• 検索結果がありません。

華人 企業家・陳嘉庚から みた 華人 社会

ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 38-42)

‑2グ ー

第 4節   華人 企業家・陳嘉庚から みた 華人 社会

本節 では、 この時期華 人社会 に大 きな影響 を与 えた、華人企業 家陳嘉庚 のあ り方か ら華 人社会 を考察 す る。陳嘉庚 は、

1874年

、 中国福 建省 同安 県集美社 (現度 門市集美鎮

)の

漁村 に生 まれ る。 この地域 は貧 し く、特 にアヘ ン戦争以 降、多 くの住 民が南 洋やアメ リカ 大 陸 に労働者 と して渡 つていつたが、陳嘉庚 の曾 祖 父陳時賜 もその内の1人で、アヘ ン戦 争 以前 にマ ラヤ に渡 り定住 し、陳嘉庚 の祖 父であ る陳管 集や、 父 の陳杞柏 も追 つて南洋で 労働 に従事 した。陳嘉庚 は

9歳

で故郷 の私塾で勉学 した際 に、明朝末期 にこの地が反清運 動 の民族英雄で あ る鄭成 功の活動基地で あ つた こ とを知 り、鄭成 功 の愛国活動 に非常 に大 きな影響 を受けた。

17歳

にな つた陳嘉庚 は、 シンガポール に渡 り、父の経営す る順 安号米穀店 にて父か ら 経 営 を学 んだ後、

20歳

で帰郷 して結婚、

2年

間再び私 塾で学 んだ後 、

22歳

で シ ンガポー ル に戻 つた。

1905年

に順 安号が停業 したため、陳嘉庚 は 自ら郊外 に新利 川パ イナ ップル 缶詰工場 を建設 し、 同 じ くパイナ ップル缶詰工場 を所有 す る 日新 公 司の経営 を も受け継 い だ。そ して、この

2工

場の経営 が軌道 に乗 つた同年 に、謙益号米穀 店 を増 設 した。その後、

陳嘉庚 は、 シ ンガポール の陳斉賢や林 文慶 がゴム業で 巨額 の利益 を上 げてい るの を知 り、

所 有 す るパ イナ ップル園 にゴムを植樹 し、 ゴム栽培業 に着手 す る ようにな つた。そ して、

1925年

には、陳嘉庚の所有す るゴム園は 15,000ヘ クタール に拡大 し、華人の中では最大 の ゴム園経営者の1人と成 り上 が つた。

陳嘉庚 は ゴム園、 ゴムエ場、 ゴム製 品製 造工場 の

3大

事業 以外 に、 自分 の製 品を世 に売 り出す ため に、パ イナ ップル缶詰、米穀 、石鹸、製薬、製菓、皮 革、木材 とい つた方面 に も着手 して い つた。それ らの製 品の販 売店 であ る「 陳嘉庚公 司」 は、 シ ンガポールだけで は な く、東南ア ジアの各大都市、香港、 上海、度 門、広 州 にまで進 出 し、製 品は欧米 にま で流通す るようになった。 とりわ け、1923年か ら1925年は陳嘉庚 の経営が最 も順調であ った時の

3年

間で 10,070,000ド ルの利益 を上 げ、15,000,000ド ル余 りの資産、数万人に及 ぶ従業 員 を所有 していた。中3

また、陳嘉庚 は

1913年

に、故郷 の祖祠 に小学校 を設立 した。 当時の福建省は全体的に

*l  Cheng Lim Keak, Social Change and the Chinese in Singapore, Singapore UInversity Press, 1985,p39.

*2 Cheng Lim Keak, "Re■ ection on the Changlng Roles of Chincse Clan Assodations in Singaporc",As,α κ働 ′″κIイ,April 1990,p61.

*3 

陳民「 陳嘉庚 :華僑旗 職、民族光輝 」、庄 炎林編『 世界華人精 英博略

 

新加岐与馬来 西亜巻』、百花洲文芸 出版社、1995年 、55¨57頁。

32‑

教育の普及が遅れてお り、教師 も不足 していたため、

1918年

には、師範学校、 中学校、

付属の男女各小学校、幼稚園を設立 し、続 く1919年 か ら 1921年 にかけて も水産航海学校 と商業学校 を設立 し、1925年か ら1932年には農林学校、国学専科、幼稚師範等の学校 を 設立する等、各種の学校 を故郷の集美に次々と設立 していつた。 また、科学館、図書館、

医院も建設 し、集美は巨大な学園都市 と化 した。

これ ら一連の学校設立の過程の中で、最 も大事業であつたのが、

1919年

の福建省で最 初の大学である度 門大学の設立であつた。集美の小中学校の設立 と同様 に、大学設立も全 て陳嘉庚の 自費によるものであ り、大学設立にかかつた合計4,000,000ド ルは、

12年

に分 割 して支払われることになつた。陳嘉庚は大学設立費用 を提供 しただけではな く、 自らが 校舎の設計に関わ り、施工の様子を検査 し、各地 を奔走 して学長や教師を物色 した。陳嘉 庚は、 この他 にも同安教育委員会 を組織 し、同安県下の

30余

りの学校に寄付を行 つただ けではな く、彼が設立 した集美学校に教育推進部 を設置 した り、福建省のその他の数県に 模範小学校 を設立 した。・

陳嘉庚は、中国だけではな くシンガポールで も教育事業へ大 きな貢献を行つている。先 述のように、1919年 以前、シンガポールには、完全な形の中等教育機関がなかつたため、

1919年 に、陳嘉庚の先導により、南洋華僑の最高学府 として南洋華僑中学が設立された。

それまで、主に訂 を中心 としたグループによる学校の設立が多 く見 られたが、南洋華僑 中 学は、陳嘉庚の福建講だけではな く、講 を超越 した多 くの華人企業家か らの支持を得て設 立された。 この点か ら見て も、陳嘉庚の華人社会 における影響力の大 きさが理解できる。

1937年

に芦溝橋事件が勃発すると、南洋華人たちは積極的に抗 日救国運動に参加 し、

南洋各地で「筆肱会」が組織された。南洋各地は英植民地であつたため、抗 日救国運動 も 制限 を受けていたため、嗜 慾救 済難民」の名称 を使用せ ざるを得なかつたが、 こういつ た南洋各地の募金運動を統一 し、祖国の抗戦の支援 を強化するために、

1938年

に、「南洋 華僑筆坂祖国難民総会」(略 して「南僑総会」

)が

正式に設立 し、陳嘉庚がその主席 を務 めた。南洋の華人は「南僑総会」を通 して、中国のために討派を超えて一致団結 し、募金 活動を展開 した。この募金活動によ り、1941年 に太平洋戦争が勃発するまでの

4年

半で、

5,000,000,000ド ル余 りの資金が集ま り、中国の抗 日運動に大きな貢献を行 つた。中2こ のよ うに、南洋華人が団結 して、 これだけの資金 を獲得できるようになったのも、陳嘉庚の先 導 による影響が大 きい といえ、 この運動を通 して、南洋華人の中の中国へのナショナル・

アイデ ンテ イテ イが更に強化 されてい くこととなつた。

1941年 12月、太平洋戦争が勃発市、 日本軍か南洋各地に侵略の手を伸ばすようになる と、陳嘉庚は、更に「新加岐華僑抗敵動員総会」 を組織 し、その主席を務め、積極的に華 人の抗 日運動への参加を呼びかけ、これにより陳嘉庚はシンガポール及びマラヤの最高指

*1 

陳民

西亜巻』、

*2 

陳民

西亜巻』、

「陳嘉庚 :華僑旗職、民族光輝」、庄炎林編『 世界華人精英博略

 

新加岐与馬来 百花洲文芸出版社、1995年 、57‑58頁 。

「陳嘉庚 :華 僑旗峨、民族光輝」、庄炎林編『 世界華人精英侍略

 

新加岐与馬来 百花洲文芸出版社、1995年 、62‑63頁 。

‑33‑

導者 としての名を不動のもの とすることとなつた。

"こ

の陳嘉庚の抗 日運動、教育事業、

慈善活動におけるひたむ きな生 き様、 自己の損失を顧みない貢献の精神、多 くの華人か ら 慕われ尊敬 されていた人間性が、華人の良 き伝統文化 として、1997年及び 1999年には ド

ラマで も取 り上げ られるようになつている。中2

日本統治時期 には、陳嘉庚はジヤワに逃れ、

3年

余 りの逃亡生活を送つた後、1945年 10 月にシンガポールに戻 ることとなる。逃亡生活を送つてはいたものの、シンガポールに戻 つた陳嘉庚は、中華総商会主催の盛大な歓迎会 を受ける。その歓迎会 には、中国国民党駐 シンガポール直属支部、マラヤ共産党星洲市委員会 といつた政治組織や、

500余

りの会館 組織か ら合計 10,000人 余 りが参加する大規模 なものであつた。 この点か ら、陳嘉庚は華 人社会 において、非常に大 きな権力を持つ、いわばカ リスマのような存在であつたとい う

ことがで きる。中3

その後、陳嘉庚は中国政治に傾倒 し、親共反蒋の態度を採 るようになつた。そ して、国 民党政府及び蒋介石 に対 して、悪意のある言動をとり続けたため、華人社会 もそれによ り 親共派 と親蒋派に分かれて、分裂する勢いを見せ るようになつた。例えば、従来 中国の双 十節 の行事は、 中華総商会 によって執 り行われていたが、

1946年

か らは、中華総商会の 右派系会員が主催する「 シンガポール華僑慶祝双十節大会」に反対 して、左派系会員が「 シ ンガポール華僑慶祝国慶大会」を主催 し、中華総商会 においても分裂が見 られるようにな つた。

1948年

6月以降、中国共産党は次第 に優勢 を見せ、陳嘉庚はその勝利 に確信 を持 ち、その態度はますます強硬 になつていつた といわれている。

その頃、陳嘉庚は、シンガポール華人社会 において、なおも非常に大 きな影響力を維持 してお り、その影響力は、商業界、知識人、新聞界、政界等 といつた組織に及 んでいただ けではな く、福建会館を通 して、陳嘉庚の影響力は 300,000人 の福建系華人の

80%に

も 及んでいた。陳嘉庚は、1929年よ り彼 が中国に渡る 1949年までの約

20年

間、福建会館

の主席の地位 に就いていたが、特 に戦後初期の頃の執行委員の大半は、陳嘉庚の支持者 に よつて占め られていた。その中には、黄尖歓、劉牡丹、李鉄民、李光前、陳六使、孫畑炎 といつた華人企業家が含 まれてお り、金 門会館の鄭古悦、章州会館の李振殿、安渓会館の 林慶年、晋江会館の洪宝植 といつた福建帯の国民党支持者 と対立 していた。

福建会館以外 に、陳嘉庚 と関係の深かつた会館組織に、恰和軒倶楽部 と中華総商会があ る。恰和軒倶楽部は、稲派を超越 した華人企業家の社交クラブであ り、

1923年

に陳嘉庚 が総理を務めて以来、その会員100人余 りに対 して も絶大な影響力を有 していた。戦後、

*1 

陳民「陳嘉庚 :華 僑旗峨、民族光輝」、庄炎林編『 世界華人精英博略

 

新加岐与馬来 西亜巻』、百花洲文芸出版社、1995年 、66頁。

*2 

筆者の、1997年 におけるシンガポール・テ レビ機構

(TCS)の

8(華

)チ

ヤンネ

ルの連続 ドラマ『 平和の価値 (和平的代価、Pr,cι

&

ι)』 の視聴による。1999年 には 同チヤンネルで、陳嘉庚、李光前、陳六使 といつた華人企業家の生涯が描かれた、連続 ド ラマ『 出路』力S放映される予定 になっている。

*3桂

貴強『 新馬華人国家認同的転向 1945‑1959』 、南洋学会、1990年 、131頁 。

*4桂

貴強『 新馬華人国家認同的転向 1945‑1959』、南洋学会、1990年 、134頁 。

‑34

ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 38-42)