第3章 日本の英語教育と言語態度の諸相
3.2 日本人と英語
3.2.3 隠れたカリキュラム:JET プログラムをめぐって
とんどの日本人の教師が完璧な英語運用能力をもち、英語をコミュニカティブに教 える技術をもっていたなら、JETプログラムをこの先続けていく必要はないだろう」
と述べている。ここにJETプログラムがもたらす弊害の一端が見える。まず、「日本 人英語教師に求められる完璧な英語運用能力」という点について考えてみたい。JET プログラムが開始されたこの当時は、日本人英語教師の英語力、特に口頭でのやり とりに特化したいわゆる「英会話」力が疑問視され、教師が到達すべき目標として
「ネイティブ・スピーカーの英語力、プラス英語教育的英語力(指導力)」というこ とが言われていた(松畑,1989)。英語という言語を教える以上、高い運用能力が求 められるのは必然であるが、それは母語話者レベルのものではなく、むしろ非母語 話者教師であるからこそ可能になる指導ポイントの理解や、日本人英語話者として のロール・モデルを示すことができるという、母語話者教師とは異なる非母語話者 の教師としての利点が広く認識される必要があるのではないだろうか(この点につ いては後述する)。
さらに、塩川(2002)が述べたコミュニケーションのための指導法の知識が日本 人英語教師に欠如しているという点について注意すべきなのは、JETプログラムで招 聘される母語話者教師ならば全員それに熟達しているという思い込みの危険性であ る。母語話者の教師が教室にいて英語を話しているからコミュニカティブな授業で あるという安易な過信が、コミュニケーション能力育成のための指導を形骸化させ る可能性をもっていることに言及したい 。実際にはこのような語学補助教師
(Assistant Language Teachers: ALT)の必要性について疑問視する立場もある。
Breckenridge & Erling(2011,p. 81)は、彼らは採用されるのに資格も必要とされな いことから、英語教育の専門家でもなければ、英語のモデルを示すためにいる必要 もないとしている。Kubota(2002,p. 24)は、彼らは日本の英語教育において、「国 際的なコミュニケーション」および「国際理解」を促すという名目のために教室に いるとしながらも、白人中産階級の北米人と英国人の優越性を強調する原因となっ ているとし、Seargeant(2009, p. 96)は、彼らの存在は成功する英語教育を強調する ための鍵となるセールス・ポイント(a key selling point)として使用されていると指 摘している。また、Kirkpatrick(2006)は、その求人には資格も教えた経験も求めら れておらず、ただ単純に、大学を卒業した英語母語話者であることだけが条件であ るとし、語学補助教師はとにかく母語話者でさえあればよいという印象を与えるも
のであるという。
このような側面から考えても、重要なのは、その母語話者の教師が教室にいるこ とで学習者にどのような作用が働き、どのような影響を及ぼすのかということをメ リットとデメリットの両面から、日本人英語教師、母語話者の教師ともに認識をす ることであると考えられる。メリットを考えるとすれば、JETプログラムにはその表 向きの目的として謳われた大きな利点があり、母語で通じあってしまう日本人同士 ではなく、英語でしか通じない相手が身近にいるという環境を提供していることで、
知識を活かした言語実践を広げる可能性をもっていることや、このように話したい という憧憬の念からの学習動機づけの増大、また、(ある特定の)異文化接触のきっ かけとなることなどが英語学習に及ぼす効果は否定できない。しかし、デメリット としては、学ぶべき英語はやはり母語話者の英語であるといういわゆる母語話者信 仰を助長し、この母語話者モデルが英語学習の最終到達目標であると学習者に強調 してしまうという弊害の大きさにも言及せざるをえないであろう。
D’Angelo(2008, pp. 69-70)は英語の授業を行う日本の教室におけるこのような母 語話者教師の多様性がないことについて、「「生きた英語」というものは、魅力的で 若く、単一言語しか話さない、いわゆる白人系の先生によって話される英語だけで あるという印象を学習者に与えてしまう」と述べ、痛烈に批判している。つまり、
明示的にそのような教育的意図がなくても、学習者たちに暗黙裡に学習されてしま う危険性を指摘しているのである。
これは、「隠れたカリキュラム(hidden curriculum)」(Jackson, 1990[1968])と呼ば れ、一般的に所属社会の価値観や信念、態度、行為などと関連しているとされる。
その着目点は広範囲に及ぶが、学校で使用される言語、教職員集団の年齢構成や男 女比、教師の反応など様々な行為等が、学習者に見えないメッセージを無意識に伝 えているという。例をあげるならば、日本では家庭科教員は女性の割合が圧倒的に 多く、この偏りが「男は仕事、女は家庭」に代表される男女の伝統的役割分担を当 然視する態度を促すこともあるという現象である。このような点に鑑みるならば、
JETプログラムを通じ、語学補助教師として英語を教える母語話者教師たちは、意図 せずに「生きた英語、本物の英語は自分たちの話す英語(だけ)だ」ということを、
英語の多様性についての知識がまだ乏しい学習者たちに伝えてしまっていることに なる。
Yano(2011, p. 131)はこの状況を端的に説明している。
日本では文部科学省の担当官らをはじめ、英語学習者から英語教育の専門家 に至るまで、日本人の多くが母語話者の英語だけが本物であり(real)、自然 であり(natural)、真正である(authentic)がゆえに学ぶ価値があると考えて いる。そのような人は母語話者のような、あるいは母語話者に近い英語の運 用能力の獲得という不可能な夢を抱いている。新聞や雑誌記事でよく目にす るのは、日本では英語教師のほとんどが日本人なので、母語話者教師をもっ と雇用する必要があり、そうすることによって本物の(genuine)英語が使 えるようになるという意見である。この考え方によれば、英語の非母語話者 は本物でも自然でも真正でもないということになる。[日本語訳引用者]
日本人にとっての「生きた英語」および「本物の英語」、「英語の真正性(authenticity)」
というのはまさにここに言及されているような、母語話者の語学補助教師たちが話 す英語のイメージであるといえる。そして、ここで重要となるのは、「彼らが話す英 語」そのものではなく、「彼らが話す英語のイメージ」なのである。