第 1 章 行政主導の「住民主体」観光の形成
1.1 行政と市民意志によるイベントの計画
まず、長崎さるく博’06 が誰によってなぜ構想されたのかについて、その経緯から説明 する。長崎さるく博’06 の計画に携わった当時の行政担当者の証言によると、当時の伊藤 一長市長により長崎市の国策事業が完了する 2006 年を目処に大型イベントを開催したい という意見があったという。長崎市では2003年から2006年の春にかけて、国や県との協 調事業として国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館、長崎県美術館、長崎歴史文化博物館、
女神大橋及び出島バイパス等の建設をはじめとするハード整備事業が実行されていた。そ れらを記念するとともに、長崎市を訪問する観光客数が伸び悩んでいる状況1もあったため、
2006年を目処に大型イベントを開催し、観光客誘致にもつなげるという計画がなされたの
1 長崎さるく博’06の開催において、目標であった観光振興かつ観光客数の増加には、長崎の 観光客が減少していることに対する危機感も背景にあったと考えられる。長崎県は長崎にお ける観光客数の減少の原因として、海外旅行熱の高まりによる国内観光客の減少や福岡市な どでの新たな商業開発、新幹線の開業による鹿児島市への観光客の増加などをあげている。
また九州の他地域において新たな観光資源開発が進められたなか、長崎市の既存の観光資源 が観光客にとって魅力を欠いたものとなり、相対的に取り残されてしまったと分析している
(長崎県 2006)。
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そこから長崎市は「観光 2006 アクションプラン」を策定することを決定し、当時秘書 広報課係長であった田上富久氏(現在長崎市長)を担当者に任じ、事業を進めていった。
2003年5月には、観光事業者や有識者23名を中心に「観光2006アクションプラン策定 委員会」を設立し、田上氏の人脈から地域活動に積極的に取り組んでいた9名を集め「ワ ーキングチーム」を組織した。「ワーキングチーム」は、当時長崎情報誌『ザ・ながさき』
の編集長であった川良真理氏、大浦青年会で活動していた地元呉服店の経営者である桐野 耕一氏、「ネットワーク市民の会」という市民交流組織を立ち上げていたビル管理会社経営 者である田中潤介氏、丸山町に位置した料亭「青柳」の経営者山口広助氏など、様々な地 域活動に取り組んでいた有志で構成されていた(茶谷 2008)。
事業企画が進み、観光2006アクションプラン策定委員会は、2004年2月に「観光2006 アクションプラン」を長崎市長に提言した。その要旨は、箱物の整備が完成する 2006 年 に合わせ、大型イベントを企画し、それを通じて今後長崎観光のあり方を見直し、停滞し ている長崎観光に新たな転換を呼び起こすことであった。以下は「観光 2006 アクション プラン最終提言書」における基本理念である。
①本来、地域の誇りであるべき多くの財産が、これまで観光客専用の名所・名物とし て「商品」ととらえられてきた面がある。そのために地元のことを知らない住民が増 え、次代に伝えていくべき価値のある財産が地域に埋もれ、あるいは失われてきた。
地域を知ることからはじまる「まち活かし」によって、市民が地域の財産を再確認す る機会としたい。
②観光を、単に経済的側面からでなく、まちを活かしひとを活かす手段としてとらえ 直す契機としたい。これまでの「観光=観光関連業者が潤うためのもの」という発想 から脱し、「観光=地域の資源を活かして、地域全体の活性化や暮らしやすさにつなげ るもの」へ広げることになり、観光は長崎市民共通のテーマとなる。市民をはじめ企 業、大学、NPOなど多様な人が参加するなかで、まちが磨かれ、人が活性化し、「住 み良いまち」と「観光客にとって良いまち」とが融合する方向をめざす(茶谷 2008:
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「観光2006アクションプラン」の基本理念は、2006年以降の長崎観光のあり方を大き
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く2つの方向性で示している。一つ目は、地域住民が地域の資源を知るきっかけにするこ とであり、二つ目は、経済的な側面のみを追究した地域観光ではなく、それを地域住民の 住みやすさにつなげることである。こうした地域にある資源や人を活かし、観光客だけで なく住んでいる地域住民にも何らかのポジティヴな影響を与えようという基本理念は、ま さに 2000 年代から台頭した「観光まちづくり」の考え方や、観光地として認識されてこ なかった地域で新たな観光資源を発掘する、いわゆる「宝探し」や、着地型観光開発の議 論と重なっている。しかし日本各地で盛んになっている観光まちづくりの多くは、本来観 光地として認識されていなかった地域においても、観光の可能性を認識し、地域が中心と なって取り組んでいるが、長崎の場合は、本来有名な観光地であるがゆえに、観光客専用 の商品として捉えられてきたまちの資源を、住民のものとして捉え直そうという意識があ った。観光業者のみが利益を得る観光から、地域全体に利益が回る公益的なものへの転換 を提唱している。
「観光2006アクションプラン」の策定後、具体的にイベントのテーマが「まち歩き」に 決められるのだが、その決定的なきっかけになったのは元ワーキングチームが、別府市の 温泉街で行われていた「別府夜の路地裏散歩」にて自主的に視察を行ったことである。「別 府夜の路地裏散歩」とは、1999年頃に別府市八湯温泉地の住民で構成された「別府八湯竹 瓦倶楽部」が、寂れた温泉街の路地裏や歓楽街に「レトロ」というキーワードで再び光を 当てて取り組んだまちづくり活動の一つである。夜の温泉街を案内するおじいさんガイド のパフォーマンスは住民や観光客から好評を得ることができ、まち歩き観光の草分け的事 例として知られている。そこでワーキングチームは「まち歩き」というものを楽しむこと ができ、さらにメンバーの一員である山口さんは花街としての歴史がある丸山地区におい て、すでに郷土史に詳しい人々とまち歩きに取り組んでいた経歴もあったため、長崎でも 実施できるのではないかという合意が形成されたという。
2006年にはまち歩きを中心としたイベントを開催する方針を定めた後、都市博覧会など のイベントや観光のプロデューサーを長年務めた経歴のある茶谷幸治2をコーディネート
2 株式会社電通大阪支社クリエーティブ局CMプランナーを経て、株式会社経営企画センタ ーを設立。「アーバンリゾートフェア神戸’93」チーフ・プロデューサー、「ジャパンエキスポ 世界リゾート博」催事プロデューサー、「ジャパンエキスポ南紀熊野体験博」総合プロデュー サー、「しまなみ海道’99」広島・愛媛両県総合プロデューサー等を歴任。2002~2003年社団 法人日本観光協会都市観光活性化会議委員、2003年社団法人ひょうごツーリズム協会ツーリ
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プロデューサーに委嘱した。彼を中心にイベントの名称や具体的なコンセプトが定められ、
長崎市観光2006アクションプラン推進委員会は、「長崎さるく博’06 推進委員会」に名称 を変更し、長崎さるく博’06 公式ホームページの開設やコースづくり、ガイド養成等のイ ベント開催の準備を進めた。地域活動に活発であった人々で構成された市民プロデューサ ーは、 コースづくりやイベント運営企画を行い、最終的に95名の市民プロデューサーが 参加した(表1-1-1)。
ズムプロデューサーを歴任。2004~2006年「長崎さるく博’06」コーディネートプロデューサ ーとしてに携わった後、地元である大阪で、2008年から一般社団法人大阪あそ歩委員会代表 理事として勤めている(茶谷 2008)。
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【表1-1-1】イベント開催の決定と準備過程(長崎さるく博’06 推進委員会 2007)
2003 年 5 月 長崎市観光 2006 アクションプラン策定委員会およびワーキングチー ムを組織
2004 年 2 月 長崎市観光 2006 アクションプランの策定および長崎市長へ提言 4 月 長崎市 2006 プロジェクト推進本部設置
(市全庁組織・本部長は長崎市長)
長崎市観光 2006 アクションプラン推進委員会設立
(2004 年 8 月「長崎さるく博’06 推進委員会」に名称変更)
長崎市観光 2006 アクションプラン第 1 次実施計画策定 茶谷幸治をコーディネートプロデューサーに委嘱 6 月 長崎さるく博'06 公式ホームページ開設
8 月 シンボルマークとマスコットキャラクター決定 長崎さるく博'06 第 2 次実施計画策定
9 月 4 つのコースマップ完成
第 1 回さるくガイド研修終了式(56 名)
10 月 04 プレイベント開催(10/23~11/23)
さるく茶屋開始 11 月 さるくガイド公募開始
2005 年 4 月 公募開始後初のさるくガイド研修終了式(総数 181 名)
7 月 05 プレイベント開催(7/30~10/16)
さるく見聞館開館(16 箇所, 2006 年 2 月に 3 箇所増加)
9 月 長崎さるく博'06 第 3 次実施計画策定 10 月 公式ガイドブック完成
「長崎」からの手紙キャンペーン開始(2006 年 3 月で 5 万通達成)
市内全自治会への説明会開始
近畿日本ツーリスト「地域ブランディング大賞・観光まちづくり奨励賞」
受賞
12 月 100 日前イベント実施
「長崎さるくマップブック」、「長崎通さるく手形」販売開始