第 4 章 住民主体観光の裏面
1 考察
1.2 何者でもない存在としてのさるくガイドの意味
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両方が満足できる成果を得た際に、両者は協力関係にあった。しかし、観光事業の経済的 な成果が進める側の期待に満たさない場合、以前の協力的な関係性を維持できなくなって いる。
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ランティア活動が成立しないと論じる。ボランティアは、「誰に向けてなのかははっきりと は分からないけれど、まず誰かが声を出して何かを希望するところから始まる」(原田 2010: 27)と言いながら、する側の行動が当事者に受け入れてもらえるかどうかというこ とにボランティアの成立がかかっていると論じた(原田 2010: 82)。すなわち、ボランテ ィア活動はする側の善意や意志のみではなく、相手に受け入れられることが重要であると 指摘している。
Michel Agierは安全な場所を求めて国境を越える移住民と彼らを受け入れるヨーロッパ
のアソシエーションを事例に、今日における歓待の諸形態について論じながら、歓待の現 場で生じるホストとゲスト両者の試練について論じた。ホスト役を務める活動家や宿泊提 供者からはゲストを歓待することについて「燃え尽きた」「やり過ぎてしまった」と感じ、
その一方で宿泊させてもったゲストは「家族であろうとすることに疲れる」という声を事 例に挙げ、歓待の実践が受け入れる側、受け入れられる側両方にとって、お互いに対する 配慮や善意がかえて疲れや負担になってくる現実の課題を示した(Agier 2016=2019: 144-152)。
これらの事例はボランティアや歓待の現場で生じる「する側」と「受ける側」の間のす れ違いや葛藤を現しており、それが示唆しているのは、ゲストを受け入れるホスト側とと もに、ホスト側を受け入れるゲストの姿勢も重要な問題だということである。ボランティ アをする側と受ける側が、お互いを認め合い、受け入れ合うことで関係が成立するのは、
まち歩き観光においても同様である。第2章の【事例2-2-4】では、観光客に声をか けるさるくガイドの実践が観光客に歓迎されないことについて述べた。現場には、観光客 を歓待したいホストに対し、ホストのその種の歓待を必要としないゲストも存在していた。
ホストとゲストの相互作用が成立するためには、両者がお互いを受け入れる準備や心構え が必要になってくるのである。
しかし、ボランティアや歓待をする側と受ける側の間の葛藤は、両者の関係性が固定さ れていることに起因するのではないか。ホストとゲスト両者が、お互いの社会的な地位に ついて把握している場合、例えば、活動家と難民というお互いの地位を周知しているうえ で、活動家と難民という地位によって、歓待をする人と受ける人と言う風に関係性が設定 される。しかし、お互いが何者ものであり、社会的な地位が明確に示されていなければ、
より自由で流動的にホストあるいはゲストとしての役割を行うことができるのではないか。
こうした観点に基づいて、まち歩き観光におけるさるくガイドの意味は何であり、いかな
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る可能性を孕んでいるのだろうか。第2章の【事例2-3-1】では、長崎の住民でも、被 爆者でもない筆者が、日本の小学生に対し平和案内を実施した体験について述べた。とこ ろが、第2次世界大戦の時に長崎が経験した原爆投下という悲惨な戦争体験を、筆者は日本 の子供たちに伝える能力や資格はあるのだろうか。またそこで筆者は子供たちに何を伝え られたのだろうか。平和学習の事例のみではなく、大半のさるくガイドは、一般的に住民 ガイドとしてアピールポイントとなりえる、いわゆる「長崎生まれ育ち」ではない。多く の場合、大学や仕事、結婚等様々な事情で長崎に移住してきた人々であり、逆に長崎出身 であっても、諸事情で他地域での生活の方が長い場合もある。さらに、29の会の事例では、
他地域から移住してきたばかりで長崎のことを学び、知り合いを作るために、さるくガイ ドとして活動を始めた人もいた。こういったガイドの属性からも長崎さるくにおけるガイ ドの地位は非常に曖昧であり、彼らは一見ガイドとして観光客に何かを伝えるような理由 や資格はないように見える。しかし、観光の現場である対象を解釈するものとして、それ に関する当事者性や正統性が問われないことが、むしろさるくガイドの価値であり魅力だ といえる。
第3節でより詳細に考察するが、彼らはいかなるテーマのまち歩きツアーにおいても、参 加者とフラットな関係性を持ちながら、会話をすることができる。逆にガイドに当事者性 や正統性が明確にある場合は、ガイドと参加者間の関係性が、ある事実を先生のように一 方的に「教える/教えられる」関係性になりがちなのだが、さるくガイドは当事者でも専門 家でもないため、参加者たちとは一方的な関係ではなく、フラットで双方向的な関係性を 形成しやすい。そういった特徴は、当事者としては観光の題材として語りづらいことでも、
さるくガイドは比較的自由に観光の場に持ち込むことができることを意味するのではない かと考える。
観光における偶発性について論じた東浩紀は、「匿名で動物的な欲求に忠実で、だれの友 にもだれの敵にもならず、ふわふわと国家間を移動する観光客」(東 2017: 116)こそが、
現代社会において新たな公共の可能性を開く存在になりうると論じた。東は「画集などい ちども見たことのない門外漢がルーヴルでモナリザに出会い、自分で料理も作ったことの ない貴族がパリで屠殺場を見学する」ことが普通に行われるのが観光の場であり、そこに は「誤配」が満ちていると論じる。さらに「誤配」こそ、新たな理解やコミュニケーショ ンにつながる可能性を潜在させていると論じた(東 2017: 159)。
当事者でも専門家でも運動家でもないさるくガイドが、まち歩き観光において戦争や政
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治的な弾圧について語ることについては、実際に賛否両論があり、その内容の重みをどの ように捉えるかは考える余地がある。しかし、観光の場に集まった人々がフラットな関係 性の中で、何かについて語り合えるきっかけをつくるのは、さるくガイドの評価すべき点 ではなかろうか。東の議論からすれば、さるくガイドはツーリスト的な存在であり、何者 にも見えない存在だからこそ、新しいコミュニケーションを開く可能性を備えていると考 える。