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第三章、 京劇『蘆蕩火種』

第三節、 主要な役者

この節では、『蘆蕩火種』の主要な人物を演じた役者たちについて概説する。

一、阿慶嫂を演じた役者

(一)、趙燕侠

趙燕侠は 1928 年、河北に生まれ、京劇の代々伝わる名門の出身である。京劇の巨 匠である荀慧生の指導の下で研鑽を積んだ。「荀派」の女形の役者の芸術の基礎を受 け継ぎ、自身の特徴を結び付け、「趙派」を設立した。彼女は 16 歳の時、京劇『十三

122 汪曾祺、「関于『沙家浜』」『八小時以外』、1992 年、第 6 期。原文「我的想法很简单。一是想把京 剧写的像个京剧。写唱词,要像京剧唱词。京剧唱词基本上是叙述性的,不宜过多的写景、抒情,而且要 通俗」

123 文化大革命中に、「牛鬼蛇神」と呼んで批判した人々を押し込めた場所である。

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妹』、『大英潔烈』と『翠屏山』の三つの演劇によって有名になった。そして上海天蟾 舞台に多額の報酬で招かれた。1947 年、19 歳の趙燕侠は「燕鳴社」を設立し、北京、

天津、上海などの公演で主役を担当した。新中国成立後、「燕鳴社」は「燕鳴京劇団」

となった。1960 年に北京京劇団に入り、彼女は数回、馬連良、譚富英、裘盛戎などの 芸術家と共演した。

1995 年、関連する機関が趙燕侠のために「趙燕侠舞台生活六十周年」の祝賀活動を 開催した。124趙燕侠は北京工人クラブで『壁波仙子』、『玉堂春』、『紅梅閣』、『白蛇伝』

の四つの重要な演劇を続けて演じた。当時彼女は、すでにほぼ 70 歳であったが、深 い芸術的技能を持ち、ミニマイクを使わずに、劇場の後列と 2 階から上に座っている 観客にもはっきり聞こえるように演じて、人々を感心させた。陸定一はかつて 1982 年 に彼女の『燕舞梨園--趙燕侠舞台生涯』という本の前書きで、「梨園世家女,苦練芸 超人。義侠十三妹,冤獄玉堂春。此身无媚骨,不屑伍奸囂。塑造阿慶嫂,京劇天地新」

という詩を書いた。これもまさに趙燕侠本人の人格と芸術の鮮やかな描写である。

趙燕侠の阿慶嫂に対する描写は成功している。彼女は自叙伝の中で、阿慶嫂に対す る描写について、125「劇中の阿慶嫂は中国共産党の地下党員で、この人物の本質は強 靱、機転、果断である。彼女の表の身分は茶館の女将で、人物の外在的表現は敏捷、

周到、果敢である。最初に、役を作る方法は伝統と役柄によって、昔から身について いた「花旦」126の多くの仕草を運用したが、人物の思想と感情に対して探求するのが 足りず、表現が軽くなってしまった。その後、市委員会の指導者の指示と手配のおか げで、劇団に随行して部隊を訪れ生活を体験し、多くの収穫を得た。戦士たちはお互 い非常に深く敬愛しているが、口頭ではあまりそれを表さないことに気づいた。ある 戦士は他人に善行を行っても、 何も言わずに、自分で何もしなかったように振る舞 う。これは阿慶嫂を連想させた。すべての動きは茶館の女将であるが、敵に応対する 時はまるで渡世人のようなしぐさである。しかし、内心では彼女は敵を嫌い、常に負 傷兵を救出する機会を探している。当時、私は比較的正確に阿慶嫂の精神状態を把握 し、こういう人物の性格と生活を表すのに適した京劇の伝統手法を選び、四、五ケ月 間リハーサルを繰り返し、徐々に、この革命の英雄像を比較的正確に描くことができ るようになった」と記述している。

ちょうど趙燕侠が政治の上で絶えず進歩を求め、芸術の上で絶えず突破を求めてい る時、文化大革命が始まった。趙燕侠は江青を不快にさせたため、1966 年 11 月 28 日 に首都文芸界万人大会において、名指しで批評された。「現行反革命」、「戯霸」(戯劇 界のボス)と批判され、「独裁の対象」になった。趙燕侠がほぼ 10 年間、舞台を離れ るように強制された。『沙家浜』のカラーフイルムが撮影される時、趙燕侠はすでに 上演の権利を剥奪されていた。これは戯曲界でも、映画界でもすべてにおいて残念な

124 劉建国、「趙燕侠的坎坷芸術人生」『中国戯劇』、2010 年、第 11 期。

125 許晨、『人生大舞台:“様板戯”内部新聞』、黄河出版社、1990 年、147-148 ページ。

126 女形。活発な若い女性の役。

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ことであった。

(二)劉秀栄

劉秀栄は 1935 年に生まれで、北京人である。旧名は維蔓である。1947 年、北平四 維戯劇学校に入り、1949 年に中国戯曲学校に転校した。1956 年に卒業後、中国戯曲 学校実験京劇団に配属された。1967 年、北京京劇団に転勤し、京劇団が京劇院になっ た後、中国京劇院三団の主役になった。1980 年、中国共産党に入り、かつて中国劇協 第三回の理事を担当したことがある。劉秀栄は 1950 年代初頭から王瑶卿の恩恵と教 訓を受けるのが最も多く、「王派」の中で舞台芸術が最高の靑年の後継者と認識され た。彼女はまじめな「王派」芸術を継承する上で、更に多くの新しいキャラクターを 作成し、『破洪州』、『金鎖恩仇』、『沈海記』と現代劇『四川白毛女』、『沙家浜』などの 劇中で多くの革新を行った。彼女はまた革新の精神が富んでおり、そして他人の長所 を広く吸収することに注意を払っていた。蕭長華から『拾玉鐲』、『大英傑烈』を学び、

尚小雲から『失子驚瘋』を学び、兪振飛、言慧珠から『百花贈剣』、『奇双会』を学び、

そして「梅派」劇の『覇王別姫』、『貴妃醉酒』などを上演した。1952 年の第一回全国 戯曲競演大会上において、『白蛇伝』で俳優賞を受賞した。1957 年の第六回世界青年 芸術節で、『春郊試馬』により金メダルを獲得した。

江青は早くから趙燕侠に不満を持っていた。京劇『沙家浜』の修正が始まったばか りのとき、1963 年の京劇演劇記録フイルム『穆桂英大戦洪州』の中で才能を発揮した 新鋭の劉秀栄を気に入り、当時、中国戯曲学校の教師だった劉秀栄を北京京劇団に異 動させ、阿慶嫂の B 役にした。趙燕侠と交代した後、彼女は代わりに阿慶嫂を演じた。

しかし、劉秀栄は文革運動の中で、趙燕侠と同じグループの「革命造反派」のレッテ ルを貼られ、「黒尖子」(黒いエリート)、「毒苗子」(毒の芽)として衝撃を受けた。同 じく阿慶嫂の役者の地位から外された。

(三)、洪雪飛

洪雪飛(1942-1994)は、上海で生まれ、杭州で育った。1958 年、北方昆曲劇院に 入り、正旦127を学んだ。韓世昌、白雲生、馬祥麟などの指導の下で研鑽を積んだ。後 に姚伝薌、周伝瑛から指導を受けた。その後、新編演劇『晴雯』の中の襲人という役 によって才能を発揮した。1966 年、北京京劇団にレンタル移籍し、京劇を歌うように なった。文革が終わってからは再び北方昆曲劇院に戻った。1984 年、中国共産党に入 り、第四回全国人大代表だった。1985 年『長生殿』、『三夫人』によって第二界全国戯 曲梅花賞を獲得した。

趙燕侠と劉秀栄が次々と阿慶嫂を演じる資格を取り消された後、北京京劇団の旦角 の俳優の中には適切な候補者がいなかった。それから、何度も調査し、ついに北方昆

127 伝統劇の主役の女形。

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曲劇団の若手の役者である洪雪飛を発掘した。そして 1967 年から、洪雪飛が阿慶嫂 を演じるようになった。128洪雪飛は阿慶嫂を演じることで頭角をあらわした若手の役 者であるため、個人の資格においても舞台上演の経験においても、もちろん趙燕侠、

劉秀栄より格下である。しかし彼女は真面目に学び、昆曲と京劇に精通するようにな り、京劇団に出向した後に重要視された。洪雪飛は自らの独特な高くてよく響く声に よって、徐々に江青と製作グループに認められていった。その後、この劇がカラー演 劇記録フイルムで撮影されると、全国の観衆は繰り返し上映された模範劇フイルム

『沙家浜』を通して、洪雪飛が演じた阿慶嫂を認識し彼女を熟知する様になった。洪 雪飛は阿慶嫂の腕力、果断、知恵に溢れ、巧みに応対する女将のイメージを、絶妙で、

最高の水準によって上演した。その優れた演技は観衆の好評と喝采を獲得した。

20 世紀の 80 年代後期に入り、十数年間消えていた八つの模範劇は、また復活した。

『沙家浜』は人々によく知られている劇の物語で、「紅色経典」の一つと言われた。元 の現代京劇の形式で、再び多くの人々の情熱の記憶を呼び起こし、そして劇の中の多 く伝わり衰えることのない有名な段落は、観衆に好感と歓迎を以て深く受け入れられ た。洪雪飛は阿慶嫂の役で有名になり、この人物像は文革期に多くの庶民の家に入り、

有名な演劇俳優となった。よって、模範劇が復活した現代において、洪雪飛もよく各 種の文芸公演に招待され、彼女の「智闘」はもう何回も歌われているが、観客は何度 聞いても飽きないのである。残念なのは、洪雪飛が 1994 年 9 月 14 日に新疆のカラマ イ油田へ公演に行く途中、交通事故に遭い亡くなったことである。当時、全国の大メ ディアはそれぞれ重点的に報道を行い、ほとんどすべてのタイトルは「阿慶嫂洪雪飛」

であり、多くの人たちがこの特殊な年代における有名な演劇の役者に対し深い同情と 懐かしむ気持ちを喚起させたのであった。

二、郭建光を演じた役者

高宝賢(1927-2004)、高宝賢は郭建光を最初に演じた役者であった。建国前に、高 宝賢は「譚派」の創始者である譚富英の劇団に参加し、1954 年馬長礼と同日に正式に 譚富英を師にし、第一の弟子になった。20 年余り、ずっと先生の側に従って、「譚派」

の秘伝をもらった。その後、役割の必要性のために、譚元寿は高宝賢に取って代わり、

郭建光を演じ始めた。

譚元寿は 1928 年に生まれで、北京人、梨園の名門の出身である。曽祖父である譚 鑫培は京劇老生譚派の創始者であり、祖父の譚小培、父親の譚富英はいずれも譚派を 継承した。長男は譚孝曾で、譚孝曾の息子の譚正岩はすでに譚派を継承し、唯一無二 の七世代の梨園の名門である。戯曲界で、譚家はまたとない伝奇である。譚元寿は譚

128 1966 年 2 月、北方昆劇院は取り消され、一部の若手の役者は「模範団」としての北京京劇団を充 実させ、そこには役者(洪雪飛が上演した舞台版『沙家浜』のプログラムの中に北方昆劇院の 8 人の役 者がいる)以外に、また楽団、舞台と行政の管理人員を含む。北方昆劇院の HP を参照。

http://www.beikun.com/home.php(アクセス日:2011 年 6 月 9 日)