第3章 日本の英語教育と言語態度の諸相
3.2 日本人と英語
3.2.2 言語体系(知識)の習得と言語実践
そのような経済界からの急務の要請も後押しし、日本の英語教育において、「コミ ュニケーション」という概念が前面に打ち出され、抜本的な改革を行っていこうと する動きが本格化する中で、それが特効薬として扱われ、本来の意味を失っている という危険性についての指摘もある。
高橋(2001,p. 25)は、「実践的コミュニケーション」という語が導入されること によって、「役に立つ英語」を求める社会からの要望に正面から応えようとしている ことをアピールしているかのようであり、その概念があまりに即物的に解釈され、
5 1964年に英語を母語としない人々の英語能力を測るテストとして、米国非営利教育団体で
あるEducational Testing Service (ETS) により開発されたテスト(Test of English as a Foreign
Language)。大学のキャンパスや教室といった実生活でのコミュニケーションに必要な、「読
む」「聞く」「話す」「書く」の4つの技能を総合的に測定するとされている。
6 他には、コストの高さや、人材確保の困難さに加え、ビジネス慣行の違いなども挙げられ た。
外国語学習が本来持つ文化的な意味合いが無視されかねない危険性をはらんでいる としている。
また、斎藤(2007,p. 188)は以下のように述べている。
「受験英語」との関連で触れた文学・読解・文法・和訳忌避の傾向を決定的 にしたのは、昭和後期から「実用」、「英会話」、「生きた英語」、「国際理解」、
「異文化理解」など魅力的な粉飾を施された「コミュニケーション」の理念 である。言語本来の機能がコミュニケーションである以上、「言語教育にお いてコミュニケーションが重要である」という理念自体は、まさに類語ト ー ト反復ロ ジ ー とも言えるほどに自明であり、反駁することはできない。だが、昭和後期以 降の「コミュニケーション」の問題点は、それが文法・読解学習を排斥する 運動のスローガンとして用いられたということである。
つまり、言語が本来もつ機能である「コミュニケーション」が、日本の英語教育に おいて問題とされてきた受験英語の文法や訳読などの対極におかれ、「コミュニケー ション」という概念そのものが曲解されかねない機能を果たそうとしている現実を 指摘している。
言語教育における「コミュニケーション能力(Communicative Competence)」は Hymes(1972)が提唱した概念を踏まえて、Canale & Swain(1980)が特に言語教育 というコンテクストに合わせて再定義したものが広く知られている。
Hymes(1972)は、Chomsky(1965)の述べる言語能力の概念に異を唱え、それと 対比させて自らの理論を提唱したとされる。まず、Chomsky(1965)は変形生成文法 の視点から、言語理論の関わる世界を「言語能力(linguistic competence)7」と「言 語運用(linguistic perfomance)」に2分割し、前者を非明示的で通常は意識されない が必然的に存在し、理想化された言語使用者の知識で抽象的かつ理論的であるのに 対し、後者を様々な具体的状況における実際の言語使用で、直接観察することが可 能なものであるとし、研究の関心を前者の言語能力のほうに置いた。
これに対し Hymes(1972)は、社会人類学および社会言語学の見地から、言語運 用は、その基礎となる能力がただ顕在化したものではなく、持っている知識と活用
7 「言語知識(knowledge of langauge)」という表現も用いられている。
(に関わる能力)の両方に依存しているものだとした上で、社会文化と深く関わっ ているものであると主張した。人間の言語使用は何の動機も持たない認知メカニズ ムなどではなく、それには必ず社会的要因が関係しているというのが彼の見解であ った。この Hymes(1972)のコミュニケーション能力の概念に鑑みると、日本の英 語教育における「コミュニケーション能力育成のための英語教育」が、「文法などの 知識重視の受験英語」と切り離され、対置されたものであるとしたら、それは知識 から離脱した言語運用ということになる。そのようなものは存在するだろうか。両 者が互いに依存して存在するとすれば、どちらか一方を偏重することはコミュニケ ーション能力の育成には繋がらないといえるのではないだろうか。
このように Hymes(1972)がコミュニケーション能力の定義において、社会的適 切性に重点を置いた点を継承し、さらにCanale & Swain(1980)は、その概念8を言 語教育の文脈に沿って、以下の 4 つの要素から構成されるものであると再定義して いる。
(1) 文法的能力(grammatical competence):語彙、統語、音韻などの言語 形式を操作する能力。発話の文字通りの意味を理解したり、表現す るための必要な知識や技能と関連している。
(2) 談話的能力(discourse competence):一連の発話や文章をまとまりの あるものとして理解し、文脈の中で一貫した発話や文章を構成する 能力。文法的な形式と意味を結びつける能力。
(3) 社会言語学的能力(sociolinguistic competence):社会的文脈を理解し、
その場にふさわしい表現ができる能力。言語使用の社会文化的規則。
(4) 方略的能力(strategic competence):言語技能不足を補うために、言 い換え、身振り、話題の回避などによってコミュニケーションを続 行しようとする能力。言語的および非言語的なコミュニケーション 方略を扱う能力。
8 Hymes(1972, p. 281)による「コミュニケーション能力」:1.ある表現が形式的に(どの
程度)可能か。2.ある表現が、その場で使用できる手段を用いて、(どの程度)実行可能か。
3.ある表現が、使用され、評価されるコンテクストとの関連で、(どの程度)適切か(十分 か、幸福か、成功しているか)。4.ある表現が、実際に(どの程度)遂行されるか、そうす ることで何をもたらすか。
(Canale & Swain, 1980, p. 5)[日本語訳引用者]
これら 4 つの能力が相互作用することでコミュニケーション能力というものが成 り立っているとする立場に拠れば、やはり、斉藤(2007)が指摘する、日本の英語 教育における文法・読解学習を排斥するためのコミュニケーション能力育成を重視 したスローガンというのは、バランスに欠けたものであるということができるであ ろう。学校教育で行われるコミュニケーションのための英語が、単なる「英会話」
として捉えられていたという見方もあるのは、このような要因があったと考えられ る。
言語実践とは、その言語体系を知識として持っていると同時に、社会的文脈を踏 まえて、必要に応じて方略を用いながらそれを運用することである。文法的知識等 のみに偏りすぎて、この言語実践がなされていなかったとされるそれまでの英語教 育の状況は、学習モデルであった母語話者標準英語に対しての規範主義が強く作用 し、それを知識として忠実に吸収することのみに力が注がれていた結果であるとい える。日本の英語教育が、Hymes(1972)やCanale & Swain(1980)のいうようなコ ミュニケーション能力の育成を目的とするのであれば、それは知識と実践の両者が 共存して初めて成立するのである。逆説的ではあるが、身につけた知識を活用して 言語実践を図ろうとすれば、おのずとその場、文脈にふさわしい社会言語学的能力 や、非母語話者としての方略的能力の必要性について自ら求めることになる。それ と同時に、自分が運用する英語が、規範となっていた母語話者英語といかに異なる のかという現状も突きつけられることになる。それが言語実践なのであり、実践と しての言語運用をもってして、自らの非母語話者としての英語を受け入れる態度に 繋がっていくのではないだろうか。
これまで、日本の英語教育におけるマクロ的な流れを概観してきたが、このよう なコミュニケーション能力の曲解の懸念がある中で、さらに、当時実施された政策 である「JETプログラム」の問題点や、それに関わる日本人の英語観の諸相を、実際 の英語教育の現場では何が起こっているのかという、よりミクロな視点で捉えてい きたい。