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第二章、 滬劇『蘆蕩火種』

第一節、 滬劇と上海市人民滬劇団

本節では『上海滬劇志』64、『中国戯曲志・上海卷』65と中国滬劇網66の叙述に基づい て、滬劇と上海市人民滬劇団を見ていきたいと思う。

一、滬劇

滬劇は漢族の地方劇の一種であり、江蘇、浙江、長江デルダの呉語地区の灘簧67に 属する。上海浦東民謡の東郷調から発展し、清末に上海灘簧を形成し、そのうち、蘇 州灘簧の影響を受けた。その後、文明戯(初期の新劇)の公演の形式を採択し、小型 の舞台劇の申曲68に発展した。1927 年以降、申曲は文明戯と時事劇を公演し始めた。

1941 年に上海滬劇社が成立し、上海の略称が滬となったため、申曲は正式に滬劇と改 名した。越劇は上海市当地の特有な劇ではなく、英語で“Shanghai Opera”と称して いるが、実際は上海と浙江省一帯の地方劇のことを指している。滬劇の英語での表現 は“Songhu Opera”になる。香港・マカオ・台湾の海外地区では、滬劇があることを よく知られておらず、“Shanghai Opera”が越劇であることだけを知っている。それ 以外に、滬劇をもう一つの表現の“Huju Opera”で呼んでいる。滬劇には主に長腔長 板、三角板、賦子板の板式69がある。メロディーが優美で、江南の郷土の息吹に富み、

現代生活を表現するのが得意である。優れたレパートリーには『羅漢銭』、『蘆蕩火種』、

『一個明星的遭遇』などがある。2006 年 5 月 20 日、滬劇は国務院の許可を経て、第 一陣国家級非物質文化遺産の名簿に登録された。

1941 年上海滬劇社が成立し、申曲を滬劇に変え始めた。この時期の申曲は新劇と映 画の大きな影響を受け、上海滬劇社が上演した一番目の演劇は改作されたハリウッド 映画『魂断藍橋』70である。それ以後、滬劇は名著、新劇あるいは映画などに基づい て改作した演劇をたくさん上演した。例えば小説は『秋海棠』、『駱駝祥子』、『家』な ど、新劇は『上海屋檐下』、『雷雨』など、映画は『乱世佳人』、『鉄漢嬌娃』、(『ロミオ

64 汪培、陳剣雲、蘭流編集、『上海滬劇志』、上海文化出版社、1999 年。

65 中国戯曲志編輯委員会、『中国戯曲志・上海卷』、中国 ISBN 出版社、1996 年。

66 http://www.chinahuju.com/、アクセス日 2012 年 5 月 12 日。

67 灘簧は曲芸のジャンルの一つである。前灘と後灘に分かれる。前灘は昆劇を取り入れ、昆劇の歌詞 と曲を大衆向きにアレンジしたもので、後灘は民間の花鼓戯を題材にしたものである。役者は 3~11 人

(必ず奇数である)で、役柄ごとに自ら楽器を使いテーブルを囲んで座って歌う。

68 申曲とは、滬劇の別称で、つまり滬劇である。

69 板式とは伝統演劇の音楽のテンポとリズムの形式である。

70 邦題は『哀愁』で、原題は“Waterloo Bridge”である。

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とジュリエット』)などである。

40 年代以降、滬劇は話劇71と映画の影響下で、脚色と演出の制度を築いた。上演で は人物の性格の描写に注意し、歌、演奏、演技の有機的結合を探求した。歌唱芸術の 方面で、個人の歌唱的特徴を最も表現できる長腔長板を主とし、各種の流派が現れた。

そして映画『桃李劫』を『恨海難填』に改作し、上演は成功を獲得し、同年撮影が行 われ演劇の記録フイルムになった。

新中国が成立した後、滬劇は改革と発展の新しい時期に入った。1951 年、上海市文 化局演劇改革事務所は滬劇界の主要な役者を招集して座談会を開催した。滬劇が現代 劇を上演することに対して肯定と支持を与えた。上海の各新聞雑誌も評論を発表し、

滬劇が現代劇を創作し上演することを発展的方向にすべきだと考えた。

1953 年に最初の国家による滬劇の上演団体が成立した。上海人民滬劇団(上海滬劇 院の前身)である。広範な滬劇の役者、脚色演出者、演奏者、舞台美術などのスタッ フが積極的に現代劇を創作し上演し、多くの革命史と現実的な生活を表現するレパー トリーが登場した。例を挙げると、『羅漢銭』、『白毛女』、『星星之火』、『鶏毛飛上天』、

『黄埔怒潮』、『蘆蕩火種』、『紅灯記』、『被唾棄的人』等がある。滬劇の音楽の節回し、

演技のレベル、監督のレベル、舞台美術設計などはすべて新陳代謝の効果を起こすこ とができた。その中の『羅漢銭』、『星星之火』は映画フイルムを撮影が行われ映画フ イルムとなり、影響が比較的大きい。

文革後、滬劇はだんだん活気を取り戻し、有名な滬劇の芸術家が舞台に戻り、芸術 の春が光り輝いた。滬劇の舞台で続々と新人、新しいレパートリーが現れた。例を挙 げると、『金綉娘』、『張志新之死』、『日出』などがある。

『上海滬劇志』と『中国戯曲現代史』72によれば、1982 年上海滬劇院の基礎に上海 滬劇団を成立し、初代院長は丁是娥で、現在の院長は茅善玉である。滬劇は上海地域 文化の典型的な代表であり、異なる側面から近現代の中国大都市の様相と状態を反映 し、成長する過程でとても強い生命力と活力を表した。近年、近代化の加速的な発展 に従い、滬劇の芸術はますます深刻な生存の危機に直面し、上演する市場は日々縮小 し、観衆も減少し、滬劇のスタッフの収入は低く、人材の流失と断層の現象が出現し、

江南地域の元からあった数十の滬劇の上演団体は現在ただ三つだけが残り、力強い措 置による滬劇の芸術の保護と救援は一刻の猶予もなく、やらざるを得なくなった。

二、上海市人民滬劇団

『中国戯曲志・上海卷』と『上海滬劇志』73によれば、上海市人民滬劇団は滬劇の

71 台詞劇に当たる。

72 汪培、陳剣雲、蘭流編集、『上海滬劇志』、上海文化出版社、1999 年、1-3ページ。高義龍、李暁 編集、『中国戯曲現代史』、上海文化出版社、1999 年、138-139 ページ。

73 中国戯曲志編輯委員会、『中国戯曲志・上海卷』、中国 ISBN 出版社、1996 年、518-519 ページ。汪 培、陳剣雲、蘭流編集、『上海滬劇志』、上海文化出版社、1999 年、46 ページ。

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公演団体である。1953 年 2 月に成立した。上芸劇団と中芸劇団を合併して構成し、全 人民所有制である。初代団長は流沢、副団長は解洪元、芸術委員会の主任は邵浜孫、

副主任は丁是娥、石篠英である。1953 年 8 月から年末まで、第 3 期の訪朝慰問団を準 備して参加し、華東総分団第三文工団に編入され、汪培は団長を担当し、解洪元、邱 勝奎は副団長を担当し、『羅漢銭』などの演劇を公演した。1954 年 7 月から 1966 年 6 月まで、新任の副団長の陳蘭栄が仕事を主管した。1956 年から湯重厳、郭清康、陳剣 雲、董源は副団長を歴任した。1955 年 10 月から部隊文工団から復員し、そして高等 芸術学院・芸術大学を卒業する新しい文芸工作者を続々と吸収した。全団は人事、秘 書、総務の三つの係、文学、芸術の二つの組、役者、音楽、舞台美術の三つの隊を設 けた。主要な芸術メンバーは脚本家の文牧、宗華、張幸之、李智雁、白沈、余樹人、

監督の莫凱、藍流、楊文龍、作曲の何樹柏、万智卿、舞台美術の魏征、侯維暢、演奏 者の朱介生、役者の丁是娥、解洪元、石篠英、邵浜孫、篠愛琴、夏福麟、篠恵琴、兪 麟童、楊雲霞などがいる。

1961 年にまた資料研究グループを増設し、理論と史料を研究する管理活動を強化 した。前後して共に百作近くの演劇を創作して演じ、主に現代劇であるが、伝統的な 演劇と新編歴史劇もある。主な作品に『羅漢銭』、『白毛女』、『小二黒結婚』、『王貴と 李香香』、『女児心』、『龍須溝』、『金黛莱』、『雷雨』、『家』、『馬蘭花』、『故郷の戦士』、

『母親』、『演員日記』、『星星之火』、『朶朶紅雲』、『鶏毛飛上天』、『金沙江畔』、『蘆蕩 火種』、『巧遇記』、『駱駝祥子』、『秋海棠』、『反逆の女性』、『大雷雨』、『庵堂相会』、『陶 福増休妻』、『借黄糠』、『借妻堂断』、『楊乃武と小白菜』、『甲午海戦』、『楊三姐告状』

などがある。その中の多くの演劇は第一回全国演劇競演大会、華東地区演劇競演大会 及び上海演劇界青年報告公演大会の公演が創作、上演、出演、音楽、舞台美術などの 奨励を得て、また何度も文化部主催の現代劇の選抜公演に参加した。『羅漢銭』、『星 星之火』は次々と演劇フイルムに撮影され全国で上映された。『蘆蕩火種』は京劇『沙 家浜』に改作された。

1958 年と 1960 年は二度上京して現代劇の公演に参加し、全国現代劇の創作、上演 を堅持する「四面紅旗」の中の一つの称号を獲得した。1960 年、全国文化教育戦線先 進部門に選ばれ、篠愛琴が代表として全国文化教育戦線群英会に出席した。1963 年 12 月、『蘆蕩火種』が中国共産党北京市委員会に招待され、上京して模範を示す公演を 行った。1973 年 1 月、愛華滬劇団と合併して、上海滬劇団が成立した。革命委員会の 主任は殷功普で、副主任は汝金山、韓玉敏、張清である。1978 年 8 月、丁是娥が団長 を担当し、董源、陳剣雲は副団長を担当した。劇団は芸術室、行政の事務室と役者、

音楽、舞台美術の三つのチームを設けた。主要な芸術メンバーは、脚本家の余雍和、

何俊、宋之華、曹静卿、文牧、余樹人、楊文竜、監督の楊文龍、藍流、周中庸、王興 仁、王育、作曲家の万智卿、朱介生、舞台美術設計の潘根才、侯維暢、造型設計の計 麗娟、演奏者の楊妙康、唐仁忠、役者の丁是娥、石篠英、邵浜孫、王盤声、韓玉敏、