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独立 後の国家 統合政策と 「想像の共同体」

ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 86-93)

第 5章   ポスト 植民地時期に おける 華人社会 (1965・ 1985)

第 1節   独立 後の国家 統合政策と 「想像の共同体」

態が漂つてお り、人民行動党政府 にとつて、この外交問題 と民族問題は即座に解決 しなけ ればいけない課題であつた。

そ して、それ らの問題 を解決させるため、まず国民統合をはか り、「 シンガポール国民」

としてのアイデンテ イテ イを国民に持たせることで、共産主義 と誤解 されやすい「華人の 民族色」を押 さえるような国家に作 りあげようとした。そ して、各民族の文化や価値観 を 平等に扱いなが ら、「国歌」にh Nttional Adheum)、 「国旗」(■c Nttional Flag)、「 国章」

(The National Cott of Arms)を 制定 し、国家のシンボル となるもの と創 り出 していつた。

それ らは、それぞれの民族 に受け入れ られるような ものでなければな らず、「 国旗」は、

普遍的な兄弟愛 と人類の平等を表す赤色 と、純血 と徳 を意味する自の

2色

地の上に、民主 主義、平和、進歩、正義、平等を示す5つの星、永遠の若さを示す三 日月がデザインされ、

「 国章」は、シンガポールを象徴 してきたライオ ンと、マラヤ連邦の肩章にも使われてい る トラによって図案化 され、国歌の歌詞 にも採用 されている「Mttulah singapura(前 進、

シンガポール)」 の文字が刻み込 まれている。「 国歌」は、 シンガポール在住 のイン ドネ シア人作曲家ズ ビル・サイ ド(Zubir Said)が 作曲 したものが採用 された。・

それは、「 国民は 〔イメージとして心の中に〕想像 されたものである」中2と

B.ァ

ンダ ー ソンにいわれるように、 シンガポールに居住する人々に、「国歌」、「 国旗」、「 国章」に 触れる度に、実に効果的に、 自分がシンガポール国民であると自覚させ るだけではな く、

今後会 うことも知 ることもないであろう、多数の「 シンガポール国民」であるその他同胞 の存在を想像 させ ることになつたのである。

続けて、種族 と宗教の融和、団結 と協調が織 り込 まれた「 国民の宣誓の言葉」(Pledge t。

the Nttion)中3及

び「国民の共通価値観」(Our Shared Values)も 制定 され、1981年 には、1893 年 にシ ンガポール で発見 され た ヴアンダ 。ジ ヨア キム とい う蘭 の花 が「 国花 」

h

Nttional Flower)に 制定 された。中4

また、英語教育 を受けたエ リー トが主体である人民行動党政府は、独立前か ら、華人、

マ レー人、イン ド人のどの民族 にとつても、本来の母語でない中立的言語である英語によ つて民族間の意志の疎通 をはかることを考えてお り、それによつて更に国民統合を推 し進 めていつた。これは、かつてマ レーシア併合 を順調 に行 うために、事前に「 マ レーシア計 画」を実行 して、 シンガポールの全民族にマレー語等 を強要 し、一部の華人グループか ら 大反発を買つたことによる教訓 と、 リー・ クアンユー 自身の理想である民族平等主義を実

*l Lce Khoon Choy,¶ にPersonoa1 0dyssey of a Nanyang Chinese,In Search of a Nation, 1987.(花 野敏彦『 南洋華人

 

国を求めて』、サイマル出版会、

1987年 )290‑293頁

。 リー

・ クンチ ョイによると、当初は「国旗」を幸福 と繁栄を意味する赤地のみにするという案 があったが、当時は共産主義 と誤解 されかねない として不採用 となったという。

*2 Benedid Andclson,  レ αgjκ (% κj″ 睦 iCCガ ο浴

"滋

ι Orjgi″ α″′SP′ια′ げ

M""α

′お″,Revised Edtion,Verso Editions,and NLB,London,1983,1991,(白 石 さ や 、

 

白 石 隆 訳 、『 想 像 の 共 同 体 ― ナ シ ヨ ナ リ ズ ム の 起 源 と 流 行 』

NTT出

版 、1997年 )p24.

*3 

内容 は、第

6章

第 1節を参 照。

*4 Sjttψ οtt Elevellth cddition,Fcderal Public誠lons,1997,p.23.(中 学公民教科書)

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践 す る とい う考 え と、対外的な関係 を考慮 して「 華人国家」 とい うイメー ジを取 り払 うこ とが主 な理 由であ つた。 そ して、 マ レー シアか ら分離 した関係 か ら、象徴的に国語 をマ レ ー語 と制定 し、英語、華語、 タ ミル語 を共通語 と したが、実際には英語 による教育政策 が 推 し進 め られてい ったのである。

その一環 と して、

1970年

代 か らの小 。中学校 の英語 を中心 とす る

2言

語教育化、南 洋 大学の英語化、そ して

1980年

、南洋大学の シンガポール国立大学への併合 が行われ る。

実 際 に、

1970に

は共産 系グルー プは徹底 的 に弾圧 されてお り、 もはや南洋大学 が反政府 勢 力の拠点 とな る可能性 はなか ったが、南洋大学 が華語社会 のナ ショナ リズムを背景 と し て成立 した歴史が、民族 主義 を否定 して近代化 をはか る人民行動党政府 を常に敏感 にさせ、

必要以上 に警戒心 を起 こさせていたのである。・

また、天然資源 を持 たないシンガポールは、独 立後、外資導入 によ り工業化 と経済発展 に力 を入れて きた。その際にも、外資系企業 がシ ンガポール に進 出する動機 には、 シンガ ポールの政治的な安定性、イ ンフラス トラクチ ャーの整備 とともに、英語が通用す る環境 をあげてい るものが少な くな く、中2英

語推進政策 、工業化及び経済発展が大 き く役立 った。

b,住

宅政策

上述の政策以外 にも、 国民を統合 するために様 々な政策が行われていつたが、公共住 宅 の建設 もその1つであ り、 これ には国民 を統合 す るとい う目的以外 に、貧困を解消 して国 民 の物 質的な充足感 を与 えるこ とも意味 していた。 また、 当時、 めざま しい人 口増加 に と もな つて (表

5参

)、 公共住 宅の早急 な建設 が必要 とされ た。公共 団地の建設 は、政府 機 関の 1つ であ る 1960年 に発足 した住宅発展局 (Housing and Devloplnent Bord,Ⅲ

)B)に

よ り行われ、1960年か ら 1996年 までに 794053戸 の公共住宅が建設 された。句

1997年 の時 点 では、 国民全体 の

86%が

公共住 宅 に収容 されてお り、19ω 年 の発足時の

9%と

比較す

る と、 かな りの効果が上 げ られているこ とがわか る。Ч

この公共住 宅では、

1970年

代 よ り民族融合 を 目的 と した各民族 の混住政策 が とられて お り、新築 された公共住 宅の内、マ レー人の比率 を

20%に

す るこ とが決定 されている。

その決定 は

1987年

に発表 されたが、この政策 によ り、かつては華人、マ レー人、 イ ン ド人の各民族、更 には広東人、潮州人な どのサ ブ・エスニ ック・ グルー プで住み分けがな

*1 

太 田勇『 華人研 究の視点一 マ レー シア・ シ ンガポールの社会地理』、古今書院、1998

4F。 274『ヨ。

*2 

太 田勇『 華人研究の視点一 マ レー シア・ シンガポールの社会地理』、古今書院、1998 年 。277頁。

*3 Ng Poey SiOng eds., Sれ

♂ηο″cお ακ′Pたras f99z MiniStry of lnfo.u.ation and the Arts,Singapore,1997,p93.

*4 S B Balachalldrer eds., S,″ gψοκ 9z Ministry of lnformttion and the Arts,SingapOre,1997, p179.

*5 Michael Hill and Lian Kwen Fee,動ι Pο″′

"B

j″

ακグ α′ ″ 滋

Sj gψtte,Routledge,1995,p.126.

…82‑

されていた地 区の解体 を招 くこ ととな つた。 この住 宅政策では、各民族 が 1つ の団地の 中 に居住 し、他民族 と交流 を持つ ことで国民統合 を行 うとい うこ とが 目標 の 1つ であつたが、

その一方で、値段 の安 さ と1部屋 か らの 申請 がで きるため、核 家族化 を招 くこ とにな り、

方言 を話 す祖 父母 との同居 が減少 し、子供達 の方言離れ に拍車 がかか るこ ととなった。公 共住宅では、各民族 の伝統行事 を身近 に感 じるこ とがで きるようにな つた反 面、年間伝統 行 事 の時期 には、強 いサ ブ 。エスニ ック行事 の雰 囲気 を感 じるこ とはで きな くな り、特 に 春節 には、 わ ざわ ざチ ヤイナ タウ ン (ク レタ・アヤ地 区

)へ

、伝 統行事 の雰 囲気 を求めて 出かけ る家庭 も増加 す る等、従来 と比較 す る と伝統 行事 のあ り方 も姿 を変 えた。

一方、一部の書籍や論文で、公共住宅政策 による民族融合政策 の強制が、過剰 に強調 さ れてい る記載 を幾度 か見受 けたが、実際 に、 この住 宅政策で、住 み分 けがな されてい る地 区が消滅 したか どうか、他 民族 の近隣 に居住 しな ければな らない こ とを含 め、/AA共住 宅の 住 民 には居住 の選択 の 自由がな くな つたか どうか とい うこ とを、 本節 で検証 す ることにつ とめた。筆者 の参 与観察 と聞 き取 りに よる と、現在 もなお住 み分 けが多少残 つてい る地 区 もあ り、一時期 で はあ るが、政府 が住 民 のため に公共住 宅入居 を融通 してい る事例 もあ る こ とに注意 し、それがシンガポール華人のアイデ ンテ イテ イと深 く関係 してい る とい うこ とを確認 した。

前者 の事例 では、 かつてのマ レー人居住地 区で あ つた東部 のゲ ラ ン地 区か らユ ノス地 区 にかけての地域、華人居住 区であ つた市 中心部のテ ロツ・アヤ・ ス トリー トとク レタ。ア ヤ地 区周辺 には、現在で も高い割合 で、前者 にはマ レー人が、後 者 には華人が居住 してい る。 これ らの場所 には公共住 宅は さほ ど多 くな く、現在 で も前者 の場合 はマ レー人、後 者 の場合 は華人のシ ヨップハ ウス(階下 は商店、

2回

以上 は住居 にな つてい る)が建 ち並び、

それぞれ に関係 深 い物品が販 売 され、例 えばマ レー人の衣服、華 人の漢 方薬等 はそ こに行 かなければ手 に入 らない場合 も多い。同様 に、市 中心部 の ビーチ 。ロー ドとヴイク トリア

・ ス トリー ト周辺はかつては海南街 と呼ばれ、海南系華人 による住み分 けがな されて きた が、現在 で も海南系華人経営 による旅館、商店、食堂等 を中心 に、独立前ほ どではないが 海 南系華人 の居住 の割合 が高い。 これ らの場所 は商店等 の営利組織 との結びつ きによ り、

民族 グルー プの居住傾 向が見 られ る。Чこういつた地区は、 それぞれに関係 す る民族 グル ー プのアイデ ンテ イテ イ保持 に一定 の役割 を果 た してい る。

特 に、

1990年

代後 半 よ り、 この よ うな民族 グルー プの居住 区の特色 を生 か した街 づ く りが、国家発展部 や観光局 を中心 に計画 されは じめ、ユ ノス地 区、カ ンポ ン・ グラム地 区、

テ ロ ック・アヤ・ ス トリー ト及 び ク レタ 。アヤ地 区周辺 の、再 開発計画 が打 ち出された。

それは、郊外 の公共住宅 に移転 してい く者が増加 す るこ とに よ り、無人 の シ ヨツプハ ウス が増加 したため、無人による建物 の老朽化 を防 ぐとい う理 由と、 そ こに居住 している人々 や店舗 の雰 囲気 を保 留 したい とい う考 えか ら くる計 画であ る とい う。つ

こういつた計画が 提起 され るの も、公共住 宅への集 中化、公共住 宅で の各民族混住等 で必然 的 に発生 した「 民

*1 1996年

か ら1998に おける、筆者の参与観察及び聞 き取 りによる。

*2 

筆者の、 リー・ ヨックセ ン元国家発展部高級政務部長への間 き取 りによる。 (1999 年)

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