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第四章、 革命模範劇『沙家浜』

第三節、 江青と『沙家浜』

一、江青と模範劇

どのように江青と模範劇の関係を評価するか、これはきわめて敏感な問題で、我々 が模範劇を研究する時にまず出会う回避できない問題である。

江青と模範劇の関係に関して、現在までの研究成果は江青が模範劇の創作成果を略 奪したことを強調している。彼女が模範劇を紅色経典とした実際の貢献を話題にする ものはほとんどない。譚解文の『三十年来是与非――様板戯三十周年祭』213は、江青 の模範劇に対する貢献に言及したが、ただ基本的な判断だけに留まって、史実の上か ら深い分析を行っていない。いくつかの文章は江青が模範劇の創作と上演を自らで指 導したことがあり、創作から伝播と評論に至るまでそれぞれの段階で参画したことを

213 譚解文、「三十年来是与非――様板戯三十周年祭」『文芸理論与批評』、1999 年、第 4 期。

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認めてはいるが、しかしより多く言及したのは江青の模範劇に対する粗暴な干渉であ り、野蛮で気が荒くて横暴で、風変わりで意地の悪くて、敏感で疑い深くて、頑固で 独りよがりで、喜怒常なしの彼女の性格がスタッフに多くの傷害と困惑をもたらした ことを含む。江青の秘書を担当したことがある楊銀禄は「江青は確かに病気があった、

きわめて敏感な人で、感情が非常に細くてもろくて弱くて、このような人は禁忌がと ても多いと思われる」214と指摘している。

模範劇創作に対する江青の貢献は、多くの学者が肯定の見方を持っている。例え ば、『沙家浜』の主要創作者の一員の汪曾祺は「模範劇は江青と関係がなく、江青は 何もしておらず、模範劇は他人が創作したもので、江青はただみんなの労働成果を

『剽窃』したという言い方がある。私はこのような言い方が非科学的だと思ってい る。これは事実に合わない。江青はもとより自分の手で何もしなかったが、しかし 模範劇は確かに彼女が「力を入れて」出てきたものである。彼女の力の入れ方は全 面的、具体的、徹底的で、台本のテーマ選び、場面分け、歌詞の推敲、演出、舞台 芸術、服装から、鉄梅の服の継ぎ、沙婆さんの家の前の柳の木に至るまで、事の大 小を問わず、最後までやり遂げ、期限までに完成させ、お茶を濁したりし、意見に 逆らう事を許さなかった。」215と指摘した。従って、江青がいなければ模範劇も出 て来なかったとも言える。文革期間、主流のマスコミは江青がプロレタリア革命の 文芸旗手だと繰り返し宣伝した。大げさにおだて上げてこびへつらう成分を除き、

江青のリーダーシップの効果を全く排除してはいけない。もちろん、汪曾祺は模範 劇と江青の間にはっきり一線を画して、これを模範劇が再び出現する理由にするこ とにも賛成ではない。この観点について、汪曾祺と王元化216の見方は一致してい る。主要製作者であり、目撃証言者でもある汪曾祺の見方は弁証法的で、適正であ る。彼は事実に基づいて真実を求め江青の模範劇に対する貢献を評価して、その上 模範劇における文革の遺伝子をも見落としていない。徐景賢も『十年一夢』の中 で、「今振り返って見ると、もちろん江青の意見は優れている場所がかなりある。何 と言っても彼女は芸術が分かるから、彼女が演劇の芸術方面で専門家であるのを認 めるべきだ。彼女は京劇も歌えて、また劇の創作をやったこともあり、映画を演じ たこともあるため、いくつかの比較的に的を射た意見を出すことができた……」217 と指摘した。

江青は模範劇の創作について一体どのぐらいの程度役割を果たしたのか。どのよう

214 楊銀禄、「秘書楊銀禄回憶:江青的日常生活方式」『文史精華』、2009 年、第 11 期。

215 汪曾祺、「関于『沙家浜』」『八小時以外』、1992 年、第 6 期。原文「有一种说法:样板戏跟江青没 有什么关系,江青没有做什么,样板戏都是别人搞出来的,江青只是‘剽窃’了大家的劳动成果,我认为 这种说法是不科学的,这不符合事实。江青诚然没有亲自动手做过什么,但是样板戏确实是她‘抓’出来 的。她抓的很全面、很具体、很彻底、从剧本选题、分场、推敲唱词、表导演、舞台艺术、服装、直至铁 梅衣服上的补丁、沙奶奶家门前的柳树,事无巨细,一抓到底,限期完成,不许搪塞违拗」

216 王元化、「論様板戯及其他」、『文匯報』、1988 年 4 月 29 日。

217 徐景賢、『十年一夢』、時代国際出版社、2006 年、337 ページ。

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に江青の芸術観念を評価するか。傅謹『“様板戯現象”平議』218に、とても深く詳しい 陳述がある。彼は「江青が模範劇を通じて、イデオロギーの内包を宣伝したのは、彼 女の見解でも、彼女の創造でもない。江青の芸術観念も彼女の一人で獲得した秘訣で はなくて、かなりの部分において、彼女の芸術観念及び好みは、正に 20 世紀初に流 行った西方の、特に旧ソ連の芸術理論と当時の独特な政治文脈の結合の産物である。

当時のたくさんの政治家と芸術家の言葉の中に、我々は似た理論観念を見つけること ができる。芸術を極端に政治化にさせるのは江青に限らず、当時江青が模範劇の創作 と改作を行うことを支持したのはあれら悪名高い「陰謀家」にとどまらず、毛沢東か らのほとんどすべての中央の高層指導者が含まれる。実は「三突出」も江青の個人の 発明ではなくて、少なくとも数年かけて彼女と于会泳、姚文元などが一緒に創造し、

だんだん整って定型化したものである。京劇の舞台の上で真実の舞台セットを運用し、

演技の上で人物を体験して生活に近づけることを一方的に強調する。これらは京劇の 伝統的な表現手法と矛盾しているため、必ずある程度舞台上の美的観念の混乱をもた らした理念は、更に 20 世紀 30 年代から強い勢いで流行し、「進歩的」とあがめられ た演劇観である。傅謹の観点は、筆者が見るところ江青と模範劇の関係に関する論述 の中で、最も客観的で詳しくはっきりと述べられたものである。

江青は『紀要』中で、「この三年来、社会主義の文化大革命はすでに新しい情勢が現 れて、革命現代京劇の興起はその中の最も際立った代表である。」と指摘した。模範 劇は文化大革命の政治路線の文芸上の実践であるし、文革路線を宣伝する道具である ので、文革思想の遺伝子が自然と付いている。実は、江青が行政の力を運用して全力 を投入して模範劇を指導する前に、模範劇が突破しようとした芸術の難題はすでに演 劇の指導者の議事日程上で言及されていた。

1951 年江青は李進の名前で『武訓傳』調査団に参加した。同行した袁水拍は『人民 日報』文芸部の責任者で、調査団の文芸工作を担当している。調査レポートはとても 長くて、内容は「武訓と同時の現地の農民革命指導者の宋景詩」、「武訓の人柄」、「武 訓学校の性質」、「武訓の高利貸しの搾取」、「武訓の土地の搾取」の五節に分かれてい る。この長いレポートの題名は『武訓歴史問題調査記』で、毛沢東が審査決定の時に つけたものである。1951 年 7 月 27 日から 28 日までの『人民日報』に連載する前に毛 沢東が書き直し添削した。 219明らかに、正に江青が文芸の方面で示した政治の嗅覚 は、毛沢東に江青に対して更に政治的信頼を持たせた。毛沢東は周揚と話した時、「生 活上で江青と私は気が合わないが、政治上にやはり私に助けてくれる。彼女は政治上 にとても鋭い」と言ったことがある。

江青の人格の発展過程から見ると、政治闘争の需要は彼女を一歩一歩、徹頭徹尾「政

218 傅謹、「“様板戯現象”平議」、『大舞台』、2002 年、第 3 期。

219 李家驥、「随江青参加武訓歴史調査」『新聞午報』、2007 年 7 月 7 日。李家驥は毛沢東のボディー ガードを担当したことがある。

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治化された人間」220にした。江青が主席夫人としての特殊な地位にあり、それから解 放軍の文化顧問と全軍文革小組の顧問となって、さらに中央文革小組のメンバーで、

文芸組組長を兼任したことである。彼女は模範劇の創作及びその時の中国文芸の全体 に対してとても大きい影響をもたらした。極限に達した権利に支えられた芸術行為は ほとんど再現できない奇異な現象をもたらした。一方では芸術を完全に政治化して、

「模範劇を行うのは階級闘争を行うことだ」と公言して、プロレタリア独裁の戦略的 措置である。厳しい文化独断の専制主義を実施して、また個人の好き嫌いですべてを 左右した。一方では客観的に全国の最もすぐれた芸術力量を集中させ、すべての必要 経費と代価を惜しまず芸術上の腕に縒りをかけて精細に彫刻するのを求めて保証し たこと。さらに江青は役者出身という芸術専門家の身分で様々な必ず従わなければな らない合理的或いは不合理な意見を出し、京劇というこの伝統的な民族芸術に、文革 の特殊な年代の中で前例のない普及を獲得させ、伝統劇の現代ものの創作という課題 を集中的に試させた。

要するに、筆者は、政治が江青を作り上げ、そして損なったと考える。毛沢東の各 種の暗示、明示は、江青には尖鋭で難しいとは思えなかった。元々感動的な物語は、

あまりに多くの政治的要素を加えすぎて、最後には偽りでどうしたらよいか分からな くなってしまった。党と政府の高級指導者が共同で劇の修正に参与したのは、あまり に滑稽なことだが、それはかつて党の文芸関係者に対する配慮が人を感動させたこと に代表されるように、これは一種の病的な状態であると言わざるを得ない。

二、江青の『談京劇革命』

1964 年 6 月 23 日、江青は『談京劇革命』をテーマとする演説を発表して、正式に

「京劇革命」のスローガンという理論を出した。この文は 1967 年 5 月の雑誌『紅旗』

と全国の各大手新聞雑誌で発表された。

この文はまず京劇革命の必要性を論述した。江青は建国以来、演劇の舞台の上は「す べて皇帝・王様・将軍・首相、才子佳人であり、封建主義のものであり、ブルジョア ジーのものである。このような情況は、我々の経済の土台を保護できず、我々の経済 的土台に対して破壊性効果を発揮することができる。」「劇場は人民を教育する場所で ある」と指摘した。江青のこのような観点は、政治的な教化が演劇の唯一の機能であ ると考えるものだ。これも文革時期の著しい時代的特徴である。伝統的な演劇は教材 であり、劇場は即ち教室である。文革模範劇の多種のテキストの普及と伝播を通じて、

全中国は精神を統治する大きい劇場になった。このため、「革命現代劇」を提唱する のは、その最も重要な任務は「建国十五年来の現実的な生活を反映して、我々の戯曲 の舞台上で現代の革命英雄を作り出す」ことである。即ちプロレタリアの労農兵をブ

220 閻長貴、「江青一九六七年的行止」『党史博覧』、2004 年、第 7 期。原文「1967 年,江青反复说她 是‘政治化了的人’,从她实际的行止和表现看,确确实实像个‘政治化了的人’。江青的生活方式为什么 会有这样的变化?这是一个值得深思的问题」