第3章 日本の英語教育と言語態度の諸相
4.1 ライフストーリー法のアプローチと理論的枠組み
第4章 日本人英語教師の英語観に関するライフストー リー研究
本章では、日本人英語教師が抱く英語観について、2章で議論した「国際語として の英語」、3 章で論じた学習モデルとする英語、および非母語話者教師として自身が 話す英語に対する認識を中心に、その実態を明らかにすることを目的とする。また、
それらの英語観がいかに形成されてきたのかについて、個々の教師たちの経験や教 育的信条などから、その経緯を紐解くことを試みる。
これまで「日本人の英語観」についての言説は集団に依拠し、背景にある歴史的 事象や社会現象を踏まえて一般化されて捉えられてきた。しかし、そのような一般 化がなされる際には、個人が経験してきた多様な現実が見落とされ、複雑化した言 語態度の諸相を捉えることが困難になる。そこで本稿では、個々人における現実認 識の個別性、多様性を例証し、個人が言語を介して現実を解釈する際に依拠する規 則を明らかにする研究法であるライフストーリー法(石黒,2012,p. 181)を用いて 教師個人の語りから多様な英語観を拾い上げることを試みる。
まず、ライフストーリー法の特性について述べ、次に、本研究におけるライフス トーリー法の採用の意義を議論する。
理解する上での基本的課題は歴史性と社会過程の把握や社会的現実の理解であり、
個人が社会の担い手であると同時に社会の構成と解釈の主体であるという考え方を 主張した研究者たち1によって再び注目を集め、さらにはエスノメソドロジーの台頭 や、社会的現実と社会構造を人々の構成物と見做し、主観性に重きを置く理論は「人 間中心的アプローチ」とされ、社会学、人類学、歴史学、心理学、社会政策、政治 学などの多様な分野でその地歩を固めていった。プラマー(1991, p. 24)は、社会科 学の大部分は客観的なものを得ようと努めるのに対し、生活史研究では主観的なも のの領域を明らかにしようとするものであると述べ、量的研究法とは着眼点が全く 異なる点を強調し、ライフヒストリー法の有用性を明示した。
このような系譜を辿るライフヒストリー法からさらに分化したのが、ライフスト ーリー法である。やまだ(2000)は両者の違いについて、ライフヒストリー研究で は「歴史的事実」に関心をもつのに対して、ライフストーリー研究では「語られた 真実」に関心をもつと指摘している。ライフストーリー研究では「語り」そのもの が重要視され、たとえ語られた内容が記憶の誤りで歴史的事実とずれていたとして も、その人の「語り・物語」はリアリティをもつと考える点に特徴があるとしてい る。
桜井(2002,p. 61)は「方法論的に、ライフストーリーをライフヒストリーから 分かつ点は、後者が対象者の現実のみを描いて調査者を見えない「神の目」の位置 におくのに対して、調査者の存在を語り手とおなじ位置におくということである」
としている。つまり、ライフヒストリーでは、インタビューを行う調査者はあくま で可視化されない存在であり、協力者の語りそのものが歴史的事象や背景と照らし 合わせて解釈されるのに対し、ライフストーリーでは、協力者である語り手だけで はなく、インタビュアー、聴衆、世間といったカテゴリーをもつ聞き手との言語的 相互作用によってストーリーが語られ、そのストーリーを通して自己や現実が構築 されると主張している。その意味で、ライフストーリーは単なる過去の出来事の表 象ではなく、語り手と聞き手との対話の産物であり、桜井はこれを「対話的構築主
1 ミルズは『社会学的想像力』(1965)で、大きな歴史の流れの中で「今」を問い、歴史を構 成する個々の人間の生活史を見つめ、多様性に目を向けることの重要性を主張し、統計的研 究法中心の抽象化された経験主義を批判した。また、人類学者のルイスは『サンチェスの子 供たち』(1969)のなかでメキシコ人家族の一人一人の生活を詳細に記述し、数量的研究では 映し出せない「貧困の文化」の諸相を描き出した。
義アプローチ」と呼び、統計的手法を用いた量的調査などの「実証主義アプローチ」
や、グラウンデッド・セオリー・アプローチ(木下,2003)、KJ法(川喜田,1967)
などの「解釈的客観主義アプローチ」とは一線を画し、社会・文化で共有される事 実や規則の解明を目的とする研究ではなく、人々が個々に認識する現実の多元性を 前提とし、多様な認識世界を示そうとする個性記述的な研究であると位置づけた。
さらに桜井(2002,pp. 38-40)は、ライフストーリー法は調査者によって最初から 設定された限定的なカテゴリー群にはあてはまらない新しいカテゴリーの創出の可 能性も期待できるものであり、仮説を演繹的に検証していく実証主義的な量的調査 とは異なり、サンプル数の確保は最大の焦点ではないとしている。また、信頼性や 妥当性についても同じ基準からは議論できないことを明示したうえで、手続きの透 明性や語りの中の内的一貫性という基準を提示し、個人が様々な社会的経験をいか に解釈し、意味づけを行っているかを紐解くことができるライフストーリー法の利 点を主張している。つまり、一般的な量的調査では妥当性を高めるために適当なサ ンプル数の確保が必要条件となり、信頼性を確認するためには適切な統計的手法を 用いた検証が求められるのであるが、ライフストーリー法においては、どのような 手続きをもってインタビューが実施されたのかを詳細に明記し、語り手のストーリ ーを解釈する際には個々のストーリーを結びつける一貫性を検証すること、また、
調査者自身のバイアスや語り手との関係性・立場を省みた自己言及的な分析を行う ことで、その信頼性および妥当性の確保に繋がるとしているのである。
しかし、こうした対話的構築主義アプローチのライフストーリー法には、他の研 究調査法と同様に問題点もある。
一点目は、語り手と調査者との対話の相互行為性を強調し、「語り方」を前景化 するがゆえに、語り手の声やリアリティが背後に退いてしまい、内容である「語ら れたこと」が生き生きと浮かび上がってこないケースがあるという点である。これ について蘭(2009, pp. 39-40)は、ライフストーリー法がいかなるフィールドや問題 にも容易に汎用可能な、消費されるマニュアル化した方法論だと捉えられ、その研 究分野において何を明らかにしようとしているのかという然るべき検討が省略され たまま、概念や技法だけが都合よく「つまみ食い」されていることがあるという可 能性を指摘し、個々の調査の目的とライフストーリー法の特性が合致するのかの検 討の重要性を述べている。分析において、いかに語られたのかが厚く記述されても、
調査の目的は何を語ったのかを解釈することにあり、その点が結果として曖昧にな ってしまった調査についてはライフストーリー法の採用そのものを再検討する必要 がある。また、西倉(2015,pp. 50-51)は、この蘭(2009)の主張を支持し、対話的 構築主義は桜井(2002, 2003, 2005, 2012, 2015)自身の長年にわたる調査経験から帰 納的に導かれたものであり、元の方法論に含まれる議論の複雑さを捨象して、その 技法のみを安易に適用すべきではないとした上で、「語り方」に注意を払うのは「語 られたこと」をより適切に理解するためにほかならないと述べている。
二点目は、調査者は語り手に「語ってほしいことを語らせているのではないか」
という桜井(2002, p. 171)自身が指摘する点である。それは、調査者による語り手 への恣意的な質問、いわゆる誘導的な質問というあからさまな形態でなくとも、調 査目的をもった調査者が自分の先入観や期待を元に語りを聞き、その結果として予 定調和的ともいえる、調査者が聞きたいストーリーだけが聞かれている可能性につ いて検討する必要がある(桜井,2015,p. 29)。この調査者の態度は「構え(志向性)」
(桜井,2002, p. 167)とされ、調査者自身がこれを認識することなく、過度に囚わ れたまま調査・分析を進めていくことによって、個々の多様な生活の語りを聞くに 値しないものとして捨象しかねない危険性を含んでいる。八木(2015,pp. 161-162)
も、語り手がもつ特異な経験を強く意識するあまり、語り手のことを自身が規定す るカテゴリー内の成員によく見られる傾向を押し当ててストーリーを聞いていたこ とを内省している。そのような偏重した構えによって、せっかく語られた多様性に 富んだストーリーが分析の対象とならないことは、その調査の結果自体にも大きな 影響を及ぼすことが考えられる。それでは、調査者が自らの「構え」を意識化する ためにはどうしたらよいのだろうか。石川(2015,p. 245)は、語り手からの反論や 抗議であったり、あるいは調査者自身の語り手に対する戸惑い、苛立ち、驚き、不 全感などといった、どちらかといえばネガティブな感情の認識がそのきっかけにな りうるとしている。語り手が調査者による偏見を押し付けられていると感じた時の 反発や、調査者があらかじめ想定していた語りと、語られる内容が異なる場合に感 じる調査者の違和感などがそれにあたる。つまり、調査者と語り手との間に生じる 不和が、調査者の構えを顕在化するきっかけになるのである。これは、インタビュ ーをしている中で生じることもあれば、分析過程において浮かび上がることもある。
従来、調査者が自身の先入観や価値判断を調査に持ち込むことは、あらゆる研究分