第四章、 革命模範劇『沙家浜』
第二節、 毛沢東と模範劇
現在まで多く模範劇を研究する学者は江青と模範劇の密接な関係を指摘しており、
江青に対して絶対に否定する人もいるし、否定すると同時に江青は模範劇の創作過程 の中で少しは貢献をしたと言う人もいる。しかし、毛沢東と模範劇の関係を話題にす る人はほとんどない。毛沢東は 1942 年の『文芸講話』の中で自分の文学主張を明ら かに述べている。文学は政治に従属しかつ政治に影響することを指摘し、文学創作は 何を書くか、どのように書くかについて規定した。例えば題材の選択、題材に対する 処理、文章の書き方、芸術の風格などである。毛沢東の文芸主張によれば、文芸創作 は必ず労農兵の生活を表現し、先進人物と英雄典型を作ることを重視し、生活の「明 るい面」を描写し、「賛美を主とし」なければならない。模範劇は正に毛沢東のこの文 学主張に迎合するという前提の下で誕生したものである。従って、筆者は毛沢東と模 範劇は必ず密接な関係を持っていると考える。現在までのところで、毛沢東と模範劇 に関する史実的資料には限りがあるが、やはり毛沢東と模範劇の関係を探求して分析 してみよう。
一、毛沢東の文芸政策
毛沢東の文芸政策は全面的にマルクス、エンゲルス、レーニンとスターリンの四人 を真似たもので、この四人の文芸理論の総合体とも言える。この四人の文芸理論と政 策の実行は、毛沢東の文芸思想と政策に対して巨大な影響を与えた。187 マルクスとエ ンゲルスの文芸観点が大雑把に言えば、上部構造に属する芸術は経済土台に対して影 響を発生する産物であるというものである。レーニンの文芸政策の中で最も重要な原 則は「党性原則」であり、その中心的意味は、文芸は必ず共産党の政権の「歯車とボ
187 詳しくは、『馬克思恩格斯論芸術』、『馬克思、恩格斯、列寧、斯大林論文芸』を参照。『馬克思恩格 斯論芸術』、中国社会科学出版社、1960 年。北京大学中文系編、『馬克思、恩格斯、列寧、斯大林論文 芸』、人民文学出版社、1980 年。
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ルト」、つまり「道具」の役割をしなければならない。スターリンは上部構造に属する 芸術は土台に奉仕するものであるため、芸術は新しいことを強固にして古いことを消 滅する闘争の道具だと考えていた。そこでスターリンは「社会主義リアリズム」188の 創作方法を提起し、それはそれからの共産世界の重要な芸術の創作方法になった。
毛沢東はマルクス・レーニン主義と中国の現実的な情況を結合することを提唱して、
更にスターリンの主張を強調した。基礎と上部構造の関係について、毛沢東は『矛盾 論』の中で、「政治文化などの上部構造が経済の土台の発展に障害を与える時、政治 上と文化上の革新が主要な決定的なものになる」189と指摘した。『新民主主義論』の中 では、また「一定の文化(観念形態としての文化)は一定の社会の政治と経済の反映 であり、また社会の政治と経済に必ず大きな影響を与えるものである」190と指摘した。
そこから、「文芸は政治に従属するが、反って政治にも多大な影響を与える」191に発展 した。『文芸講話』は、毛沢東の文芸思想と文芸政策の中で最も代表的な公文書であ る。1943 年 11 月 7 日、中国共産党中央宣伝部は『関于執行党的文芸政策的決定』192 により、『文芸講話』が中国共産党中央の文芸政策になることを確立した。「全党はこ の公文書を研究するべきで、それによって文芸の理論と実際の問題に対して正しい認 識を一致して獲得して、過去の各種の誤った認識を直すようになる。全党の文芸工作 者はこの公文書の指示を研究して実行し……文芸を更に民族と人民の解放事業に奉 仕させるべきである」と指摘した。193
それ以後、文革が終わるまで、『文芸講話』は中国共産党の文芸政策の規範となり、
芸術家全体の創作思想を統一させる最高の指導原則になった。毛沢東が本当の目的は、
文芸を政治に従属させて、次第に文芸の階級意識を確立し、階級闘争を文芸のルート を通じて人民群衆の思想の深い所までに広めて、そこから政治統治の目的に達して、
政権の強固さを守ることであった。
二、毛沢東と京劇
毛沢東は権謀術数の政治家でもあり、意気盛んな詩人であるため、情緒の誇張と表 現を重視する。正にこの二重の身分のゆえに、毛沢東は文芸の方面において文人の気 持ちで文芸の独特な美感と価値を鑑賞し味わい、同時に、政治家の責任によって文芸 の奉仕の機能を求めることになった。
188 北京大学中文系編、『馬克思、恩格斯、列寧、斯大林論文芸』、人民文学出版社、1980 年、247 ペー ジ。具体的な内容は以下の通りである。社会主義リアリズムは、ソビエト文学とソビエト文学批評の基 本的な方法として、作家が現実に対してその革命の発展の中から偽りのない、歴史的、具体的な描写を 行う事を要求するものである。同時に芸術の描写の真実性と歴史の具体性は社会主義精神によって思想 から人民の任務の改造と労働教育を行い結びつけられる。
189 毛沢東、「矛盾論」、『毛沢東選集』第一卷、人民出版社、1991 年、326 ページ、参照。
190 毛沢東、「新民主主義論」、『毛沢東選集』第二卷、人民出版社、663-664 ページ。
191 毛沢東、「在延安文芸座談会上的講話」、『毛沢東選集』第三卷、人民出版社、866 ページ。
192 党の文芸政策の実行について。
193 中央档案館編、「中央宣伝部関于執行党的文芸政策的決定」、『中共中央文件選集』、第十四冊、中共 中央党校出版社、1992 年、107-110 ページ。
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京劇は、毛沢東の余暇生活の中一つ大きい楽しみであった。李銀橋は「西柏坡で三 大戦役を指揮していた時、彼が頭を休める方法は京劇のレコードを聞くことであった。
特に高慶奎の『逍遙津』、言菊朋の『臥龍吊孝』、程硯秋の『荒山泪』である。興が乗 ると、自ら『群英会』を鼻歌で歌うこともある。」と回想している。194過去何回も毛沢 東の警備の仕事を担当した王芳は「京劇を聞くのは毛沢東の最大の楽しみと精神的享 楽である。毛沢東はほとんど京劇の名家の公演を観覧しない、他人の邪魔をするのを ひどく恐れているのだ。彼の身辺の工作人員はいくつかのレコードを手に入れた。当 時のすべての京劇の名家のレコードは、彼のところにあった。毛沢東は京劇を聞くの が好きだから、食事をする時、私達はそれをかけて、彼の頭を少しリラックスさせる。」 と回想で言った。195京劇を聞くのが好きであるのと当時に、毛沢東は京劇に対して比 較的深い研究を行っている。彼自身は「京劇に関して、私は素人で、鑑賞しかできな い」と言ったが、196 実際にこれは彼の謙虚な話であった。毛沢東の英文秘書の林克は
「毛主席は京劇芸術が好きで、京劇の起源、それぞれの流派の特徴、各派の有名な役 者の家柄と上演特色について、よく知っている。更に脚本の歴史の典故をもよく知っ ている」197と言った。研究を深めたのは好きだということから発している。京劇に好 感を持っているので、深い研究を行ったのだ。1958 年 8 月の北戴河中国共産党中央政 治局の拡大会議上で、毛沢東は高慶奎の『逍遙津』を使って仕事の方法を語った。「一 定時期、何件の事しかをやることができないのは、『逍遙津』を歌うのと同時にほか の劇を歌うことができないのと同様だ。」と言った。198上述した内容によって明らかに なるのは、この時の毛沢東の京劇に対する態度は「愛好者」の立場から出発している だけではなくて、「劇を利用して事を言う」(借戯説事)であり、文革の思想はすでに 糸口が現れ始めていた。
結局のところ毛沢東は普通の演劇の観衆、普通の知識人ではなく、党と国家の指導 者であり、政治家である。そのため京劇を鑑賞する時、政治の需要という一面も避け がたく現れてきた。これは、毛沢東の演劇改造の主張、特に演劇の内容の改造という 点に突出して現れた。毛沢東は『文芸講話』199の中で、「過去の時代の文芸形式にてい てもわれわれは決して利用を拒むものではないが、これらの古い形式がわれわれの手 に入った場合には、改造され、新しい内容を付け加えられて、革命の、人民のために 奉仕するものに変わるのである。」200「われわれの要求するものは、政治と芸術との統 一、内容と形式との統一、革命的政治内容と、できるだけ完璧な芸術形式との統一で ある」201と指摘している。政治家としての毛沢東が文芸の内容が現実的な政治に奉仕
194 陳晋、『毛沢東与文芸伝統』、中央文献出版社、1992 年、278 ページ。
195 王芳、「毛沢東愛聴京劇」、『湘潮』、2007 年、第 8 期。
196 毛沢東、『毛沢東文集』第 4 卷、人民出版社、1996 年、325 ページ。
197 林克、『我所知道的毛沢東』、中央文献出版社、2000 年、80 ページ。
198 李鋭、『“大躍進”親暦記』下卷、南方出版社、1999 年、99 ページ。
199 毛沢東、『在延安文芸座談会上的講話』、『毛沢東選集』第三卷、人民出版社、866 ページ。
200 毛沢東著、竹内好訳、『文芸講話』、岩波書店、1956年、22ページ、引用。
201 毛沢東著、竹内好訳、『文芸講話』、岩波書店、1956年、47ページ、引用。