第三章、 京劇『蘆蕩火種』
第五節、 文芸の舞台裏の政治的分岐
京劇『蘆蕩火種』の改作の舞台裏には、人に知られていない相違が多くあった。江 青と李琪、彭真の関係の変化から見ると、いくつかの文革政治闘争の糸口を多少見る ことができる。それによって、どうして文化大革命が北京の副市長の呉晗を批判する ことから始まったか、矛先を北京市委員会に直接向けたかを明らかにできるかもしれ ない。一つの芝居でしかないにもかかわらず、多くの指導者の関心を引きつけ、そし てその文芸の舞台裏に複雑な政治闘争が隠されている。以下、本節では改作の背景か ら見えてくる政治闘争について述べる。
一、江青と彭真
江青が滬劇『蘆蕩火種』を北京京劇団に推薦してから、彭真をリーダーとする北京 市指導者もこの劇に非常に関心を持ち、北京市委員会宣伝部長の李琪にこの劇に関す ることを担当するように命じた。李琪は北京京劇団に「京劇という古い形式の劇が現 代劇を舞台稽古する時、京劇の特色を持ちながらも、その時代の姿も持つべきだ」と 指示した。彭真、江青らは一緒に改名された『地下連絡員』の初リハーサルを見た。
見終わった後に、「江青はその場で意見を述べなかったが、帰った後に直ちに電話を かけてきて、この劇に対してむやみに非難をおこない、公演を許さなかった。そこで、
すでに販売した 3 会場の劇の切符を払い戻すよりほかなかった。」、「江青の意見によ って、劇名を『蘆蕩火種』に戻して、修正と加工を行った。」151
1964 年 4 月中旬、江青は上海での療養から帰った後、修正した京劇『蘆蕩火種』が すでに現代京劇の中で「一つの鮮やかで美しく優れたもの」になっていることに気付 いたが、許可を得て対外公演をしたことに、非常に激怒した。この時江青が激怒した 理由は以下のようなものだっただろうと思う。
まず、江青はこの劇は自分が北京京劇団に推薦したのに、自分の意見を求めずに対 外公演を始めたことは、彼女を無視することだと考えた。
次に、この劇は修正した後にこのように成功したが、江青は俳優経験者としての芸 術的な感性により、この劇が必ず京劇の現代劇の中において素晴らしいものになるこ とを予感した。そこで、江青はこの素晴らしい作品が自分と無い関係であることを許 せなかった。
第三に、彭真をリーダーとする北京市委員会がこの劇の修正に対して極めて大きい 配慮と支持を与え、この劇を北京市委員会の名義に組み入れた。江青はこの演劇成功 の手柄が他人の手に渡ることを座視できなかった。まして優秀な芸術的業績と生命力 をはっきりと示した素晴らしい劇であればなおさらである。
そこで、江青は自分と京劇『蘆蕩火種』の関係を作り始めた。まず、修正意見を出
151 叶介甫、「李琪と江青的殊闘争」、『文史精華』、2011 年、第 2 期、参照。
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し、その指示によって修正をやらせた。江青は劇団に多くの修正意見を出した。例え ば、『茶館』の一幕と刁小三が蘆蕩へ行くプロットを削除した。この修正に対して、李 琪は賛成せず、このように修正すれば「だめになる」と思っていた。李琪はまた劇団 の関係者に「江青の話もすべて聞き入れなければならあいわけではない。江青は気性 がよくない、疑い深いである」と言った。李琪は「江青が勢力を笠に着て横暴非道な ふるまいをすることを認めなかった。江青は何度も李琪を誘って劇を見たり会議した りしたが、彼はできるだけ口実を設けて断った。」152
上述の内容から明らかなように、李琪と江青の間には非常に大きい対立が存在して いた。李琪は江青を全く相手にしなかったが、これは李琪の背後にいた彭真をリーダ ーとする北京市委員会の眼中に江青がないことを意味している。体面を重んじる江青 は厚遇を得られず、その上メンツが丸つぶれになってしまった。これにはもちろん江 青は承服できなかった。よって、江青は李琪に嫌悪感を持つと同時に、彭真をリーダ ーとする北京市委員会に対する憎しみも深くなった。
江青は劇団に一連の修正指示を下達した後、「詳しい情況をよく知っている彭真は 劇団が再び江青からの肉体的精神的な苦痛を避けるように、わざと巧妙な手配をした かどうかは分からない。1964 年 4 月 27 日の夜、党と国家の指導者である劉少奇、周 恩来、朱徳、鄧小平、董必武、陳毅などは京劇『蘆蕩火種』を観劇し、まだ江青の意 見によって修正されていないままの元の状態で上演した劇を盛んに褒め称えた。劉少 奇をリーダーとする中央首脳部の態度によって、デリケートで、威張り散らして人を 顎で使う江青は言動を慎まざるを得なかった。その上、全国京劇現代劇競演大会がす でに目前に迫っていたため、『蘆蕩火種』がまた余計な問題を起こして多くの修正を 行うことはできなかったため、江青は「しょうがない。時間があれば、またゆっくり 磨き上げることにしよう」153と憤然たる態度で言わざるを得なかった。
彭真の行為は、明白に劉少奇をリーダーとする党中央首脳部の勢力を借りて江青を 抑えるためであった。傅謹が指摘したように「まさに彭真のようなベテランの政治家 は地方の政治家のように毛沢東の言うことを何でも聞くということはなく、毛沢東を そんなに恐れていなかった。彼らには常に自分の考えがあり、江青を神のようにあが め奉ることはなかった。」154
以上の資料より、筆者は以下のように推測する。京劇『蘆蕩火種』に関する修正は 党中央のトップの権力争いに関わっており、党内の複雑な政治闘争を予知していた。
江青と彭真の争いはただ表面的な利益衝突を示しているが、その本質的な争いが幕を 開けようしていた。しかし江青の「度量」では、絶対に穏便に片づけることはできな かった。この時、彭真は劉少奇に劇を見せ、これを利用して江青の京劇『蘆蕩火種』
152 叶介甫、「李琪と江青的殊闘争」、『文史精華』、2011 年、第 2 期、参照。
153 戴嘉枋、『様板戯的風風雨雨:江青・様板戯及内幕』、知識出版社、1995 年、56 ページ、参照。
154 鳳凰衛視『鳳凰大視野・風雨様板戯』番組製作グループ、『風雨人生様板戯』、中国友誼出版公司、
2006 年、78 ページ、参照。
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に対する関与を抑えたが、その後、江青は毛沢東に劇を見せ、これを利用して劉少奇 と彭真を抑圧することができた。これで、「報今日之仇」(「当日の仇を討った」)ので ある。
史料によると、1964 年 5 月 27 日の『中共北京市委関于毛主席対文芸問題批示情況 的第二次報告』(『毛主席の文芸問題に対する指示情況に関する中国共産党北京市委員 会の第二回報告』)の中で京劇『蘆蕩火種』を改作し、公演が成功できた経験を割合大 きい紙面で紹介した。しかし、1964 年 8 月 14 日、北京市委員会宣伝部長の李琪は北 京市の文芸活動会議上での総括報告の中において、この劇に対してただ一回簡単に言 及しただけだった。
筆者はその原因について以下のように推測する。この二つの報告の時間はそれぞれ 京劇現代劇競演大会の開幕前と閉幕後である。競演大会の期間に、江青は『談京劇革 命』という演説を発表し、毛沢東の承認と支持を得て、それと同時に大会で大好評を 受けた『紅灯記』と『蘆蕩火種』の脚本を自分が推薦したことを根拠に、言動に正当 で十分な理由があり文芸革命の旗を受け取った。競演大会が終わってから、江青は激 しく大規模な京劇革命を始めた。江青は京劇革命で実験的試みを行うという名義を以 て、徐々に北京市委員会の京劇団に対する指導権を排除した。8 月 14 日の李琪の報告 の中で、北京市委員会と京劇『蘆蕩火種』の関係が自然と話題にならなかったのはそ のためである。これから容易に明らかなのは、江青と北京市委員会の闘争で、競演大 会が終わった後に、江青はもうすでに優位に立っていたということである。それは、
彭真をリーダーとする北京市委員会の暗い運命をも予知していた。
二、毛沢東と北京市委員会
さらに深く考察すれば、江青と彭真の関係は深い意味で毛沢東と北京市委員会の関 係であると考えることができる。この時の江青は初めて頭角をあらわし、毛沢東の支 持に頼りきっているが、この時の江青が代表していたのは毛沢東であり、毛沢東の最 前線におけるスポークスマンであったと理解することができる。
実際に、毛沢東は北京市委員会の文芸活動に対し不満を抱いていた。1963 年 12 月 12 日、毛沢東は華東局第一書記兼上海市委員会第一書記柯慶施の「曲芸活動に力を入 れる資料における寸評」を直接彭真、劉仁に見せる指示を出した。このような情況は 以前にはないことである。
此件可一看。各种艺术形式—戏剧、曲艺、音乐、美术、舞蹈、电影、诗和文学等等,问题不 少,人数很多,社会主义改造在许多部门中,至今收效甚微。许多部门至今还是“死人”统治着。
不能低估电影、新诗、民歌、美术、小说的成绩,但其中的问题也不少。至于戏剧等部门,问题就 更大了。社会主义经济基础已经改变了,为这个基础服务的上层建筑之一的艺术部门,至今还是大 问题。这需要从调查研究着手,认真地抓起来。155 (これは見るに値する。各種の芸術形式、戯
155 薄一波、『若干重大決策与事件的回顧』(下巻),中共中央党校出版社、1991 年、1220-1221 ペー