透していると推測している。それに対して、母親に日本語で話す子どもは59%、
日本語とスイスドイツ語の混合が10人であるが、兄弟間で日本語を使用するのは6人と大 きく減少する。
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日本人母親の子どもに日本語を学ばせる理由は、子ども自身のアイデンティティ形成の ため、母子間のコミュニケーションや理解のため、日本の親族とのコミュニケーションのた め、という3領域に集中している。その他、バイリンガル・バイカルチュラルであることの メリット、子どもの将来のため、日本に帰国した時のためという回答があった。一方、非日 本語母語話者である父親に関して、Okita(2001)では、英国人の父親がバイリンガルのメ リットを理由に日本語の継承を支持する傾向があったが、渋谷(2011)では、スイスの人父 親は日本語の継承に理解は示しても、積極的な支持は見られないようである。配偶者の職種 や収入は、両者には大きな違いはないことから、居住地や文化の違いによるものと考えられ る。
日本語の継承に関わるもう一つの教育実践は、日本語教育機関の利用である。その理由は、
日本語の習得、子どものアイデンティティ形成、日本の文化(特に学校文化)習得、家庭で 母親が日本語を教えることの限界が挙げられている。メリットとして、日本語力の向上、背 景の似た友人をもてたこと、デメリットとして、日本語教育機関の宿題と現地校との両立の 困難、家庭や子ども自身の事情による時間配分の困難のため、子どもが日本語教育機関に通 うことを嫌がることが挙げられた。継承日本語教育に関する他の先行研究でも、ほぼ同様の 指摘が見られる(岸本, 2010: 服部, 2014; 2015など)。
日本人母親の教育戦略のあとの二つの部分、すなわち現地での教育と将来展望に関して は、おしなべて現地校重視の一方で、子どもの進路希望として文化や国家にとらわれない親、
二文化・二言語の習得を望む親、そこからの超越を望む親など多様であることが報告されて いる。
子どもに日本語を継承することは、子どもの教育の一部であり、その他の教育的要素との 関係を視野に入れて調整されたり、変更されたりする「教育戦略」がFLPに反映されてい ると言えよう。
2.5.2 継承日本語教育のためのトランスナショナル空間
Spolsky (2009) はFLPについて、内部に独自の役割、関係があり、独自の言語政策があ
る領域を想定した上で、家庭はそのような言語政策が行われる多様な領域の一つと捉えて いる。このような立場から、継承日本語教育の中心的役割が家庭にあるとしても、継承日本 語話者には家庭以外にも独自の日本語の言語政策が採られる領域があり、そうした領域は 継承日本語話者に言語文化システムを越えたインタラクションを促す「トランスナショナ ル」空間として捉えることができる。
しかしながら、このような「トランスナショナル」空間の概念は一般的ではなく、先行研 究では、日本語の言語環境、言語使用、言語文化資源という捉え方で調査がなされている。
非日本語環境の日本語資源に関して、ダグラス・片岡・岸本(2003)がアメリカの日本語 教育機関を通して、児童生徒の家庭での言語環境を調査し、継承語校と日本語補習校、永住 組と一時滞在組に分けて分析をしている。調査の結果、保護者は子どもが将来どこに住むの
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かによって、日本語と英語の比重を変え、どちらかの言語に力を入れようとしていること、
また、アメリカに永住予定の家庭は、子どもたちが年少の時から、一時滞在組よりも日本訪 問、日本の文化に関する習い事などを通して、日本語及び日本文化の維持・発達に努力して いることを明らかにした。しかし一方で、日本語が児童の環境にどのぐらいあるかに関して は、永住予定で保護者のどちらかが日本語話者でない家庭では、家庭で話される日本語、日 本語を話す来訪者、日本語を話す子どもの友達、通信教育での日本の勉強など、どれをとっ ても日本語との接触量が限られていることも明らかとなった。すなわち、質問項目として取 り上げられている家庭言語、友人や来訪者、コミュニティ活動、学校外での日本語の勉強、
日本文化の習い事、日本訪問等は、継承日本語話者にとって日本語と接触する環境として調 査されているが、本稿の視点においては、日本語インタラクションが行われる「トランスナ ショナル空間」と見ることができよう。
Douglas, Kataoka & Chinen (2013) の近年の調査でも、日本語習得には家庭での日本語
使用、日本語学校での勉強、日本滞在経験が重要な役割を果たすと結論している。先に挙げ た渋谷(2011)のスイスでの調査でも同じ結果が示され、家庭での日本語使用と文化伝達、
日本語教育機関の利用が母語・母文化教育の要とされたが、その他に頻繁な一時帰国と体験 入学も重視されていることを報告している。本稿の視点に立てば、家庭、日本語教育機関、
一時帰国という日本語・日本文化の「トランスナショナル空間」への参加が、子どもの日本 語習得に効果があるということである。
ハワイの継承日本語学習者である新二世 41の児童期と青年期を社会心理学的枠組みから
調査したKondo (1998) は、子どもを取りまく家庭、学校、コミュニティ、日本の親戚とい
った個人の社会的ネットワークと日本語の関係を分析している。その結果、父親が日本人非 日本人を問わず、日本人母親が日本語の維持、とりわけ会話力に果たす役割が大きいことを 明らかにしている。つまり、家庭で母親が英語を話す場合、いくら子どもを日本語学校に通 わせても、子どもの日本語力は限定的なものにしか到達できないという。
また、欧米での継承日本語研究では、家庭と並んで現地エスニックコミュニティが重要な 役割を果たすと言われる(Shibata, 2000: Siegel, 2004; Oriyama,2012)。Oriyama(2012) は、シドニーの週末日本語学校に通う6歳から14歳の子ども62名を対象に、日系コミュ ニティ接触と日本語の読み書きの関連を調べる中で、言語使用に関する調査を行っている。
その調査項目は家庭内言語使用、日本への帰国頻度、親の日本語学習サポートや日本語教材 の他に、読書回数、テレビ番組視聴の多様性と頻度、日本の娯楽アイテムが取り上げられて いる。そのうち、読書回数とテレビ番組視聴の多様性が子どもの読み書き能力に大きく寄与 することを報告しつつも、日系コミュニティとの日常的な接触が、子どもの日本語の読み書 き能力の向上に最も貢献することを強調する。そして、その一方で、一時帰国の効果は一時 的なものとして、日系コミュニティでの日常的な実践の重要性を強調する。
調査対象者の属性や調査地により異なる結果が導き出されているが、これらの先行研究
41 新二世とは、戦前のハワイ移民の子どもを二世と呼んだのに対し、戦後移住の移民の子どもを指す。