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27頁 。

ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 82-86)

(花野敏 彦訳『 南洋 華人

 

国を求めて』、サイマル出版会、1987年)、 272頁。

*4 1998年

8月に行われた国民教育展で、過去の

3大

障害 として この

3点

が強調されてい た。国民教育展 については、Nttbnal Hcjtagc Board ed。 ,Siκgηο「力 ″ッ ルわ‖

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4

Landmark Books,1998.に詳 しい。

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るものであるが、それ らの著者は、華人、 とりわけ華語教育を受けた者であ り、南洋大学 に対 しての思い入れはひ ときわであると考えられる。そのため、南洋大学の名声を守るた めにも、そ して創設者である陳六使の輝か しい経歴、人々か ら慕われ尊敬 される人柄、そ して慈善家 というイメージにマイナスの影響を与えないためにも、陳六使が公民権を剥奪 されることになつた詳 しい経緯が削除されることになつたのではないか と考え られる。

次に、第

3節

では、従来か ら明確であつた講派主義か ら、講派の超越 という動 きが生 じ ていることを、華人企業家の南洋大学設立に対する対応、丹戎円倶楽部 を舞台に した、帯 を超えた華人企業家の交流や慈善活動等か ら考察 したが、筆者が 目に した数多 くの中国語 資料及び

1950年

代 に南洋大学学生であつた華人への間き取 りか ら、活動内容や寄付金な

どの額 には多少の差はあるものの、第

3節

にて述べた内容 と相違ない結果が得 られた。

その中で、華聯銀行総裁で潮州譜の指導者であ つた連涼洲の態度 について、留意するベ き点が存在するため、ここに説明を付け加えてお く。多 くの資料では、連湿洲は、陳六使 の提唱 した大学設立に賛 同の意を表明 しているだけではな く、学長獲得の際には米国まで 赴 き、林語堂に対 して説得工作に当たつているように、陳六使 と同様に南洋大学のために 貢献 した慈善家 として描かれてい る。また、彼は陳六使の丹戎呂倶楽部の会員にもなつて お り、陳六使 とは個人的にも交流が深い という記述 も多い。

しか し、陳六使 と連減洲の関係 について、米国の政治学者ルシア ン・W・ パイは、「南 洋大学がシンガポールの華語系大学 として設立された時、裕福な ビジネスマンが集まつた 場所で、主要な財源の入札が行われ、陳六使が落札者 とな り、彼は後に南洋大学の出資者 として有名にな りました。 ところが、落札 に失敗 した者は屈辱感 を味わい、お情けほどの 寄付 を したに過 ぎませんで した。その中に連続洲がいたのですが、彼は後 にシンガポール 政府 に圧力をかけ、南洋大学を廃止するようにと主張 し、復讐 を図つたのです。」Чと述 べている。実際に、陳六使の寄付は5,000,000ド ルで、連涼洲は 200,000ド ルであつたが、

この寄付金の差に対 して、ルシアン・W。 パイのいうような理 由が記載されている資料は、

筆者の知るところ他 には存在 していない。

一方、『 黄祖耀侍』によると、

1980年

に、 リー・クアンユーがシンガポール大学 と南洋 大学の連合大学構想を打ち上げた際に、南洋大学理事会主席であつた黄祖ll・7をは じめ とす る理事に建議 を求めたが、当初、黄祖耀は南洋大学を存続 させ ることを前提 として、南洋 大学に米国式のカ リキュラムを導入 し、米国の大学 と連携させ る方法、或いはシンガポー ル大学 と共に、学科を分配する等の方法で双方が補い合える関係 と築 くとい う方法による、

2つ

の案を提示 し、それが不可能であれば、両校 を合併 させることとを申 し入れた。その 際に、南洋大学の理事である林継民 と連続洲は、それぞれ黄祖耀の第

1案

と第

2案

を推 し てお り、その後 リー・クアンユーが、連続洲宛の書簡の中で、南洋理工大学の設立を計画

し、南洋の名前を残すということを約束 している。中2

*l Lucian Un市ersity:

頁 。)

*2鄭

明杉

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ス ね 別 ク,HarVard

Press,1985.(園

田茂人訳『エイジアン・パワー⑤』 、大修館書店、

1995年

325

『 黄祖耀伝』、名流出版社、香港、1997年 、

151‑157頁

‑77‐

また、連減洲の 自伝の中で、「陳六使は、南洋大学に量を求め、当初は

300人

の学生を 入学させようとしたが、林博士 (林語堂

)は

、質 を重視 し、最初は 100人 の入学者を受け 入れて徐 々に増や してい くとい う考えを持ち、両者は対立 した。・・・・林博士が去つた 後、私 は全力を

1963年

に設立 したニーアン・ポ リテクニ ック (義安学院

)へ

移すように

なっていつた。」 と述べている。Ч

また、新聞記者で歴史研究家の韓 山元は、「南洋大学設 立時にも、帯派主義は実際の ところ残 つてお り、陳六使 をは じめ とする福建講の活躍 に対 抗する形で、当初は協力 していた連温洲 をは じめ とする潮州帯のグループが、途中で一転

して、ニーアン・ポ リテクニ ックの方へ力を移 していつた。」 と述べている。つ

連続洲の 自伝や、『 黄祖耀伝』 における記載が事実であ るな ら、ルシアン。W・ パイの 記載のように、連続洲が南洋大学を廃止するために、政府に圧力をかけて陳六使 に復讐 を 図つたとい うことは考えに くい。また、これ らの記載や聞き取 りを総合すると、実際には、

潮州帯の連続洲は、講派の関係か ら、福建帯の陳六使 に対 して、ライバル的な感情を有 し ていたのではないか と考えられる。 しか し、 この推測が事実であるとしても、階層を超 え た貧乏人か ら億万長者 までが 1つ の目標 に向かつて、夢 を実現に したという「 南大精神」

が、残すべ き歴史事実 として語 り継がれている昨今、到底それに水を差すようなことはで きない として、「討派の確執」 というその事実が、多 くの歴史資料か ら削除 されることに なつたのではないか とも考え られる。

3点

目は、本章全体 にわたつて、華人社会では、時局の流れか ら華文大学の設立が必要 とされ、華語教育 を受けた華人社会の指導者達は団結 して目標 に向かつていた ということ を強調 したが、筆者が知 るほ とん どの資料 において、 この類の記載が多 く、聞 き取 りを行 ってい く上で も、実際にそうであつた と回想する宗郷会館の指導者 も多かつた。 しか し、

これは華語教育 を受けた大多数の華人か ら構成 される華人社会か らの見解 であ るに過 ぎ ず、実際の状況 とずれがあるのではないか という疑間が、 リー・クアンユーの記述によつ て浮上する。

リー・クア ンユーは

1950年

代 を振 り返つて「華校の董事を務める宗郷会館の指導者で あつても、 自分の子弟 を英校へ通わせていた。こういつた英校は午後には華文クラスを設 けているため、子供はバイ リンガルになる。 しか し、彼 らはそれでも、華校では優秀な伝 統文化が学べ るとして、他人には子弟を華校へ通わせるように勧めるのであつた。」

3と

、 当時の一部の宗郷会館指導者の態度を批判 しているように、 この時期、華人社会の指導者 であつても、皆が一丸 となつて 目標 に向かつて進んでいた華人社会か ら逸脱 した指導者 も 事実存在 していた。この リー・ クアンユーの記述は、多 くの文献の記載 にある内容に水 を 差す形 となっている。

以上、「南洋大学に関係する出来事」の見解 における矛盾な点 を

4例

述べたが、全ての 事例 に共通することは、華語教育を受けた大多数の華人側か らの見解 と、英語教育を受け

*l Lien Yin Chow wih Louis Kraar,F′ ο″ωι Иttgarわ Sれ gttο ″ιル εο

"― 切 ノ′権 Sわり,

Tilnes,1992,p.232.

*2筆

者の、韓山元への間き取 りによる。(1999年)

*3李

光耀『 李光耀回憶録 1923・ 1965』、新加岐聯合早報、1998年 、246頁。

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たエ リー トである指導者側か らの見解の相違か ら、「事実」 と考え られるものに矛盾が生 じていることである。それは、当時書かれた記述はもとよ り、後 になって書かれた書籍や 論文であつても、多かれ少なかれ、その どち らかのグループに対 しての感情輸入が存在す るため、上述のような矛盾が発生するのであろうと考え られる。 また、 この矛盾は、この 時期 における「政府」対「華人社会」の関係 を明確に表 しているといえる。

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ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 82-86)