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第二章、 滬劇『蘆蕩火種』

第二節、 滬劇『蘆蕩火種』の誕生と芸術成果

一、滬劇『蘆蕩火種』の誕生

滬劇『蘆蕩火種』は上海市人民滬劇団によって集団的に創作され、文牧が執筆した。

舞台芸術とプロットを設計する必要があったため、劇団は蘆蕩の中に隠れていた 36 人の負傷兵が異常に苦しい条件の下で敵と闘争した実績を、茶館の女将阿慶嫂が 18 人の負傷兵を掩護するために知恵と勇気で勝負した実績に変えた。芸術が現実を超え る昇華は実現できた。2005 年 10 月 28 日の『解放軍報』の報道によると、その時、脚 本家の文牧が 36 人の負傷兵を 18 人の負傷兵の舞台人物像に変えたのは、「新四軍十 八旅」の部隊番号に心理的な暗示を受けたためである。しかし、上海滬劇院の芸術室 主任の褚伯承は、上演する舞台の制限によって 36 人の負傷兵を 18 人に変えたと述べ た。74

脚本75の内容は大体以下の通りである。1939 年の秋、新四軍が南方へと転戦した。

新四軍某部は命令に従い転戦を決め、18 人の負傷兵を隠すという任務を春来茶館の 女将で実際の身分が地下連絡員である阿慶嫂に任せた。彼女は当地の村民達と一緒に 負傷兵達を蘆蕩に隠した。日本軍が長い間捜査したにも関わらず、負傷兵の痕跡は見 つからなかったため、ひそかに変節していた「忠義救国軍」の司令である胡伝魁と教 官の刁徳一に捜査任務を任せた。漢奸の刁徳一は阿慶嫂が負傷兵を隠していると疑っ た。それでも、阿慶嫂は巧妙に対応し、刁徳一の陰謀を思いのままにさせなかった。

また、刁徳一は港の封鎖を命じ、負傷兵を死ぬまで閉じ込めようと企んでいた。県委 員会の責任者である陳天民が漢方医に変装して、県委員会の指示を伝えるために茶館 を訪れ、漢方薬の名前を利用して阿慶嫂にできるだけ負傷兵を紅石村へと移動させる という指示を下した。負傷兵達が紅石村で怪我を回復させ、再び武装して戦力となっ た。この時、胡伝魁は変節を明らかにし、日本軍の通訳担当者の妹と結婚することを 決めた。阿慶嫂はお祝いのふりをして、遊撃隊が変装した劇団を手引きして結婚式場 で大騒ぎを起こし、敵を全滅させた。同劇は伝説的な物語や生き生きとした芸術的人

74 褚伯承、「滬劇現代戯的強大生命力―滬劇『蘆蕩火種』創作経験探索」『郷音魅力―滬劇研究和欣 賞』、上海社会科学出版社、2004 年。

75 1959 年、滬劇『碧水紅旗』劇本、劇団内部油印、簡称“油印本”。1964 年、滬劇『蘆蕩火種』劇 本、上海文化出版社、簡称“滬劇本”。1980 年、滬劇『蘆蕩火種』録像、上海電視台、簡称“復排 本”。

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間像を用いて、日中戦争の中で、新四軍が江南へと転戦し、人民の力を借りて敵に打 撃を加える軍民の魚と水のような親しい感情や中国共産党の指導のもとで、新四軍が 必ず中日戦争の勝利を達成することを称えたものである。

脚本の創作から舞台での上演まで、どのような芸術創作のプロセスを経たか、本節 では考察と問題解決を行う。

1958 年 9 月、戯曲現代劇の題材の領域を拡大するために、上海市人民滬劇団の党支 部書記兼副団長の陳栄蘭76と陳剣雲77は一緒に南京軍区政治部に行き「建軍三十周年投 稿募集組」から 50 編以上の定稿ではない投稿作品を得た。『血染着的姓名』、『挺進上 海郊外』、『夜襲滸墅関』、『火焼虹橋機場』等の作品がある。その中に崔左夫が書いた

「江抗」(即ち「江南抗日義勇軍」)の 36 人の負傷兵が闘争した実績を表現した『血 染着的姓名』という文があった。脚本家の文牧は『血染着的姓名』を読んだ後、この 募集原稿によって、抗日伝奇劇を創作できると考えた。この構想が陳栄蘭の支持を得 て、彼女は陳剣雲が文牧と同伴して「江抗」の 36 人の負傷兵の一員だった劉飛と夫 人朱一を訪問することを委任した。朱一は彼らに抗日闘争に関する史料を紹介し、ま た劉飛に代わり、文牧、陳剣雲が 20 軍 59 師 175 団78を取材するための紹介状を書い た。彼らは建団十九周年の記念活動を参加し、軍史展覧館を見学し、36 人の負傷兵の 名簿、任天石の普段着の写真と葉澄中が生命を犠牲して奪ってきた 96 式の重機関銃 を見て、先輩の上級指導者と他のメンバーが紹介した戦闘の物語を聞いた。部隊の特 別号に掲載され、劉飛が書いた『陽澄湖畔』を読んだ。これらは、文牧が『蘆蕩火種』

を創作し執筆するのに基本的な素材を提供した。文牧は創作メモの中で、「この中か ら私はとても大きい教育と啓発を受けて、私の生活の感受性も豊かになった。上海に 帰った後、すぐ『蘆蕩火種』の下準備と構想を考え始めた」と書いている。

1959 年 10 月に、文牧は最初の原稿『碧水紅旗』を完成させ、後に『蘆蕩火種』と 改名した。脚本は陳栄蘭が若干の修正を行い、1960 年 1 月にリハーサルを開始し、1 月 27 日に共舞台79で初公演を行った。監督は楊文龍である。1960 年の初公演の陣容 は、丁是娥が阿慶嫂を演じ、解洪元が郭建光を演じ、石筱英が沙婆さんを演じ、李廷 康が陳天民を演じ、夏福麟が胡伝魁を演じ、貢中浩が刁徳一を演じるというものであ った。1960 年 3 月 7 日に初公演が終わった。80

1963 年初春、『蘆蕩火種』の製作グループの主要メンバーは脚本に対して一度大規 模な修正を行った。滬劇『碧水紅旗』劇本と滬劇『蘆蕩火種』劇本81を比較すれば、阿

76 陳栄蘭、その時に上海市人民滬劇団の党支部書記兼副団長を担当して、もとの 20 軍文工団の団員だ った。

77 陳剣雲はその後汪培、蘭流と一緒に『上海滬劇志』を編集した。

78 この部隊は陽澄湖畔の「江抗」の 36 人の負傷兵から発展して強大になった部隊である。

79 共舞台は、1927 年に建築され、上海大世界の隣に位置している。前世紀 30 年代にそれは 2027 席の 観衆席があって、有名な上海四大京劇舞台の一つであった。

80 中国戯曲志編輯委員会、『中国戯曲志・上海卷』、中国 ISBN 出版社、1996 年、199 ページ、参照。

81 1959 年、滬劇『碧水紅旗』劇本、劇団内部油印、簡称“油印本”。1964 年、滬劇『蘆蕩火種』劇 本、上海文化出版社、簡称“滬劇本”。

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慶嫂が地下闘争を主とするプロットを明確にし、回数と人物の方面で割合大きな変動 と添削を行った、二幕の「蘆蕩」の劇を一つに合わせ、「審沙」の一幕を強化する等の 修正を行ったことを明らかにした。今度の修正は、この劇の内容を更にタイトにして いるようだった。その中の『智闘』、『開方』等は、人々に深い印象を与え、登場人物 の阿慶嫂、沙婆さん、胡伝魁、刁徳一等の人物像は生き生きと描かれ、さらにたくさ んの有名な役者のそれぞれ特色を持った演出により、公演は大いに観衆の歓迎を受け た。

1960 年の初公演から 1963 年まで、滬劇『蘆蕩火種』は 3 回の大規模な修正がなさ れた。1964 年初に上京して公演する前まで、大小の修正稿が合計で 12 ある。その後、

1964 年 3 月 5 日に上海で改めて上演し、370 幕を連続し上演し、観衆は延べ 56 万人 に達した。82同一の劇目が同一の劇団によって七か月連続して上演され、長い間にわ たっても衰えることがないのは、解放後十五年来の上海の戯曲界で初めてのことであ る。1964 年 10 月、滬劇『蘆蕩火種』の脚本は上海文化出版社によって出版され、上 海市人民滬劇団による集団的創作、文牧の執筆」と署名された。

二、滬劇『蘆蕩火種』の芸術成果

1963 年 12 月 22 日、上海市人民滬劇団は北京市委員会の招待に応じて、上京し『蘆 蕩火種』を公演した。12 月 31 日、「青芸」劇場で公演を始めた。この期間、『蘆蕩火 種』は北京駐在軍に慰問公演をし、肖華、彭少輝、劉志堅等部隊の指導者が出席して 鑑賞し、そして舞台に上がって役者を慰問した。83

最も人の心を奮い立たせたのは、1964 年 1 月 23 日の夜、国家主席の劉少奇と李先 念、薄一波、羅瑞卿、張鼎丞等の党と国家の指導者が一緒に『蘆蕩火種』を観覧し、

そして上演が終わった後に、舞台に上がって劇団の責任者、脚本家、役者と一人一人 握手し、「よい芝居だった」と続けて述べ、上演の成功を祝賀した。84これは『蘆蕩火 種』の北京での公演が盛況で最高潮に達し、大いに劇団のメンバーが革命の現代劇を 演じる情熱を鼓舞した。

首都での公演を終え名誉と共に上海へ戻った後、1964 年 3 月 5 日から 1964 年 12 月 まで、『蘆蕩火種』を美琪大劇場で 9 ヶ月続けて公演し、上演回数は計 300 あまり、

観衆は延べ 56 万 3 千人に達し、前後して 3600 余りの機関部門が劇場から団体の切符 を購入、あるいは座席を全部予約した。たくさんの観衆が次から次へと手紙を送り、

観覧希望を出した。1960 年春の初公演から計算すれば、『蘆蕩火種』は共に 580 余り の上演回数をこなして、観衆は延べ 82 万人に達した。85

『蘆蕩火種』を上演すると、観衆と世論の好評を得た。劇団が何回も開催した座談

82 蒋星煜、『文壇芸林備忘録』、上海遠東出版社、2006 年、305 ページ。

83 汪培、陳剣雲、蘭流編集、『上海滬劇志』、上海文化出版社、1999 年、31 ページ。

84 「劉主席観看滬劇『蘆蕩火種』」、『人民日報』、1964 年 1 月 24 日。

85 中国滬劇網、http://www.chinahuju.com/、アクセス日 2012 年 6 月 26 日。