第二章、 滬劇『蘆蕩火種』
第三節、 文牧と滬劇『蘆蕩火種』
一、脚本家文牧
周良材の『悼念文牧』と褚伯承の『優秀的戯曲作家、模範的共産党員―記文牧』92 の叙述に基づいて、文牧を紹介していきたいと思う。
文牧(1919.8.17-1995.6.23)、元の名前は王文爵、又は王瑞興、上海市松江県人。
幼い頃から当時流行っていた灘簧の芸に興味を示し、よく放課後に対子戯93の公演を 見に行った。小学校を卒業後、米屋の見習いとして働き始めた。彼はどうしても曲芸 への情熱をあきらめきれず、1936 年に米屋を辞め、正式に弟子入りし、上海オペラの 演技を勉強し始めた。これから十数年の間、役者としての勉強や、劇団の創設、港で の商売、それに脚本を書くことなど様々なことをし、南北に自分の足跡を残した。1948 年に丁是娥、解洪元により設立された上芸沪劇団に入団し、翌年に脚本家を兼任し、
文牧というペンネームで活躍し始めた。1952 年に専任脚本家となり、上海滬劇団や人 民滬劇団委員会の副主任を歴任した。中国劇作者協会の会員、上海作家協会の会員で ある。
劇団に身を捧げたほぼ六十年間、文牧は滬劇に深い感情を持ちながら、芸術上の追 求を堅持し、実直な仕事ぶりを続けてきた。役者としても真剣で少しもいい加減なと ころがなく、『赤葉河』という劇では王大富の役を円満に演出したため、1950 年の春 節に行われた上海第一回地方劇競演で俳優一等賞を受賞した。文牧は早くから滬劇脚 本執筆の志があった。彼はよく休みの時間を利用し、勤勉に本を読んでいた。また、
幕表劇の執筆や稽古により、豊富な創作経験を積み重ねるようになった。正式に脚本 家として活躍してから、現代劇の創作に力を入れ、それぞれ異なる期間において、優 秀な作品を創作し、滬劇の繁栄と発展に貢献してきた。1950 年に彼が書いた現代劇
『好児女』は上海第二回地方劇春節競演イベントで脚本とグループ賞の二つの栄誉賞 を受賞した。後に、彼は趙樹理の短編小説『登記』を宗華、幸之と一緒に改編し、解 放後に農村婦女が立ち上がったことを反映した現代劇『羅漢銭』を創作し、観衆の中 にまた強い反響を呼んだ。更に、1952 年北京で行われた第一回全国演劇競演大会で当 該劇は毛沢東、周恩来も公演を見に来るほどの大成功を果たして、脚本家達は中央文 化部から脚本賞を授与された。その後、当時の上海海燕映画撮影所により映画化され、
全国で上映することにより、滬劇の影響を全国へ広げた。 1954 年彼は汪培と協力し て、劉飛翔の小説『春』をベースに滬劇の『金黛莱』を創作し、米軍の侵略と勇敢に 戦う朝鮮の労働婦女の感動的な人間像を成功裏に作り出し、華東演劇競演大会で脚本 賞を受賞した。 1958 年、彼と宗華らが共同創作した中国の民間教師の人民教育に対 する忠誠と奉献を称える現代劇『鶏毛飛上天』は観衆達に深く愛された。その後彼が
92 周良材、「悼念文牧」、『上海文化史志通迅』、第 38 期、1995 年、39-41 ページ。褚伯承、『優秀的 戯曲作家、模範的共産党員―記文牧』、『上海文化史志通迅』、第 38 期、1995 年、42-43 ページ。
93 対子戯、「二小戯」とも称され、戯曲の名詞である。
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創作した現代劇『蘆蕩火種』も再び注目される業績をあげた。
二、文牧と滬劇『蘆蕩火種』
文牧はなぜ現代劇の創作においてこれほど多くの卓越的な成果をあげ得たのか、そ れは長年にわたって民衆の生活に深く入り込んだことと切り離せない。
彼が米屋で見習いをやっていた頃や港で商売していた頃はよく街の茶館でニュー スに耳を傾け、真剣に当時の生活を観察していた。そこで、当時の社会の色々な職業 の人物像を良く知り、民衆の生き生きとした言葉を上手く覚え、創作時に手際よく脚 本を書けるようになった。更に解放後、文牧はいつも自ら農村、工場や軍隊へ赴きそ れらの生活を体験した。彼は軍隊創設三十周年のために募集した文章『血染着的姓名』
から啓発を受け、地下工作者が新四軍の負傷兵を救出する題材を表現しようという強 い意欲を持つようになった。脚本を書くために当時の生き残りである 36 人の負傷兵 に何度もインタビューしたり、当時陽澄湖地域で戦っていた部隊を対象に素材の収集 を行ったり、現地の民衆と軍隊の指導者達に昔のことを語ってもらったりなどして、
『蘆蕩火種』の創作において強固な生活基盤を打ち立てることができた。生活におけ る長期的な蓄積や、適切なインタビュー・フォローがなければ、文牧は阿慶嫂、郭建 光、沙婆さん、胡伝魁、刁徳一という生き生きとした、独特な個性のある人間像を描 き出すことができなかっただろう。
文牧の『「蘆蕩火種」創作札記』(『「蘆蕩火種」の創作メモ』)94の中の詳細な記載に 基づき、人物の誕生に対して以下の考察を行い、同時に『蘆蕩火種』と崔左夫『血染 着的姓名』に対して比較分析を行う。
陳栄蘭の意見により董家浜東来茶館の主人である胡広興を女将である阿慶嫂に変 更し、出演者を丁是娥にした。しかし主人から女将への変更はそれほど簡単ではなく、
劇全体に影響を及ぼすこととなった。
第一、主人がいれば、女将がまず胡伝魁と刁徳一を相手にすることはないため、主 人をどこかへ行かせなければならない。しかし主人がいなくなると、胡伝魁は若い女 将に対して邪念を起こさないだろうか。すると女将と胡司令との関係をもっと親密に させ合理化させなければならない。文牧は崔左夫の文章の中で蒋看護婦がシーツで葉 澄中を隠したプロットを加工し、以前胡司令が日本軍と戦闘して捕まりそうな時に、
阿慶嫂が彼を大きい水がめに隠したことがあったと設定した。それによって、阿慶嫂 の機転の良さを表現するほか、胡司令が多少恩義に感ずることも示した。そういう設 定になると、胡司令の勢力に遠慮し、阿慶嫂に対し悪い考えを抱く人はいなくなる。
そして刁徳一も遠慮しなければならない。
第二、茶館には女将一人に青年である甥がいるのはあまり適切ではないため、胡小 龍を沙七龍に変えて、その母の沙婆さんという役を加えた。崔左夫の文章の中の趙阿
94 文牧、「『蘆蕩火種』創作札記」、『大江南北』創刊号、1985 年 8 月 15 日、参照。
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山の身の上を沙七龍に溶け込ませて、沙氏の母子は新四軍の家族になり、阿慶嫂の助 手という役割を与えた。そこで陽澄湖畔の民衆が新四軍を擁護し、負傷兵をカバーし たなどの実績を阿慶嫂という役で集中的に表現した。
第三、阿慶嫂の「智闘」は現地の状況や敵内部の対立を手に取るように分かるよう に行った。いわゆる己のことを知り、相手のことも知る。しかも阿慶嫂は観察力や分 析力を持ち、機転の利いたきっぱりとした人物であり、それはトリックの仕掛けだけ でなく、敵内部の対立や矛盾を上手く利用し、自分を保全したことによって表現して いる。刁徳一という人物像は文牧が以前に会った様々な人から作り上げた人物である。
この土地の無頼漢だった刁徳一は、新四軍と当地の民衆との間の魚と水の感情をよく 知っていたため、村民を殴ってけがをさせるのではなく、湖に出して漁をさせれば、
新四軍の負傷兵は民衆が船で迎えて来たと思い、自分で蘆蕩から出て来るだろうと考 えた。これはなかなか大変な陰謀である。しかし村民達は騙されず、どうしても船を 出さなかった。実は蘆蕩にいる新四軍の負傷兵達もこのわなに簡単に引っかかること なく、特に沙七龍が茶館に帰ったきり、蘆蕩に戻ってこなかったため、きっと何かが あったはずだと考えた。しかし阿慶嫂は漁船を出して、蘆蕩に隠れている負傷兵達が 騙されるのを心配していた。さらに村民達の心配そうな顔色を刁徳一に発見されれば、
更に危険だと考えた。すると焦っている阿慶嫂は漁船を湖に出させないことを決めた。
胡司令は粗野で横暴な人間であるため、銃を取り出して「行かないやつは撃ち殺す」
と脅かした。阿慶嫂はそれを聞いて臨機応変に草の帽子や急須を湖に投げた。すると 胡司令の部下が発砲した。阿慶嫂は蘆蕩に身を隠している負傷兵達が銃声を聞いて、
警戒心を高めることを願っていた。崔左夫の文章の中で胡広興は日本軍が一匹の船が 去っていたことに気が付き、村民を湖の中に入らせ、その船を追うように命じたのを 見て、真っ先に水に飛び込んだ。すると村民達も次々と水に飛び込んだ。文牧はこの プロットを借りて加工し、阿慶嫂が当地の民衆に緊密に頼っていることを描きだした のだった。刁徳一と知恵を戦わす阿慶嫂は胡広興を原型にしたものの、大いに胡広興 の範囲を超過している。
文牧は生活体験で知り合った様々な人の特徴を集中、誇張し、芸術的な手法で概括 し典型化させた。また、この劇の登場人物の名前もなかなか工夫をかけて作られてい る。
第一、最初は阿慶嫂でなく、胡広興の名前から興を取って、阿興嫂と呼んでいた。
しかし中国語の声調では「嫂」は上声で、その前の字が「X」より「Q」であれば、も っと力強く聞こえるため、興「XING」ではなく、慶「QING」にした。
第二、胡司令の名前である胡伝魁だが、「伝」は声調が二声であるため、「魁」が強 調される。それにこの人物がでたらめなことをする根性があるため、「胡」という姓 を付けている。
第三、刁徳一の名前からその狡猾で卑劣な人柄を表現している。