第 2 章 長崎市におけるガイド事業の経緯とガイドにとってのガイド活動の
2 ガイドになった動機について
本節では、さるくガイドの語りを事例に、社会的状況の変化や家族・知人との関係性に 注目しながら、彼らがガイドをする動機について論じる。
さるくガイドの大半は、育児や仕事を終えた50代から60代の間にガイドを始めている。
ガイドになった動機については、これまでやってきた仕事を終えた後に充実した時間を過 ごしたい、何か人に役立つことをしたいという思いがあったと語る人が多く、一方で「地
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域観光に貢献したい」というふうに語るガイドは、筆者の参与観察やインタビュー調査の 過程においては、ほとんどいなかった。要するに、大半のガイドは「何か役立つことをし たい」という漠然とした思いからボランティアガイドを始めているのである。以下の事例 は、長崎市民ボランティア観光ガイドの2期生である井手勝摩さん(80代男性)とのインタ ビュー内容であり、定年退職をした後、何か人に役立つことをしたいと思っていた当時の 心境について述べている。
【事例2-2-1】何かやりたかった
井手さん 私はよそ者、佐賀なのよ、生まれは。だから原爆経験してないのよ。15年、
それと…15年間…(自分が持ってきた資料を見てから)昭和25年に長崎に来たのよ。
昭和15年に来て、長崎で30年間、長崎造船所に努めて。それで横浜に行ったのよ。1980 年に。それで横浜で15年おって。そして帰って来たのね。それで、1995年に帰ってき て。で、10月に帰ってきて、帰ってきたけども、まとまった仕事はないし。うーん、
64歳やったかな。ちょっと定年延長してもらったのね。それで、何か役立つことはな いかなーって思って…。思ったわけ。それで私たまたま北の方だから、あの、平和公 園まで散歩してたのよ。若かったからね。そしたら、中学生とか小学生がその辺でう ろうろうろうろ、もうなんちゅうかね、バスどっちに行ったらいいかわからんちゅう かね。それは何とかしないといかんね。その頃ね、ガイドでもなんでもなかったけど、
結構それでやってたもんね、子どもたちにね、「どこどこ、行きなさい、こう行きなさ い」。そういうところで、ちょうどガイドの募集があったので、飛びついたわけね。そ ういうことで、いい機会、ボランティアに入って。(2018年5月5日、さるくガイド井 手勝摩さんとのインタビューの中から )
井手さんは長崎造船所で勤務し、長崎市では30年以上生活してきたが、現役時代は家と 会社を往復する生活であり、観光に対しても家族や知人が遊びに来た時に行く観光地や平 和公園くらいしか知らなかったと語った。また横浜で15年間勤務しながら長崎を離れた時 期もあり、その期間長崎市内も大きく変化があったため、長崎の観光ガイドを始めること に不安もあり、ガイドを始めた頃から長崎の歴史について勉強をする必要性を感じていた と言う。そのため、長崎の郷土史に関する講演や現地踏査を行う「長崎史談会」といった 民間団体に加入して参加し、長崎市や市内の大学が主催する公開講座等に活発に参加しな
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がら郷土史の研修を受けたと言う。ガイドの多くは長崎の歴史についての知識を深めるこ とをガイドとしての基本的な素養と見なしている。例えば、「長崎学」の資格を取得したり、
長崎史談会で活動をしたり、長崎市主催となって行う「公民館講座」に参加したりである。
長崎市民ボランティアガイド2期生としてガイド活動を始めた井手さんは、長崎市より 2018年にさるくガイド20年継続賞を授与され、さるくガイドを引退した。インタビューを 行った際には、20年前から集めてきたガイド資料(ガイド班で作った新聞、歴史資料等)
を持ち込んで筆者に見せながら、これまでの様々な思い出を語った。ガイド活動に対する 熱い気持ちが伝わる中、「なぜさるくガイドをやめようと決めたのか」という筆者の質問に 対し、ある日ガイドした後に、お客さんからの「ありがとう」の声が聞こえなかった出来 事について話した。お客さんの感謝の言葉も聞こえなくなったら、ガイドをする意味はな いのではないかと考え、引退を決心したと言う。その旨をガイド仲間たちに話すと、ガイ ドを辞めることを止める人が誰もいなかったと言う。それは長崎さるく博’06の際には周り のガイドたちから「今一番脂が乗っている」「まだまだこれからだ」と、ガイドとして評価 されていたこととは対照的だったと笑いながら話した。井手さんのように、多くのさるく ガイドたちは「いずれ歩けなくなる」という認識を持ち、ガイドをやめるきっかけを身体 的な要因から見つける傾向があった。自由に歩けなくなり、参加者との会話が不自由にな るまでは、ガイド活動を継続することを希望していた。彼らにとってガイド活動は、お客 さんとの相互作用と共に、自分の身体との相互作用が生じる場でもあるのである。
他方で、ガイド活動を継続することは、身体的な要因以外にも様々な要因で、それほど 簡単ではないと思われる。長崎市民ボランティア観光ガイド1期生の中では唯一現在まで 活動を継続している三田村さんは、子どもたちが成長し、時間の余裕ができた50代からガ イドを始めた。ところが、彼女の証言によると、ガイド活動を始めた当時は「ボランティ ア」という言葉自体が世間に知られていなかったため、家族以外の周りの人々から自分の 活動について理解されにくかった状況だったという。以下の事例では、三田村さんがガイ ド活動を始めた当時、周辺の人々はどのような反応をしていたのかについて述べている。
【事例2-2-2】ボランティアする余裕があれば稼いだ方が良い
三田村さん 男の人はこの当時はまた働いてたし、女性がやっぱり多かったんですね。
合間を見てっていう。55(歳)くらいになったら一段落するじゃない、子供が。手が 外れる。で、長く続けようとしたらやっぱり職域の方かこっちの方かになるんじゃな
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いかな。でもたいてい、私の時代のボランティアっていうのは、あんまり聞いたこと なかったんですよ、時代が。「働かんね」って言われたみんな。「あら、こがんことし ても。働いたらお金になるとに」って嫌味のこと言われたんですよ。だもんで、「そう かね」と思って、私なんかもう、ずっとボランティアしとったからそんなに、「職をも っとっとにどうしてせんとね」って嫌味のような感じを受けるんですね。今こそボラ ンティアというみんながなろうとなって、私の時代はもうそんな感じ。
筆者 時間があったらアルバイトでもしたらいいのにみたいな?
三田村さん うん、贅沢って言われとったよ。やっぱりほら、ボランティアするのに お金が要るじゃないですか。交通費もいる。お弁当代もいるし、色々資料代もいるし。
といえば、やっぱり普通の家庭だったら食べるのに一生懸命じゃないのかな。そんな 意味で贅沢とかなんとか。皮肉ば言われおったけど、「えらくなるとね」とか。そんな 感じだったよ今まで。(省略)やっぱり人様から見たら、やっぱりそんな感じにうけて たね。さっき言ったように、震災があって、みんながボランティアとかNPOとか何と かできたじゃない。それまでは、私が最初にできた時はね、本当に手弁当で、もう好 きじゃないとできない時代だったから。で、余裕がないとね、やっぱりほら、外に行 くにはやっぱり色々いるじゃないですか。ちょっと言えないけど、色んなね、女性の、
働けばいいのにって感じの。今はそうでもないですよ。時代が変わったから。(2018年 5月13日、さるくガイド三田村静子さんとのインタビューの中から)
三田村さんによると、1994年に長崎市がわたしもガイドさん事業を始めた当時は、今の ようにボランティア活動が幅広く行われていた時期ではなかった。男女の比率も現在とは 異なり、1期生の28名のうち女性は19人、男性は9人で、女性の方が2倍程多かった。大体 女性の場合は育児が一段落した主婦で、男性の場合は定年退職した人であったという。
三田村さんの場合、結婚してからは専業主婦として過ごしていたが、ガイド募集が行わ れた時期に、子供たちが成長し、育児から手を引くことができたことにより、ガイドを始 めるタイミングができたと言う。彼女は「今から生きていくのに充実した過程、自分なり にずっと一生楽しみながらできること」を探し、ボランティアガイドをやってみることを 決心したと言う。ただし、そのためには、金銭的な余裕も含め、家族の支持が前提にあっ たと語った。
仕事や育児といった社会的な役割・責務が一段落したことにより、新たな生き方として