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行動経済学の理論の誤用や悪用への対応

第五章 利他主義に基づく協調行動

5.6 行動経済学の理論を適用する際に考慮すべき論点

5.6.1 行動経済学の理論の誤用や悪用への対応

先にも述べたとおり、Nudge(ナッジ)とは、一人ひとりが自分自身で判断してどうす るかを選択する自由を残しながら、人びとを特定の方向に導く介入である。Nudge(ナッ ジ)理論を効果的に活用することによって、社会をより豊かで、より幸福な方向に導いて

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いく可能性がある。しかし、那須・橋本(2020)が指摘するとおり、Nudge(ナッジ)は その独創的で奇抜な発想ゆえに、「多くの実務家、研究者を魅了するいっぽうで、数々の懸 念や批判をも招いてきた」(那須・橋本, 2020, p.5)とされる。批判の一つはその有効性に 向けられている。すなわち、Nudge(ナッジ)の効果は極めて一時的であるという批判に 加え、「強制や経済的な動機づけ、理性的な合意に訴えずに、人の反射や習慣を利用するだ けで多数の人びとの行動を改めるなどということがほんとうにできるのか」、「人の行動を

『改善』するといっても、どんな尺度でそれをはかるのか」、「人びとのどんな行動に(自 力では改善できない)非合理性、過誤、失敗を認めて、どんな方向に誘導を試みるのか」、

「それは結局のところ、人を機械仕掛けの人形とみなして陰から操ることになってしまわ ないか」(同上)といった懸念も示されている。とりわけ、Nudge(ナッジ)理論を悪用し たり、非倫理的に用いたり、あるいは、誤解を生じさせるような誘導を行ったりすると、

こうした政策手法に対する人びとからの信頼、さらには、政府に対する信頼を損なうこと となる。政府がNudge(ナッジ)理論を公共政策に用いる場合、たとえより良い社会を目 指すという目的があったとしても、人びとが自分自身で判断する自由を制限したり、人び とが望まない方向に誘導するよう過度に介入したり、あるいは、誤認や誤解を惹起するよ うな情報提供を行うことや人びとを操作することは厳に慎まなければならない。

すでに述べたとおり、Nudge(ナッジ)理論を含む行動経済学の理論や行動インサイト を公共政策に用いる取組は欧米諸国を中心に広がっている。欧米諸国で採用されている

Nudge(ナッジ)理論を用いたアプローチの背景にあるのは、「押し付け的でない形のパタ

ーナリズム」、すなわちリバタリアン・パターナリズムである。しかし、すべての人びとが Nudge(ナッジ)理論を含む行動経済学の理論や行動インサイトを公共政策に用いること に同意しているわけではない。Thaler & Sunstein(2008)が指摘しているとおり、人び との中には、政府当局によるリバタリアン・パターナリズムに基づく介入を受け入れるこ とによって、今後、押しつけ的な介入へと繋がっていくのは確実であると批判的に捉える 者もいるであろう。あるいは、「自由社会では人びとに間違う権利があり、私たちは間違い から学ぶこともあるため、間違うことはときとして有益だ」(Thaler and Sunstein, 2008, 邦訳, p.351)と主張し、政府当局が行うNudge(ナッジ)に反対することもあるだろう。

また、政府当局が信頼されておらず、「政府当局者のする意思決定はどれも役立たずで、腐 敗している可能性が高い」(同上, p.362)と考え、「政府のナッジは最低限に抑え、デフォ ルト・オプションの選定など、何らかのナッジを与えるのが避けられないケースに限りた い」(同上)と主張する人もいるであろう。あるいは、Sunstein & Reisch(2019)が指摘 するとおり、Nudge(ナッジ)は目に見えず、その意味で巧妙であり、一種の策略であり、

人びとは知らないうちに影響を受けているとして、Nudge(ナッジ)理論を用いたアプロ ーチに対する透明性の欠如を批判する人もいるであろう。そもそも、Nudge(ナッジ)理 論を用いたアプローチや行動インサイトのツールの有効性や適用可能性に対して懐疑的 で、これらの公共政策への適用に対して反対や批判が示す人もいるであろう。

Thaler(2018)は、Nudge(ナッジ)を通じて選択アーキテクチャーを改善することで、

選択肢を制限することなしに人びとが賢い選択をできるようになるとし、自分自身にとっ てより良い選択ができるように人びとを手助けすることが目的となるようなNudge(ナッ ジ)を「良いナッジ」とし、他方、「賢い意思決定や向社会的行動(“prosocial activity”)

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を難しくするような悪いナッジ」を「Sludge(スラッジ、ヘドロの意)」と呼び133、公的部 門、民間部門ともにSludge(スラッジ)を一掃するよう呼びかけている。Thaler & Sunstein

(2008)は、不道徳な選択アーキテクトと悪いナッジに関して、「役に立つと思われるナ ッジを与える際には、選択アーキテクトの意図が働く可能性がある」(Thaler & Sunstein,

2008, 邦訳, p.347)とし、すなわち、「あらゆる領域の選択アーキテクトには、アーキテク

ト(あるいは雇用主)の利益になる方向に人びとをナッジするインセンティブが働いてい る」(同上, p.348)と指摘している。Nudge(ナッジ)を用いる以上こうした状況は避けら れないが、「その代わり、インセンティブを調整できるときには調整し、できないときには 監視して透明性を確保」(同上)することはでき、「公的部門でも民間部門でも、透明性を 高めることを第一の目的にしなければならない」(同上, p.350)と指摘している。

悪いNudge(ナッジ)、すなわち「スラッジ(sludge)」を一掃し、良いNudge(ナッジ)

を導入するためには、公共機関であっても、民間であっても、Nudge(ナッジ)の活用に 関する透明性を高め、説明責任を果たすことが重要であるが、とりわけ、政府などの公共

機関がNudge(ナッジ)や行動インサイトを公共政策に活用する場合には、誤用や悪用を

避けるための一定のルールが必要となってくる。OECD(2017)は、「行動インサイトを公 共機関が継続的に利用する場合、悪用や非倫理的な利用―またはそのようにみなされる利 用―が生じるおそれがあるため、指針となる原則や基準が必要である」(OECD, 2017, 邦 訳, p.16)と指摘し、公共政策に行動インサイトを適用する政策当局の実務者に対して、表

5.6.1-1のような措置を講じることを提言している。

OECD(2017)は、公共政策においてNudge(ナッジ)を含む行動インサイトを活用す る際には、どのような政策で、どのような手法を、どのようなタイミングで適用するかに ついて吟味し、戦略を策定することを求めている。また、行動インサイトの活用に関する 戦略の策定や、試験や実験を効果的に行うため、信頼できるデータやエビデンスを集め、

これらに基づいた活動とすることを求めている。さらに、行動インサイトの活用に関する 試験や実験を繰り返し行い、結果の妥当性や信頼性を確認するとともに、異なる状況や環 境下においても同様の効果が再現できることを検証することも求めている。加えて、公共 政策に行動インサイトを活用することについて、対外的にも説明し、また試験や実験の結 果などについても情報公開を行い、透明性の確保と説明責任を果たすことを求めている。

こうした取組を怠ると、行動インサイトの活用に関する意義を見失うばかりでなく、公共 政策における行動インサイトの活用や、行動インサイトを活用する政府に対する信頼を損 なうおそれがあることに留意する必要がある。ここで求められているのは、行動インサイ トを公共政策に用いる場合、データやエビデンスに基づいて政策を立案し、行動インサイ トの活用に関する戦略をきちんと立て、入念に計算してから試験と実験を行い、さらに試 験や実験を繰り返して結果の妥当性を検証するとともに、用いられた行動インサイトの効 果をモニタリングして、短期的、長期的効果を適切に評価し、行動インサイトの実施や実 施の効果を対外的に公表することで透明性を高め、説明責任を果たすことである。これら の措置は、通常の公共政策の立案と実施においても同様に実施されるべき事項である。

133 Thaler, Richard H.(2018)Nudge, not Sludge, Science, Vol. 361, Issue 6401, 3 August 2018, p.431。

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表5.6.1-1 行動インサイトを公共政策に用いる場合の措置

戦略 あらゆる要求に対して種々の支援機能を備えた多段階戦略に基づき、

行動インサイトを実践する。

データとエビデ ンス

入念に計算してから試験と実験を行い、十分に大きなサンプルサイズ を確保することにより、効果を検出する。

データの利用においては、適切かつ信頼できるデータが、行動インサ イトの適用とデータの整合性の支持に不可欠である。

データはエビデンスと同一ではないことを理解する。

公共政策に対するデータの限界を理解する。

結果の妥当性 試験を繰り返し、観測の結果が同一の状況・設定下で再現されること を確認し、同一のアプローチを異なる状況・設定下で適用し検証する。

セグメント化 人口の一部に対して有効なものでも、全人口に対しては有効ではない 適用について検討し、その法的、文化的状況を考慮して、それらの適 用が実行可能か考察する。

評価 モニタリングを継続し、短期的・長期的効果を明らかにする。

あらゆる政策介入と同様に、行動情報を活用した介入の結果に対し、

一定期間にわたってモニタリングと評価を実施する。

透明性と説明責 任

透明性と説明責任のために行動インサイトの適用に関する取組を学 術誌や年次報告書等を通じて公表する。

行動インサイトの適用を適切に実施するため、費用に関する情報開示 と理解を進める。

出典:OECD(2017)をもとに修正し作成

また、Sunsteinm and Reisch(2019)は、世界の様々な国々(アメリカ、ヨーロッパの 8 ヶ国、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、日本、ロシア、南アフリカ、韓国)

の Nudge(ナッジ)をめぐる取組と国民の理解や受入れ状況を調査し、Nudge(ナッジ)

を公共政策に用いる際の正当性について考察している。そのうえで、政府など公的な立場

からNudge(ナッジ)を用いる際に考慮すべき事項を、「Nudge(ナッジ)の権利章典」

(表5.6.1-2)としてまとめている。

表5.6.1-2 Nudge(ナッジ)の権利章典

権利章典1 Nudge(ナッジ)は正当な目的を促進しなければならない。

権利章典2 Nudge(ナッジ)は個人の権利を尊重しなければならない。

権利章典3 Nudge(ナッジ)は人びとの価値観や利益と一致しなければならない。

権利章典4 Nudge(ナッジ)は人を操作してはならない。

権利章典5 原則として、Nudge(ナッジ)は明確な同意がないまま人からものを 取り上げて、それを他人に与えるようなものであってはならない。

権利章典6 Nudge(ナッジ)は隠さず、透明性をもって扱わなければならない。

出典:Sunstein & Reisch(2019)をもとに修正し作成

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