第3章 日本の英語教育と言語態度の諸相
3.3 英語教師の英語観
3.3.1 国際語としての英語に対する英語教師の言語態度
まずは、外国語として英語を教える拡大円圏の国々の教師における調査を見てい く。Jenkins(2007)は、日本、中国、ブラジル、スペイン、フィンランド等を含む 拡大円圏の12ヶ国の326人(うち母語話者は26 人、非母語話者は300人)の英語 教師に対して、英語変種に関する調査を行った。彼らがもっとも好ましいと回答し たのは圧倒的にアメリカ英語12で、次いでイギリス英語であった。カナダ英語、オー ストラリア英語などは、インド英語などと同様に低い割合にとどまり、母語話者英 語の中でも、特に強い英米語志向が明らかになった。「正確性(correctness)」、「好ま しさ(pleasantness)」、「国際的な受容性(international acceptability)」の観点から、英 米語が「最も良い英語のアクセント」であると考える確固たる言語観が検証された。
さらに、非母語話者英語(日本、中国、ブラジルの人々が話す英語など)に対する
12 ここで挙げられる各国英語についてはいずれもその地域内での標準英語とされるもので ある。
態度についても調査が行われ、興味深い結果が報告されている。母語話者・非母語 話者教師共通の英米語志向は前述のとおりであるが、非母語話者教師は母語話者教 師よりも非母語話者英語のアクセントに対しての寛容度が低いことがわかった。「正 確性」、「受容性」、「好ましさ」、「親しみやすさ」というすべての項目において、非 母語話者教師は母語話者教師より否定的に評価をしているのである。Jenkins はこの 理由として、非母語話者教師は強い標準語(英米語)イデオロギーを有しており、
それが非母語話者英語への否定に繋がっているのではないかとしている。「正しい英 語」や「良い英語」を強要する力が強く機能してしまうことは特に、拡大円圏の教 師たちには有害であり、自分たちが話す非母語話者としての英語に対する否定感を 生み出すという。逆にいえば、英語の実際の使用が少ない地域であるからこそ、「正 しい」とされる母語話者規範からどこまでの逸脱が可能かを分かりかねるという現 状があり、規範主義が強化されてしまうともいえよう。そのような中で、非母語話 者英語は多くの教師にとって、標準英語とされるものから比較して「単純化された 劣った英語(an inferior simplified English)」(Jenkins, 2007, p. 248)とされる傾向につ いて言及している。
Timmis(2002)13も同様に、母語話者教師より非母語話者英語教師のほうがより規
範主義に忠実であると述べているが、これは、母語話者教師は英語を母語として日々 使用し、実際の語用について熟知しているという点と、非母語話者教師はそれが不 足している、あるいは欠如しているためにある程度の規範に頼らざるをえないとい う状況から推測がしやすい。しかし、この規範主義への過度の傾倒には問題がある のも事実である。英語学習者は教室で学ぶ学習者であると同時に、社会において実 際の英語の話者になることを想定しているはずである。そうであるならば、非母語 話者が実際にどのような英語を話して、どのようなコミュニケーション・ストラテ ジーや調整ストラテジーを駆使して意思疎通を図っているのかということについて も、関心が向けられる必要があるといえよう。英語教育における規範主義という教 室の現実と、実際の言語使用である記述主義のジレンマは、二項対立という図式で はなく、相互に歩み寄ることが求められる概念ではないだろうか。
13 ヨーロッパの英語教師に対して調査を行い、ヨーロッパの共通語としての欧州英語
(Euro-English)の存在を認識しながらも、教室ではイギリス英語規範を重視していることを 明らかにした。
また、もうひとつの問題として、この規範主義への過度の傾倒は、非母語話者英 語教師自身の「不安(insecurity)」を強めるという危険を含んでいる。つまり、非母 語話者英語教師が英米語至上主義を高く掲げ、その規範に忠実であればあるほど、
自身の英語力は母語話者並みのものでなければならないという縛りが強化されるこ とになる。非母語話者としての英語運用能力はいかに高いものであるとしても、母 語話者と比較してしまうとそれはどうしても劣ったものという認識に陥る。これが 非母語話者教師の自信の欠如を引き起こすわけであるが14、この点について、前述の 日本社会における特殊な英語の真正性から鑑みると、日本人の非母語話者教師は、
社会から求められる英語の真正性を自らは提供できないというさらなる壁にぶつか ることになる。日本社会が前提としている「本物の英語」の運用能力を有していな いと感じ、学習者の前で英語を話すことをためらうという状況が生じてしまうこと も考えられる。Braine(1999, p.18)は、目標言語の運用力が欠如していると考える ために、自己疑心(self doubt)に陥っているある非母語話者教師の例を引用してい る。
私は平均的な母語話者よりも書く能力があるし、発音はほとんどの非母語話 者よりも良いと考えている。しかし、それらのことは必ずしも、その言語を 私が教えるのにふさわしいという確証になるわけではない。その言語に完全 に熟達したわけではないからである。[日本語訳引用者]
非母語話者として高い能力を持ちながらも、母語話者の基準から考えてしまうと英 語を完璧に習得したわけではないと考えるに至り、教師としての自信が揺らいでい ることが伺える。この教師の心情として、書き言葉における高い英語能力や授業を 実践するための力があることに自信を持つよりも、母語話者のような発音や英語ら しい英語(idiomatic English)が欠如していることに対する自信のなさのほうが大き くなっているとしている。
言語の標準化については前述したとおり、ミルロイ&ミルロイ(1988)は英語の
14 これは結果として、Phillipson(1992)の母語話者誤謬(native speaker fallacy」に明確に述 べられているような「母語話者教師は非母語話者教師より優れていている」という正確とは 言いがたい、単純化された認識を生むことにつながる。
標準化(イギリス国内)において、書き言葉についてはほぼ標準とされるものの枠 を捉えることは可能であるといえるが、話し言葉については、標準語とされるもの の中においても多様性があるとしている。母語話者の標準英語ですら話し言葉の発 音や表現は多様なのだから、非母語話者であればなお、それも一種の多様性のひと つであると捉えられればよいのだが、そのようには簡単にいかないところに非母語 話者英語教師が抱く問題の難しさがある。
日本の学校英語教育では「役に立つ英語」を教えることが求められ、それが「生 きた英語」、「本物の英語」を希求する態度を強め、「コミュニケーション力の育成」
という目標を設定するまでに至った。さらに現在では、教師が授業を全て英語で行 うことの推奨や、小学校での英語学習の必修化というように、より身近な話し言葉 としての英語に重点が置かれるようになってきている。このような変化の中で、非 母語話者である日本の英語教師が自分の話す英語をいかに捉え、またいかにあるべ きだと考えているのかを明らかにすることは、現場の教育実践の成否に関わる大き な要素のひとつであるといえる。
3.3.2 非母語話者としての日本人英語教師の役割
英語教育における母語話者教師と非母語話者教師の比較研究は、あらゆる地域を 対象に、様々な観点から調査がなされている。学習者が受ける印象を調査した研究 では、母語話者教師のほうがより英語使用に自信があり、本物(authentic)であると 受け取られている結果が報告された。しかし、教える能力に関する調査では、母語 話者教師は教育という観点からすると、授業を行うための準備が不足しているとみ られていることや、コンテクストに配慮した指導に欠けていることが指摘されてい る(Medgyes, 1999; Barratt & Kontra, 2000)。さらに、母語話者教師は社交性のある
(outgoing)雰囲気をもち、話好き(talkative)であるという印象を与えており、彼 らの授業に対する態度は柔軟性があり(flexible)、革新的な(innovative)面があると 報告されているが、同時に、明確な意図がなく思いつきな感じ(casual)で、あまり 献身的ではなく(less committed)、学習者側から共感ができるところもより少なく
(less empathetic)、学習に対して不自然でありそうもない期待(far-fetched expectations)
をするといった見方もある(Medgyes, 1999)。
その一方で、非母語話者教師については、より計画が立てられた指導方法(guided