中国国外で最初の華文大学である南洋大学の設立に、最 も貢献 した人物は、当時の華人 社会の指導者であつた陳六使 (タ ン・ ラークサイ
)と
いつて もよい。陳六使は、1897年
中国福建省同安県集美の、貧 しい家庭の
6男
として生まれた。貧 しさのため、陳六使の兄 達は教育を受けることができなかつたが、陳六使 と7番
目の弟は陳嘉庚が設立 した集美小 学で初等教育を受けることができた。陳家は主に漁業 に従事 していたが、貧困のために陳 六使 を含む兄弟は、シンガポールに移住することとな り、同郷 と宗親関係を頼 つて陳嘉庚 の経営するゴム園 とゴムエ場に入社する。移住当時、陳六使は19歳であつたo*1
黄金英「陳六使与南洋大学」、 洋大学校友会聯合出版、1997年 、『 陳六使 百年誕 紀念 文集』、南 大事業有限公司・香 港南 99頁
‑60
1920年
代 に入ると、世界的なゴムの需要 と景気に乗 じて、陳六使は兄 と共 に独立 し会 社を設立す る。当時、雇用主の陳嘉庚は、同郷、宗親、そ して集美学校 との関係から、陳 六使のことを知つてはいたが、陳六使の独立にあたつて、経済的な援助は一切行わなかつ たという。当時の、陳嘉庚 と陳六使 との関係は、陳嘉庚 と李光前 とのそれには到底及ばな いものであつた。李光前は陳嘉庚の会社の高級職員として働いただけではな く、その仕事 ぶ りが高 く評価され、陳嘉庚の娘婿 となつたほ どであるが、陳六使の場合、当時は低級職 員の1人に しかす ぎなかつたのである。1930年
代の世界恐慌で、陳嘉庚のゴム業は大 きな打撃を受けたが、陳六使の薄利多売 による経営方式は、さほ ど打撃を受けず、緩やかに発展 していつた。戦後のゴム売買の 自 由化 と、朝鮮戦争で巨額の利益を得た陳六使と3番
目の兄が経営する益和公司は、更に発 展 を続けるが、その際にやつと陳嘉庚に認め られ、彼 らの交流は次第に深 くなつてい くoそ して、陳六使 自身も華人社会の中で実力を得て、
1937年
に樹膠公会主席、1950年
に中 華総商会会長及び福建会館主席 とな り、1953年
に南洋大学を設立を決定することとなる のである。・陳六使は、集美学校やゴムエ場での縁か ら、陳嘉庚の影響を大 きく受けてお り、陳嘉庚 が行 つた度門大学設立、抗 日運動、中華総商会会務の復旧等 を積極的に支持 していたo中
2
また、幼少時、貧困のために十分な教育 を受けることができなかつた陳六使は、 自らの経 験か ら教育の重要性 を実感 していたことか ら、華校卒業生の進学問題が深刻化 しは じめた 1950年、華語での教学を兼ね備 えた大学の設立の夢を実現するべ く、単独で 300,000ド ル の寄付を して、設立直後のマラヤ大学に華文を教学用語とする学部を設立 しようと試みた。
しか し、結果 として実現することはなかつ ょ
。
華校は重大な危機 に瀕 している。このまま その後 も、陳六使は希望 を捨てず、「現在
行 くと外来の圧力か ら華人文化は消滅 して しまうだけではな く、内部の抵抗力さえもつぶ されて しまうであろう。我々はマラヤ華人文化を絶対に消滅させてはいけない。」・ とし て、1953年 に華文大学の設立を決心 し、1953年の福建会館での会議上で、自らが5000,000
ドルを寄付することを前提 とし、会場に集まつた福建会館関係者に賛助を求め、全員一致 で、陳六使 に全面的に協力することとなった。そして、陳六使は、メデ イアを通 して大学 設立の賛助を呼びかけ、 シンガポール及びマラヤ連合邦の華人組織、各階の人々か らの熱 烈な支持をえることとなつた。
しか し、南洋大学設立への道の りは決 して順調ではなかつた。植民地政府 によつて 1949 年に設立されていたマラヤ大学 (シンガポール大学の前身
)の
副学長は、マラヤ大学の中 文系を増強することを強調 し、華文大学設立に強 く反対する等、植民地政府側では新大学*1 林
孝勝「陳六使的企業世界」、『 陳六使百年誕紀念文集』、南大事業有限公司・香港南 洋大学校友会聯合 出版、1997年、37‑42頁
*2鄭
明杉編著『 黄祖耀博』、名流出版社、1997年 、136頁 。*3黄
金英「陳六使与南洋大学」、『 陳六使百年誕紀念文集』、南大事業有限公司・香港南洋 大学校友会聯合 出版、1997年 、100頁o*4
新嘉岐南洋文化出版社編『 南洋大学創校史』、新嘉跛南洋文化出版社、1956年、25頁。∠υ
設立に偏見 を持つ者が少な くなかつた。それに対 して、当時、マラヤで非常に影響力を持 っ といわれていた馬華公会
(MCA)主
席の陳禎禄 (タ ン・チ エンロツク)が
、マラヤ放送局の英語放送を通 して、陳六使が創設 しようとしている新大学は、シンガポールマラヤ 地域の華人学生に進学の機会 を与えるためのもので、決 してマラヤ大学 と競合 しようとし ているものではない とい うことを、彼 自身の意見として説いた。陳禎禄は、海峡植民地生
まれの英語教育を受けたエ リー トであつため、このラジオ放送によつて、新大学設立に対 して疑間を有 していた、英語教育 を受けた華人をは じめ とする多 くの人々に、新大学設立 を理解を示させ る結果 となつた。そ して、シンガポール、マラヤの合わせて 400,000人 近
くの華校卒業生のための大学設立が、実現に近づいたのであつたo
また、
1918年
に制定 された「1地
域 に1大
学」 とい う英植民地政府の規定があつたも のの、陳六使のねば り強い説得 によつて、一切の経費は政府に要請 しない条件で、総督は 新大学設立を許可 した。そ して、
1953年
5月に、会社登録法によつて「南洋大学有限公司」 として、南洋大学はついに登録 されることとなる。・
南洋大学開校前か ら、多 くの困難が陳六使を待ち受けていたが、その中でも、陳六使が 最 も苦心 した出来事 といわれるものが「林語堂事件」であつた。
1950年
か ら中国 との関 係 を絶たれていたシンガポール とマラヤの状況か らみて、新 中国 とは関係のない、「地域 に根付いた大学」の設立を目指 していた陳六使は、南洋大学を政治的色彩を帯びていない、純粋な教育機関にするつもりであつたo
しか し、
1954年
に、南洋大学当局の招 きで、学長職 に就 くことが決定 していた在米華 人学者の林語堂は、就任前か ら当局に相談せずに教職員を物色 した り、外国の記者に対 し て、南洋大学 を「海外における反共産主義の砦」としての、政治的色彩の帯びた教育機関 に作 り上げようと考えていることを漏 らす等、当局や南洋大学の実状 を全 く理解 しない言 動を行つていたoま
た、林語堂がシンガポールヘ来てか らも、南洋大学を世界的な一流大 学に作 り上げようとして、当局に20,000,000ド ルの経費を要求 したが、当時の南洋大学基 金は全て、東南アジアの各階層の人々か らの献金によるものであつたため、陳六使は南洋 大学主席の立場か ら、その要求を受け入れることは到底で きなかつた。結局、双方の主張 が合わず、林語堂は南洋大学を去 ることにな り、林語堂達への慰謝料等に対 して、300,000 ドル余 りの大金が使われることとなつたが、人々の寄付金をそれに使用することに抵抗が あつた陳六使は、 自らがその支払いを行 つ驚 ξする傍 ら、
1950年
代 に彼が中華総商会会 また、陳六使は、南洋大学設立のために長及び特別董事の職に就いていた期間、各議会での言語制限の撤廃及び人民の公民権の取 得 に対 して尽力 して きた。彼は、
1950年
9月に「第2次
大戦後、我々は 自分たちの故郷 は既 にマラヤであると考 えている。」 と語 り、 自らが中国ではな くシンガポールの住民 と*1 区
如柏「陳六使不平凡的一生」、『 陳六使百年誕紀念文集I南
大事業有限公司・香港南洋大学校友会聯合出版、1997年 、
61‑62頁
。*2
区如柏「陳六使不平凡的一生」、『 陳六使百年誕紀念文集』、南洋大学校友会聯合出版、1997年、
62‑63頁
。‑62‑
南大事業有限公司・香港
して、 公民権 や参政権 を獲得 す る決心 を した。Ч
植 民地時代 においては、立法議会、市議 会 、郷村議会 では英語が使用 言語 と決 まってお り、英語 に精通 す る人物 のみが議会 に入 る 資格 を持つ こ とがで きた。 当時は どんな に優 秀 な人物で あ つて も、英語 がで きなければ、
人民の ため に貢献 した くとも議会 に入 る こ とはで きなか つたので あ る。
そ して、
1955年
に陳六使 と中華総商会 の全董事は、華語、マ レー語、 タ ミル語 を各議 会 で の使用言語及び公用語 として承認 され るように働 きかけ、議会での言語制限 に強 く反 対 した。そ して、中華総商会 は各 団体 組織 に対 し署名 嘆願運 動 を要 求 し、その結果、140,000 人 の人民 を代 表 す る、600余
りの団体 組織及 び 8,500余 りの商か ら署名運動の協力 を得た 他 、中21955年に中華総商会 と属下 の商業組織が 1,600人 の嘆願 団を組織 し、英国植民部大 臣に嘆願 す る等 の努力 を行 つた。"
この議会 におけ る言語制限反対運動 と同時 に、 中華総商会は公民権獲得運動 を展開 し、
何 万人 もの非英 国籍 の住 民が シンガポールの公民権 を獲得 で きる ように奔走 した。その結 果 、 一時 は拒絶 され た ものの、
1957年
には請求は立法議会 を通過 し、8年
以上 シンガポ ー ル に居住 す る住 民は公民権 を申請 で きるよ うにな り、 中華総商会 は20万
人余 りの華人 の公民権 申請 に協 力 したのであ る。Ч言語制 限反対運 動 と公 民権獲得運 動 を推 し進 めた中 華総商会 の功績 は大 き く、その 中で も陳六使 や李光前は運 動の 中核 人物 であ つた。南洋大 学 の設立、 言語制限反対運 動、公 民権獲得運 動 とい つた点か らみ て、 当時、陳六使 をは じ め とす る中華総商会やその他 の組織の指 導者達の帰属意識は、 この時期 に中国か ら現地 に 移 行 してい るこ とがわか る。
しか しなが ら、
1960年
以 降、共産 グルー プの活動が勢 い を増 し、1963年
、陳六使は親 共産 グルー プに金銭 的な援 助 を した と して公 民権 が剥奪 され、南 洋大学理事会 主席 を辞任 す るこ ととな った。その後、彼 は一切南 洋大学 について の参与 は行わず、 自らの事業 だ け に従事 した。1972年、陳六使 は76歳
で病没す るが、 シンガポール及びマ レー シア各界の 人 々は、陳六使 のために厳 かな葬儀 と追悼会 を行 った。陳六使 の出棺 の際 には南洋大学校 旗 が棺 に掛 け られ、6,000か ら 7,000人の華 人が葬儀 の列 を共 に し、南洋大学理事会は、陳六使 の功績 を称 え、南洋大学の キ ヤ ンパ ス に銅像 を建て る こ とを決定 した。その後、1974 年 には、陳六使 の遺族 よ り南洋大学 に 500,000ド ルの寄付金 が寄せ られ、「 陳六使奨学金 」 と して苦学生のために役 立て られた。また、1982年 には、福建会館 が、陳嘉庚、李光前、