第六章、 模範劇フイルム『沙家浜』
第二節、 模範劇フイルムを撮影する前の大修正
最初に映画に撮られたのは模範劇『智取威虎山』と『紅灯記』である。江青が基本 的に成熟したと考えた作品だった。指導や経験を積むのに都合が良いので、この二つ の作品は北京で撮影を行った。それから、模範劇の撮影は中国共産党中央が予想した
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以上に時間がかかり一番早く公開した模範劇フイルム『智取威虎山』にしても、関連 する資料の報道をまとめると、1968 年 11 月北京へ赴いてから、1970 年 10 月 1 日の 上映公演まで、およそ二年かかっている。その中の重要な原因の一つは江青が「模範 劇フイルムは広範な革命大衆が革命をつかみ、生産を促進するのに影響してはいけな い、作成したフイルムの上映時間は短時間のもので、2 時間以内でなければならない」
346という重要な指示を下したためだった。当時の模範劇の上演時間はほとんど 3 時間 であったため、大幅に修正せざるを得なくなり、修正が非常に難しくなったことは疑 問の余地がない。模範劇は多くの文芸工作者たちが心血の結晶を注ぎ尽くしただけで はなく、何回もの修正を経て、すでに完璧な芸術作品となり、もし修正を続ければ、
「一分伸ばすと長く感じ、一分減らすと短く感じる」となってしまう。そして、本来 の上演の時間の三分の一も減らした上に、且つ劇の本来の芸術の精華と輝きも保たな ければならないとなれば、作業がますます難しくなるのは間違いないことである。そ れで、八つの模範団は天地が引っくり返るような大修正を始めた。
次は、『様板戯的風風雨雨』347に基づいて、模範劇フイルムを撮影する前の大修正に 対して、考察分析を行う。
一、京劇『沙家浜』に対する修正
京劇『沙家浜』に対する修正は 1969 年中国共産党第九回全国代表大会(「九大」と 略記)後に始まった。ここまでには、北京京劇団の『沙家浜』も修正を行ったが、阿 慶嫂を演じる趙燕侠を洪雪飛に変更した。九大期間中、江青と代表たちは京劇『沙家 浜』を鑑賞した。見終わって、江青は非常に不満で、この劇は締まりがなく、ダラダ ラとして「外殻だけしか残っていない」と考えた。それで、製作グループにすぐ修正 するよう、そして厳密に2時間以内に制限するようにと命令した。
北京京劇団は元の脚本家である汪曾祺と薛恩厚が解放され、他の元の脚本家の楊毓 珉、監督の遅金声と合流し、作品の修正を行った。李慕良以外には、李金泉を招いて きて、節回しを修正すると同時に、陸松齢は『智取威虎山』の音楽と対照して、楽隊 を新たに編成して、管弦楽隊をも利用した。当時の上海、山東の模範劇の舞台セット、
舞台照明が精緻で美しいのに対して、北京の模範劇はまだほとんど粗雑で設備も完全 ではなかったため、劇団は舞台美術にかなり工夫をした。
幸いにも京劇『沙家浜』の基礎は優れていて、修正するよりむしろ少し調整と強化 を行った。修正はすべて『智闘』の中のいくつかの歌の場面を入れ替えたもので、順 調に流れて理にかなっている。党の指導を際立たせるために、偽医者に扮して打ち合 わせに来た程書記のため一曲付け加えた。『奔襲』の立ち回りでは、塀を飛び越えて 庭に入ったりする、ぞくぞくさせるような動作も付け加え、終盤頃には天幕に小さな
346 『江青同志論文芸』、中華民国国際関係研究所、1974 年。
347 戴嘉枋、『様板戯的風風雨雨:江青・様板戯及内幕』、知識出版社、1995 年。
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太陽を掲げたりした。唯一大変工夫したのは上演する時間を二時間以内に短縮した修 正である。京劇『沙家浜』は文革前に毛沢東が鑑賞する時に時間が長すぎ疲れないよ うに、周恩来の指示に従って、一回短縮したことがある。但し、郭建光の人物像を目 立たせるために、彼のシーンを加え、時間を延長した。今回の修正では、監督の遅金 声は演劇の下稽古するたびに、ストップウォッチで時間を測っていた。余計な部分や 時間を無駄にする些細なセリフは全部取り消され、動作も煩瑣なところを削除した。
どの場面も短縮が十分ではなく、通し稽古の時でさえ、ストップウォッチで時間を確 認していた。上演する時間が確実に二時間以内になって、やっと修正終了を宣言した。
修正を行ってから、京劇『沙家浜』は 1970 年 5 月に正式な上演の定稿本が完成し た。長春映画制作所に送られてフイルムが撮影されたのに続いて、1971 年 9 月にカラ ーフイルムが公開上映された。
二、交響楽『沙家浜』に対する修正
元の交響楽『沙家浜』の 4 名の作曲家は「ぺテーフィクラブ」348のメンバーになり、
「牛棚」349に閉じ込められた。江青が提出した修正意見は、先ず『序曲』の中に『新 四軍軍歌』のメロディーを使用したことに非常に反感を持ち、当時の新四軍の軍長陳 毅元帥等の「年寄り」たちのために功績や人徳を無闇に褒め称えるための歌であると 考えた。また『序曲』中の元からある「三九年、陽澄湖畔……」は譚震林のことを示 している、その功績を高く評価したのは創作者が下心をもって入れ込んだ反革命のも のだと述べた。終わりの部分では京劇の節回しを使ったことにも嫌悪感を表し、全部 取り消した。他に、『智闘』の幕を取り除くようにと強く要求し、「悪役が多すぎ、面 白くない。悪人は舞台に出してはならない」と言った。周恩来はこのことを知ってか ら、「赤い花は美しいが、それでも緑の葉に支えられねばならない」と同意しなかっ た。修正作業は更に難しいものとなった。
江青の修正指示が伝達されたので、元の脚本家たちが処罰されることは間違いなく、
その上「模範劇を破壊する」元凶になってしまった。修正作業はやむを得ず他の王酩、
施万春、戴宏威に頼むことにした。『序曲』の修正はまだ比較的容易であり、『新四軍 軍歌』のメロディーは『三大紀律八項注意』に入れ替えられ、『新四軍軍歌』のその時 代特有の雰囲気が減少したが、『三大紀律八項注意』は江西紅色革命根拠地時期に生 まれた紅軍の歌曲であるため、政治上強い反応を招いたり、議論を引き起こすことは なかった。『序曲』中間部分は本来は始めと終わりの意気軒昂な情感と抒情的な段落 の「三九年、陽澄湖畔……」と対比させるために、李徳倫は于会泳を招いて、修正を 行ってもらった。于会泳は聞いた後、メロディーはほとんど問題なく、基本的に修正 せず、歌詞を修正して、「三九年」を削除した。終りの合唱は王酩が書き直し、戦闘を
348 ペテーフィクラブとは知識人に創立され、政府の政治主張などに反対するクラブである。
349 文化大革命中に、「牛鬼蛇神」と呼んで批判した人々を押し込めた場所。
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表現する一つのセクションを削除した。
一番難しいのは、『智闘』を残すかどうかの問題だった。江青と周恩来の意見が食 い違ったため、楽団の人たちは板ばさみとなり非常に困った。その後、周恩来は「こ れらは全部私個人の意見であり、最後にどうするのか、やはり江青の意見を聞いてく ださい」と言った。それで、楽団の人たちは嫌々ながらあきらめて、『智闘』を削除し た。
1971 年の初めに、国務院文化組が交響楽『沙家浜』の基本定稿を決めたので、勝手 に修正することはできなくなり、総譜を最終的に整理してから、模範劇フイルムの撮 影が始まり、総譜が出版された。この決定を下してから、中央楽団指導小組副組長、
指揮者である李徳倫は、当初は時間が慌ただしく、作品のできが粗雑になり、内容に も技術的問題が存在した。一回だけ聞けばごまかして切り抜けることができるかもし れないが、もし映画として長期的に保存することになれば、総譜も出版することにな り、内外の専門家に細かく研究されれば、世間の物笑いの種になってしまうのではな いかと考えた。李徳倫はこれらの危惧を楽団組長に伝え、総譜を整理する際に、大幅 な修正を行わなければならず、そして、原作者によって総譜の整理作業を行うことを 慎重に提案した。組長は軍代表であり、模範劇の質に対して、責任を負っていたので、
原作者の羅忠鎔、楊牧雲を「解放」することに同意した。この二人は施万春と一緒に 作品に対して本格的な「整理」を行うように指示された。それで、彼ら三人は作品全 体の旋律の大小数十箇所の修正を行った。楽隊の楽器もたくさん替えさせた。「整理」
という修正を通して、確かに作品の質は向上した。
交響楽『沙家浜』は模範劇フイルムの撮影を始める前に長い期間があり、江青は上 演する時に劇の服装を着用しなければならないと要求した、それで、交響楽団も合唱 隊の役者にしても、一律に当年の新四軍の服装に従って、帽子をかぶり、軍服を着て、
ベルトをしめて、ゲートルを巻きつけていた。
以上のような修正を行ってから、1972 年 3 月に、交響楽『沙家浜』のカラーフイル ムが公開上映された。