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第五章、 交響楽『沙家浜』

第二節、 交響楽『沙家浜』の誕生

一、交響楽『沙家浜』の誕生始末

『江青文選』308の記録によれば 、1965 年 1 月 27 日晩、江青は中央楽団に来て、交 響楽隊が演奏した『歌唱祖国』を聞いた。楽団の指導者と談話した時、まず毛沢東の

「没有調査就没有発言権」(「調査がないと発言権がない」)を引用して、その後楽団 の楽器がとても良く「完全に人民に、革命に奉仕ができる」、「資本主義の音楽を私も 少し聞いたことがあるが、いわゆる『経典』の作品はいくつかしかない、その後あま り出ていない」と指摘し、楽団は資本主義の音楽に追従しないで、自分のものを作る べきで、「あなた達は演劇から着手し、……京劇をやってみたらいい」、「明日北京京 劇団が改作した『蘆蕩火種』のリハーサルをするから、私はあなた達を招いて見に行 ってもらおう」と言った。こうして、1 月 28 日、楽団は北京市工人クラブで京劇『沙 家浜』の試演を観覧した。見終わった後、江青は李徳倫に考えが何かあると聞き、李 徳倫は「この劇に交響楽隊で音楽を付ければ、もっと効果がでる。しかし、交響楽隊 が京劇の公演を伴奏するのは、現在まだ自信がない。何段か書いて少し試して見て、

主要な段落をつないで、一つの作品にすることができる。将来歌の部分を取り除いて、

劇の主要な段落をつないだら一つの交響楽の卡戯309を作ることができる」と答えた。

江青は聞き終わると、「とても良い、あなた達が伴奏を書いたら、譚元寿に歌わせよ う」と言った。

楽団に帰った後、李徳倫はバイオリンの楊牧雲、ビオラの鄧中安と相談し、三人で 創作グループを構成して、交響楽隊で伴奏する声楽組曲『沙家浜』の創作を試み、先 に『堅持』の一幕のいくつかの歌の部分を一組の合唱に改作して、管弦楽隊を使って 伴奏することに決めた。1 ヶ月稽古をしたが、あまり理想的な効果が得られなかった。

そこで楽団の指導者の賛成を得てから、有名な作曲家羅忠鎔を加えた。彼は和声、復 調、曲式と楽器の組み合わせが得意であった。

1965 年 3 月、中央楽団は「堅持」の舞台稽古を始め、4 月にリハーサルをした。「こ れは京劇ではあるが、単なる京劇ではない、大規模な交響楽団が前奏曲を演奏し終え ると、ベルカントの歌唱技法により厳しく訓練されたテノールがビロードのような和 やかで艶のある歌声で、休養中の郭建光が蘆蕩で食料や薬が不足し、敵情も不明な状 況の中で、湖を見渡しながら、乱れる思いを[二黄導板]の曲調で歌い始める。続いて、

テンポの速い演奏により風雨急襲の雰囲気のなか、合唱団の一人が「暴風雨が来たぞ」

と呼んだ途端、郭建光が悲憤慷慨、高らかに「泰山の頂点に立つ一本の青松に学び」と

308 吉林省通遼師範学院中文系編、『江青文選』、1969 年 10 月、251-252 ページ。

309 卡戯は戯劇の一種に属し、それは戯劇の発展の過程の中で声楽を模倣した器楽作品である。

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[嗩訥310西皮導板]で歌い始める。合唱団は急に早いテンポで情感のこもった勇壮な混 声合唱が、勇猛邁進する勢いを「泰山の頂点に立つ一本の青松に学べ、大空にそびえ 立ち、……」と轟くように歌う。特に合唱は複数の音調の歌い方を取り入れて、異な るパートの歌声が次々に沸きあがり、最後の賞賛の寓意に溢れた楽章により、18 名の 新四軍傷病兵が困難に満ちた環境の中で風雨をものともせず、天地と戦う英雄の気概 を表した。観客を感動させ、しかも京劇とは違う強い芸術的魅力が伝わった。リハー サルに出席した関係部署の責任者たちは、目新しく感じ、これを芸術上の革新だと公 認した」。311交響楽団が伴奏した「堅持」のリハーサルが成功したと聞いた江青は李徳 倫に「あなたと中央楽団は手柄を立てた。これは西洋音楽民族化の有益な試みだ。し かしまだ充分ではない。国慶節に全劇を上演できるよう頑張れ」312と言った。

時はすでに 1965 年 4 月、国慶節に劇全体を上演するのは、一段落の歌は良くても、

劇全体を行うのは口で言うほど容易ではない。その上わずか半年の時間しかない。楽 団の指導者と李徳倫はたいへん困った。「楽団はすぐに創作グループを構成して、李 徳倫が組長を担当し、高経華が政治組長、羅忠鎔が業務組長で、メンバーは楊牧雲、

鄧中安の外、打楽器の談炯明を加えた。時間に間に合わせるために、創作グループは 先に三つの段落を創作するのを決定し、みんなを動員して着手するほかなく、一人で 一段落を書くよう手分けした。『軍民魚水情』は談炯明が担当し、『掃蕩』(後に『敵寇 入侵』になった)は楊牧雲が執筆し、『智闘』は羅忠鎔と鄧中安が担当した。『堅持』

の経験があったため、この三つの段落の改作はたいへん順調だ。『掃蕩』以外、二つの 段落は独唱か掛け合いの歌ばかりだから、楽団は歌うのを試みた後、張雲卿が郭建光 を演じて、梁美珍が阿慶嫂を演じ、林寄語が沙婆さんを演じ、陳宝慶が胡伝魁を演じ、

徐一之が刁徳一を演じる独唱の公演チームを確定した。そして楽譜が出来上がると、

すぐに稽古を始めた。阿慶嫂の音楽的イメージを強化するために、創作グループはま た彼女に一段落の『授計』の歌の一段を加えた。」313

『模範劇的風風雨雨:江青・様板戯及内幕』の叙述によれば、創作の過程で、創作 グループは音楽劇として、音楽の中で魅力のある合唱はまだ十分な力を発揮しておら ず、分散した幾つかの歌の一段は、なお問題点を要領よく簡潔に示し、テーマをはっ きりと指摘できる「見せ場」を欠いていると感じた。そこで彼らは『序曲』を増加す ることにした。『序曲』はできあいの京劇のシナリオと曲譜がないため、歌詞から音 楽まですべて創作しなければならない。歌詞は王旋伝が創作したが、作曲は鄧中安と 楊牧雲の構想が違うため、彼らがそれぞれに作曲した後、羅忠鎔に任せて統一的に書 き直すことにした。羅忠鎔は改作の過程で、わざわざ北京京劇団に行って、節回しを 専門的に創作する陸松齢に修正してもらった。『序曲』の歌詞の中で、元の「三九年、

310 日本語のチャルメラに当たる。

311 戴嘉枋、『様板戯的風風雨雨:江青・様板戯及内幕』、知識出版社、1995 年、113-114 ページ。

312 戴嘉枋、『様板戯的風風雨雨:江青・様板戯及内幕』、知識出版社、1995 年、114 ページ。

313 戴嘉枋、『様板戯的風風雨雨:江青・様板戯及内幕』、知識出版社、1995 年、114-115 ページ。

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陽澄湖畔、新四軍と大衆の情は魚と水のように深い……」を、陸松齢は即興で[二黄 慢板]を借りてハミングで歌い、優美な深い情を表した。序曲があって終わりがない のはよくないから、楊牧雲と王旋伝がまた協力してエピローグを書いて、後に『勝利』

と変えた。武装闘争が革命の勝利を得たのを強調するために、エピローグの前に、羅 忠鎔は『奔襲』をまた追加した。最後に、羅忠鎔は合唱及び楽団のオーケストレーシ ョンを完成させた。

こうして、全員の協力と努力のお蔭で、1965 年国慶節の前夜 9 月 25 日、中央楽団 の交響楽隊の伴奏による『沙家浜』の全幕のリハーサルが、李徳倫の指揮で、つい に中央音楽学院の講堂で行われた。時間が切迫していたため、創作グループのメン バーは作品が依然としてあまりに粗雑すぎると思っていたが、江青はリハーサルを 見終わった後、満足そうな表情を見せ、創作グループのメンバー全員と接見し、

「これは意義のある試みで、外国の物を中国で役立てる上で意義のある試みであ る」314と言った。李徳倫は江青に国慶節に上演可能かどうかうかがいを立て、江青 は「何も言うことはない。一年に一つ出せばいいだろう」315と述べた。そこで、

1965 年 10 月に、正式に公演した。この作品は元の劇の主要なプロットをまとめて、

『序曲』、『軍民魚水情』、『掃蕩』、『智闘』、『堅持』、『授計』、『斥 敵』、『奔襲』、『勝利』の九つの楽章に分けられている。

70 年代の初め、模範劇フイルムを撮影する前に、交響楽『沙家浜』に大きな修正を 行った。1971 年初、国務院文化組は交響楽『沙家浜』の決定稿を作ることを決定した。

気ままに直すことはできなくなり、総譜を整理した後すぐに模範劇フイルムの撮影を 始めて、総譜を出版することを決めた。今回の修正は『序曲』、『軍民魚水情』、『堅持』、

『奔襲』、『勝利』を残し、『掃蕩』、『智闘』を除き、『敵寇入侵』、『槍声報警蘆葦 蕩』を新しく加え、同時に、一部の楽章を書き直して、更にいくつかの楽章を改善し て、悪役の刁徳一と胡伝魁のすべての歌を除いた。筆者から見れば、『智闘』の一幕 は『沙家浜』の中で比較的優れた部分であり、取り消したのは本当に惜しいことだと 思う。316

二、呼称の争い

交響楽『沙家浜』は、管弦楽団の演奏による合唱曲であり、形式的にはオラトリオ に最も近い。1965 年、中央楽団が公演する際、交響合唱『沙家浜』という名称を使用 したが、江青が文革の指導的文芸理論となった『林彪同志委託江青同志招開的部隊文 芸工作座談会紀要』で、交響楽『沙家浜』という名称を用いたため、これが通行する こととなった。

314 「江青同志対交響音楽『沙家浜』的部分指示」『井岡山』、1967 年、第 2 期。

315 吉林省通遼師範学院中文系編、『江青文選』、1969 年 10 月、254 ページ。

316 詳しくは、模範劇フイルム『沙家浜』の章で紹介する。