第六章、 模範劇フイルム『沙家浜』
第三節、 模範劇フイルム『沙家浜』の誕生
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表現する一つのセクションを削除した。
一番難しいのは、『智闘』を残すかどうかの問題だった。江青と周恩来の意見が食 い違ったため、楽団の人たちは板ばさみとなり非常に困った。その後、周恩来は「こ れらは全部私個人の意見であり、最後にどうするのか、やはり江青の意見を聞いてく ださい」と言った。それで、楽団の人たちは嫌々ながらあきらめて、『智闘』を削除し た。
1971 年の初めに、国務院文化組が交響楽『沙家浜』の基本定稿を決めたので、勝手 に修正することはできなくなり、総譜を最終的に整理してから、模範劇フイルムの撮 影が始まり、総譜が出版された。この決定を下してから、中央楽団指導小組副組長、
指揮者である李徳倫は、当初は時間が慌ただしく、作品のできが粗雑になり、内容に も技術的問題が存在した。一回だけ聞けばごまかして切り抜けることができるかもし れないが、もし映画として長期的に保存することになれば、総譜も出版することにな り、内外の専門家に細かく研究されれば、世間の物笑いの種になってしまうのではな いかと考えた。李徳倫はこれらの危惧を楽団組長に伝え、総譜を整理する際に、大幅 な修正を行わなければならず、そして、原作者によって総譜の整理作業を行うことを 慎重に提案した。組長は軍代表であり、模範劇の質に対して、責任を負っていたので、
原作者の羅忠鎔、楊牧雲を「解放」することに同意した。この二人は施万春と一緒に 作品に対して本格的な「整理」を行うように指示された。それで、彼ら三人は作品全 体の旋律の大小数十箇所の修正を行った。楽隊の楽器もたくさん替えさせた。「整理」
という修正を通して、確かに作品の質は向上した。
交響楽『沙家浜』は模範劇フイルムの撮影を始める前に長い期間があり、江青は上 演する時に劇の服装を着用しなければならないと要求した、それで、交響楽団も合唱 隊の役者にしても、一律に当年の新四軍の服装に従って、帽子をかぶり、軍服を着て、
ベルトをしめて、ゲートルを巻きつけていた。
以上のような修正を行ってから、1972 年 3 月に、交響楽『沙家浜』のカラーフイル ムが公開上映された。
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導入し、またテレビ芸術作品も撮影し、模範劇フイルムをうまく撮影できるように経 験を積む一方で、テレビ局もいち早く上映することもできたため、大衆の待ちきれな い要求を満足させることができた。
一、テレビ画面複製フイルム『沙家浜』
『沙家浜』は舞台からスクリーンに移されたが、その間一つの特殊な移行形態があ り、それが即ち我々が言った電視屏幕複製片350である。それはテレビ伝播を基礎にし た一つ新しい転換の試みである。一番早い模範劇画面複製フイルムは、1968 年 9 月 30 日に上映したピアノ演奏劇『紅灯記』であり351、最初の模範劇フイルム『智取威虎 山』より二年ほど早かった。
「テレビ画面複製フイルム」の定義及び解釈などに関して、筆者には目下参考にで きるような文献資料がない。映画関係の研究者に問い合わせた後に以下のように理解 した。「テレビ画面複製フイルム」は舞台劇の上演を録画し、劇場の上演を復元する ためだけのもので、あらゆる映画のカッティング、人物の特写などの技術的処理をせ ず、観衆が「テレビ画面複製フイルム」を見ている時、劇場で舞台劇を観覧している のと同じように、カッティング、ナレーションがないものである。この知識に関して、
筆者は今後「模範劇フイルム」の研究の中で、深く掘り下げて考察を継続するつもり である。
京劇『沙家浜』のテレビ画面複製フイルムは、1970 年に北京テレビ局で撮影製作さ れており、白黒で、計 14 本がある。北京京劇団『沙家浜』の製作グループが脚本を 書き、監督は莫宣、王嵐、撮影は文英光、王俊嶺、白鳴宏、配役は、郭建光は譚元寿 が、阿慶嫂は洪雪飛が、沙婆さんは万一英が、程謙明は賀永瑛が、沙四龍は張敦義が、
刁徳一は馬長礼が、胡伝魁は周和桐が演じた。352
二、模範劇カラーフイルム『沙家浜』
一番最初に映画の形式で撮影した模範劇カラーフイルムは『智取威虎山』である。
新聞、ラジオなどの報道手段の宣伝を通して、『智取威虎山』の撮影に十分な世論の 基盤を確立した。このような状況だったので、『智取威虎山』が最初の模範劇フイル ムになるというのも当然であった。
模範劇カラーフイルム『沙家浜』は、長春映画製作所で計 14 本が撮影制作さた。
北京京劇団によって集団改作され、監督は武兆堤、撮影は舒笑言、録音は于開章、北 京京劇団が公演した。配役は、郭建光は譚元寿が、阿慶嫂は洪雪飛が、沙婆さんは万
350 本文では「電視屏幕複製片」を「テレビ画面複製フイルム」と訳す。
351 『人民日報』は 1968 年 9 月 30 日に掲載した二つの文章を参照した。解放軍某部王先福、「工人階 級英雄形象鼓舞我們前進―歓呼彩色記録片鋼琴伴唱『紅灯記』」。及び、広州部隊文体戦士、「工人階級 的英雄頌歌―賛彩色記録片鋼琴伴唱『紅灯記』」。
352 中国電影資料館、中国芸術研究院電影研究所編、『中国芸術影片編目』(下冊)、文化芸術出版社、
1981 年、957 ページ、参照。
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一英が、程謙明は賀永瑛が、沙四龍は張敦義が、刁徳一は馬長礼が、胡伝魁は周和桐 が演じた。353
1971 年 9 月 19 日、革命現代京劇『沙家浜』のカラーフイルムは、長春映画製作所 によって撮影制作された。9 月 21 日から、第四番目の模範劇カラーフイルムとして、
北京と全国各地で続々と上映された。『人民日報』の報道によると、354このフイルムの 撮影製作に参加した長春映画製作所『沙家浜』の撮影グループと北京京劇団『沙家浜』
の製作グループの革命文芸工作者は、真剣に毛主席のプロレタリアの文芸路線を実行 し、フイルムを撮影する過程で、他の兄弟職場の強力な協力を得て、各種の困難を克 服して、ついに革命現代京劇『沙家浜』をカラーフイルム撮影が成功した。カラーフ イルム『沙家浜』の撮影制作の成功と上映は、大多数の労農兵大衆の願望を満足させ るためと模範劇を更に普及させることに貢献した。
三、模範劇カラーフイルム交響楽『沙家浜』
1972 年 2 月 12 日の新華社電によると、355中央新聞紀録電影製片厂が三つの短編に よって構成されるカラー記録フイルムを撮影した。このフイルムはピアノ演奏劇『紅 灯記』、ピアノ協奏曲『黄河』、革命交響楽『沙家浜』を含む計 13 本がある。監督は沙 丹、撮影は張沼濱等、照明は田金生、フイルム編集は黄毓芬である。その中のカラー フイルム交響楽『沙家浜』の配役は、曹連生が郭建光を演じ、梁美珍が阿慶嫂を演じ、
林寄語が沙婆さんを演じた。李徳倫が指揮をとった。フイルムの中で、郭建光が『軍 民魚水情』を歌って、沙婆さんが『斥敵』を歌った。『紅灯記』においては、李玉和が
『雄心壮志沖雲空』を歌い、李鉄梅が『仇恨入心要発芽』を歌って、李婆さんは『血 債還要血來償』を歌った。『黄河』においては、『黄河船夫曲』など356を演奏した。以 上がいっしょとなり、独特な芸術的カラーフイルムとなった。
3 月から、交響楽『沙家浜』のカラーフイルムは公に上映を開始した。1972 年 3 月 2 日の『人民日報』は第 4 版のコラムで、『新的探求新的収穫――賛鋼琴伴唱「紅灯 記」、鋼琴協奏曲「黄河」、革命交響楽「沙家浜」』と『敢闘争敢勝利緊握槍――革命交 響楽「沙家浜」彩色影片観後感』の二編の文章357を掲載して、これが強力な宣伝とな った。
四、粤劇カラー記録フイルム『沙家浜』
353 中国電影資料館、中国芸術研究院電影研究所編、『中国芸術影片編目』(下冊)、文化芸術出版社、
1981 年、961 ページ、参照。
354 「革命現代京劇『沙家浜』彩色影片撮制完成」、『人民日報』、1971 年 9 月 20 日。
355 「革命現代舞劇『白毛女』等両部彩色影片撮制完成」、『人民日報』、1972 年 2 月 13 日。
356 中国電影資料館、中国芸術研究院電影研究所編、『中国芸術影片編目』(下冊)、文化芸術出版社、
1981 年、970-971 ページ、参照。
357 辛景、「新的探索 新的収穫―賛鋼琴伴唱『紅灯記』、鋼琴協奏曲『黄河』、革命交響音楽『沙家 浜』」、及び、中国人民解放軍済南部隊政治部宣伝隊、「敢闘争敢勝利緊握銃―革命交響音楽『沙家浜』
彩色影片観後感」、『人民日報』、1972年3月2日。
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徐蘇霊358の叙述によると、いわゆる「戯曲芸術片」は伝統劇の舞台芸術記録フイ ルムを指す。ここで言う「芸術片」と我々が通常の意味で言う「art film」は異な っており、ここで示すのは舞台上演の記録であり、よって本文では「芸術片」を
「記録フイルム」と訳す。
1974 年から 1975 年 7 月まで、第二陣の模範劇と準模範劇のカラーフイルムが新し い劇映画の中に混じって続々と上映された。それらは『平原作戦』、『杜鵑山』、『紅色 娘子軍』(京劇)、『沙家浜』(交響楽)、『沙家浜』(粤劇)と二つの新しい革命現代バレ エ劇『草原児女』と『沂蒙頌』の合計七つである。
1974 年 1 月 19 日の新華社電によると、珠江映画製作所は同名の京劇革命模範劇
『沙家浜』を改作した粤劇カラー記録フイルムを撮影した。計 14 本がある。監督は 于得水、撮影は劉洪銘、李生偉、美術は黄沖、莫仁楫、張之楚、録音は林光である。
配役は、郭建光は容剣平が、阿慶嫂は紅線女が、沙婆さんは仇小氷が、程謙明は黎国 栄が、沙四龍は張智強が、刁徳一は関国華が、胡伝魁は王中玉が演じた。359
以上、『人民日報』の報道360によって明らかになったのは、カラー伝統劇記録フイル ム『沙家浜』の上映が、粤語(広東語)が使われる地区の広範な大衆にこの種の大衆 的な芸術形式をそなえた模範劇を通して、革命模範劇を視聴及び理解させて、更に革 命模範劇を普及させたということである。これは地方劇の革命を深くすすめるために 必ずや積極的な影響を発生させたに違いない。
五、模範劇カラーフイルム『沙家浜』の撮影創作過程
模範劇フイルムを撮影する時には、最も良い技術陣を集め、同時にコストを惜しま ず、米国から直接に輸入してきた最も良いフォトフイルムを使った。模範劇の宣伝に ついては舞台写真の重要性を考慮に入れて、江青は当時新華社対外記者組の組長を担 当していた張雅心を撮影グループに転任させ、撮影に専念させた。江青はいかなるコ ストと代価も惜しまずに、模範劇フイルムと舞台写真をうまく撮影するようにと指示 した。張雅心は、その当時新華社の記者は一年毎に三本のカラーフォトフイルムの分 配しか受けられなかったが、模範劇の舞台写真を撮影する時は自由に使えたと叙述し ている。361張雅心はよく大きい包みを背負って、毎回一、二百ぐらいのコダック・フ イルムを手にしていた。器材面でも最も良いものを使っていた。全国でハッセルブラ ッド(Hasselbald)のカメラは三台しかなかった。江青が一台、石少華362が一台、張
358 徐蘇霊、「試談戯曲芸術片的一些問題」、『中国電影』、1956 年、第 2 期。原文「所谓的戏曲艺术片 是指戏曲的舞台艺术纪录片」
359 中国電影資料館、中国芸術研究院電影研究所編、『中国芸術影片編目』(下冊)、文化芸術出版社、
1981 年、1002 ページ、参照。
360 朱文、「移植革命様板戯的優秀成果―評彩色戯曲芸術片『沙家浜』」、『人民日報』、1974 年 2 月 25 日。
361 張雅心口述、華二撰文、「離様板戯最近的人」、『中国撮影家』、2007 年、第 12 期。
362 石少華、その時最も有名な撮影家。中央ニュース撮影局の副事務総長兼ニュース撮影所の所長、新