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中国国民党政府及び英植民地政府の教育政策

ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 48-53)

2次

世界大戦後 か ら自治 に至 るまで の時期 は、 シ ンガポール華 人社会 に とつて波乱 万 丈 な時期 で もあ つた。 この時期 の前半期 は 中国ナ シ ョナ リズム復 興 の時期、後 半期 はシ ン ガポール・ ナ シ ョナ リズ ム高揚 の時期 とであ る とい うこ とがで きる。

2次

世界大戦後、シ ンガポール華 人は、戦勝 国であ る中国の一員 としての誇 りを持 ち、

中国への愛国心か ら中国ナ シ ョナル・ ア イデ ンテ イテ イを更 に強 めていつた。教育方面 に お いて も、

1945年

9月か ら、華人 たちは再 び教育 を戦前 の軌道 に乗せ、華 文教育 を更 に 発展 させ る努 力 を続 けて い つた。そ の様 な状況 の 中、

1946年

に中国駐 シンガポール総領 事 が、 シンガポールお よびマ レー シアの華人指 導者 たち を召集 し「 戦後復校補 導委 員会 」

*l Lim HoW Seng eds.,History of the Chinese Clan Association in Singapore,National Archives, 1986,p67.

*2童

家洲「略論新加岐華族会館興学育才弘揚華族文化的貢献」、『 八桂僑史 (1994年 第 3 期)』、広西華僑歴史学会、1994年 、30頁。

*3 

呉華『 新加岐華族会館志 (第

1冊

)』、南洋学会、1975年 、

5頁

。なお、光華学校は、

福建会館が李光前 (リー・コンチエン

)か

らの資金 を得て設立 した小学校であつたため、

当初は名を光前学校 と決定 されたが、李光前はそれを断つたため、光華学校 となつた。

‑42‑

を成立させた。この「戦後復校補導委員会」は、 シンガポールお よびマ レーシアの華校の 復校を目的 としたものであると同時に、 中国への忠誠心を強めるものであつた。委員会の 決議事項で学校復興に関するものは以下の通 りである。円

1,学

区を決定 し、学区ごとに寄付 を募 り学校経営を行 う。

2,シ

ンガポール、クアラルンプール、ペナンに分会 を設置する。

3,借

用校舎の返却 を、英植民地政府 に対 して交渉するよう、中国総領館 に依頼する。

4,祖

国か らの教育専門家の派遣を依頼する。

5,祖

国の教育方針の頒布を要請する。

6,英

植民地政府 に対 し、臨時教室の増設を要請する。

7,地

区ごとに寄付を募 り、図書館、科学館、一般講演会を開設する。

8,華

僑教育立案の手続 きを簡略化す る。

9,戦

後復校補導委員会は3ヶ月を期限 とするが、必要に応 じて延長することができる。

経費に関 しては下の通 りである。

1,全

ての華校 に対する補助金 と、その金額の増額を、英植民地政府 に要請する。

2,華

僑学校に対する迅速な補助を、祖国中央政府に要請する。

3,華

僑学校は領事を通 して、募金活動を行 う。

4,祖

国か らの補助は、シンガポール、クアラル ンプール、ペナンで

3等

分する。

教師の養成 に関 しては下の通 りである。

1,師

範 クラス設置の華僑学校 に対 して、特別の補助が得 られるように、祖国中央政府 に要請する。

2,教

師の待遇 を、小学校教員の場合は月給

70ド

ルか ら100ドル、中学校教員及び小 学校校長の場合は 100ド ルか ら 150ド ル、中学校校長の場合は 250ド ルか ら300ド ル と規定する。

3,教

師の分別、マラヤ学務総会の組織化は、常務によつて行われる。

4,華

校董事及び教師 に対する褒賞や援助は、祖国中央政府に報告する必要がある。

損失及び賠償 に関 しては以下の通 りである。

1,華

僑学校の設備改善のため、図書や機器の購入を祖国教育部に依頼する。

2,陥

落期間における華校の損失の賠償は、英植民地政府に申請する。

3,殉

職 した り、直接或いは間接的に被害に遭 つた教師については、祖国教育部、僑務 委員会、当局に援助の責任 を委ね る。

以上の決議事項は、英植民地政府法律 を守 りなが ら中国の教育方針 に則 つて学校 を運営す るといつたものであるが、 この決議事項 の中には「祖国」、「華僑」の文字が一貫 してみ られ、中国当局は、シンガポール とマラヤの華人社会を、中国の一部 と見な し、シンガポ ール華人に対 して も、中国に対する強いナショナル・アイデ ンテ イテ イを求めていたこと がわかる。同時に、この時期のシンガポール華人の国家意識は、戦前 と同様 に、教育を通 して中国に向け られてお り、華人は強い中国ナショナル・アイデ ンテ イテ イを有 していた。

*1 

王秀南「新加披華文教育演進史」、『 新馬教育た論』、東南亜研究所叢書、1970年 、161

頁 。

¨43‑

終戦直後の 1946年には、既 にシンガポールにおける華校の数は

284校

であ り、全体で 46,312人 の児童 。生徒 を有 していた。また、戦後

3年

間で華文教育は急速に発展 し、1949 年では、華校の数は349校、児童 。生徒総数は 73,500に 増加 している。Ч

その理 由として、

日本軍の統治時期、学齢児童のほ とんどが失学 したため、学校の復興は当然の成 り行 きで あったこと、中国は戦勝国の 1つ であ り、中国へのナシヨナル・アイデ ンテ イテ イを強め た華人は、更に母語教育の必要性 を感 じたこと、戦後間 もない頃は、学校設立の手続 きが 簡素化されてお り、学校 を設立 しやすい状況であつたこと、学童の年齢の基準が曖味で誰 で も入学で きる状況であつたこと等が考え られる。

一方、戦後、英植民地政府は、 中国政府 と密接な関係 を保持 し、中国ナショナ リズムの 牙城にな りかねない華校の増加に対 して、危機感 を覚え始め、徐 々に華校に対する管制 を 強化するようになる。その管制 とは、従来の華校 を管理することだけを目的 としたものか ら、華校の現地化 を促進 し、シンガポールの 自治の促進 を目的 とするものへ と変化 してい くこととなる。まず、1947年 に以下のような「10年教育計画」(10 Years'Plogralnlne)が 施行される。中2

1,人

民の自治能力を促進 し、国家に対する忠誠心 と責任意識 を養成するような教育方 針を採用する。

2,各

民族の男女児童に均等な教育の権利 を与える。

3,初

等教育を無料 とした上で、国家の需要にあわせて中等、高等、職業教育へ と発展 させる。

4,全

ての学校は英文による授業を取 り入れる。

その内容は、初等教育の無料 といつたように、多 くの児童が均等に就学の機会 を得 ること や、華校 に対 しての補助金が支給 される等、一見 して華人社会に とつてプラスになる面 も 持ち合わせているかのようであつたが、実際には、学校はそれによつて管理、監督 される

こととなつた。中3

その後、「10年教育計画」を補充する形で、1949年に施行 された「

5年

教育補充計画」

では、全ての英校 に対 して補助金全額 を支給するといつた、英校優先政策 を採 つた。例 え ば、1949年当時、英校小中学校の教育経費は6,000,000ド ル近 くにも及んでお り、それは シンガポールの小中学校全体の

76.3%を

占めていたのに対 し、華校は僅か 470,000ド ルで、

全体の

6.1%だ

けであつた。 このように華校は補助 を得 ることがで きずにいたために、学 費の値上げを迫 られ、その結果、多 くの華人は子弟 を学費のかか らない英校へ送 るように なつた。Ч

*1 

王秀南「新加岐華文教育演進史」、『 新馬教育乏論』、東南亜研究所叢書、1970年 、162

頁 。

*2 

丁莉英『 新加岐華校課程及教科書的演進初探』、南洋大学文学院中文系栄誉学位畢業 論文、1972年 、

4頁

*3王

憶鼎『 新加岐華文 日報社論研究 1945‑1959』 、新加岐国立大学中文系漢学研究中心、

1995年、 372‐373頁。

*4周

華峨『 東南 亜華 文教育』、賢南 大学 出版社 、1996年、84頁。

‑44‐

小学校教育で発展 したのは、完全に授業料無料 となつた英校のみであ り、華校に至つて は、政府 によって補助が取 り消される等の事件が相次 ぎ、 この両教育計画に対 して、華人 社会か らの批判が相次いだ。例えば、1951年 12月 21日付の『 南洋商報』では、「『

10年

教育計画』及び『

5年

教育補充計画』の実施は、政府が英校 を発展 させ るためのものであ

り、水面下で華校 に打撃を与えているということは明 らかである。教育当局はこういつた 見方に対 して、否認するであろう。事実上、政府 は華校 に対 して偏見を持つてお り、その 待遇の差は確証で きるものがある」 といつた記事 を掲載 し、紙面を通 して華人社会の声を 伝えた。 また、『 星洲 日報』、『 南僑 日報』、『 中興 日報』 も同様 に、両教育計画 とその後の 英校 と華校 との不公平に対 して、何度にも及ぶ批判を紙面で展開 している。・

それに続 く

1950年

の「 学校登録法令」は、学校登録官に対 して、学校運営に関 しての 多大な権限を与えたものであつた。この法令が施行された年に、華僑 中学及び南洋中学が 政治活動に参与 したとして閉校 され、数10人の学生 と教員の逮捕者 を出 し、1,000人 余 り の学生が退学する事件が起 こつた。その後、各界の有力人物の交渉の下で、 この

2校

は復 校で きることなった。中2

その後の

1953年

に施行された「

2言

語教育 自書」は、華校 に対 しては、基本的に英語 と華語の

2言

語教育を強制 し、英校 との比にもな らない非常に少額の補助金 を華校に対 し て設定 した。 この要因 として、中国で盛んになつていた共産主義運動が、マラヤ共産党成 立に大 きな影響を与えたように、華校 も同様 に共産党の温床になるのではないか といつた、

英植民地政府の懸念が強 まつていたこと、また、 中国の政局の変化 によ り、華人の中国ヘ の帰国が困難になつたことか ら、英植民地政府は華校の中国色を押 さえ、華文教育を現地 化 させる意図を有 していたことが考え られる。中3

5年

教育補充計画」、「学校登録法令」、「

2言

語教育 白書」は全て、「

10年

教育計画」

にみ られる華校の制圧 という点では、基本的に同義であ り、シンガポールの華文教育の危 機は、徐 々に深刻なものになっていった。Ч これらの英植民地政府の一連の政策により、

1950年では、華校生が全体の53.3%、 英校生が

33.1%で

あつたのが、1954年 には逆転 し、

1959年では、華校生が 43.7%、 英校生が

50.9%と

なつている。 このように、1950年代 を転機 に、シンガポール華人は、中国への帰属意識か ら、徐々に現地に対する帰属意識ヘ と転換 を迫 られることにな り、シンガポール華人社会全体が大 きな転換期を迎 えることと なる。

また、 この時期 に、マラヤ連合邦において

2回

にわたる異なった教育報告書が作成され ている。そのきつかけとなつたのが、

1950年

にマラヤ聯邦のホルゲー ト(M.R.Holgtte)

*1王

IFl『新加岐華文 日報社論研究 1945‑1959』 、新加岐国立大学 中文系漢学研究中心、

1995年 、375頁。なお、 これ らの華語紙の記事内容は、同書 372‑379頁 に詳 しい。

*2周

華峨『 東南亜華文教育』、賢南大学出版社、1996年 、84頁。

*3周

車峨『 東南亜華文教育』、萱南大学出版社、1996年、85頁

*4王

憶鼎『 新加攻華文 日報社論研究 1945‑1959』 、新加岐国立大学中文系漢学研究中心、

1995年、 379頁。

*5周

睾 峨『 東南 亜華文教育』、雪南大学 出版社 、1996年、83頁。

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ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 48-53)