体 的 には、 中 国で抗 日運 動 に参加 して いた者、 日本軍 の徴兵 か ら逃 げたこ とが あ る者 、抗 日義勇軍の メ ンバ ー、抗 日運動へ寄付 を した者 といつた、実際 に抗 日活動及び それに準 ずることを して い た者か ら、 シンガポール及びマ レー シア居住が
5年
以下の者 (中国へ の帰属意識があ る と考 え られ るため)、 華 文初 等教 育 を終 了 した者、 教師、記者、専 門職 、社会 的地位 のあ る者、5万
ドル以上の財 産 を持 つ者(抗日運 動 に寄付 した可能性 があ る と考 え られ るため)、海南 系華 人 (海南系華 人が抗 日運 動 に参加 す る傾 向が強 か つたため)、 政府機 関職 員、 眼 鏡 をかけて い る者 (知識 人 と見 な されたため
)と
い うような実際 に抗 日活動 を しているかどうかが不 明な者 までが、総 じて殺害 の対象 とな った。・
この「 大検証」 によ り、多 くの教師が殺害 された。 また、財産 を持 つている として学校 董事 も殺害 された り、彼 らの財 産 は「 華僑協会」 を通 して寄付 とい う形 で強制 的 に没収 さ
*1
陳嘉庚『 南僑回億録』、草原出版社、1971年 、345‑346頁 。*2
陳民「陳嘉庚 :華 僑旗職、民族光輝」、庄炎林編『 世界華人精英停略新加崚与馬来 西亜巻』、百花洲文芸出版社、1995年 、55頁。
*3 National Ardhives of Singapore,7あ ιJψ ιsι Occψαriο″」9イ2‑19イ5,Tiines Edditons,1996, pp.67¨73.
*4
周華峨『 東南亜華文教育』、賢南大学出版社、1996年
、76頁
。司馬春英『惨痛的回 億』、施君、1998年 、12頁。‐36‑
れるようになった他、Ч
華人社会の指導者の中には、身を守 るために自らの事業 を放棄 し、
やむを得ず 日本語 を習得 し、 日本軍関係の組織で労働 に従事する者 もいた。
Ⅲ2このような 状況下で、従来の教育を継続することは不可能な状態 となつた。
そ して 1942年 6月 よ り、市街地の華校15校と郊外の華校
6校
において、 日本軍による 皇民教育が開始された。 これ らの学校はこれまでの董事に代わつて「昭南市政府教育学校 科」によって管理 され、1年
次には華語及び、英文に代わちての 日本語の授業が行われ、2年
次に日本語が主 とな り、3年
次には全て 日本語による授業が行われた。りまた、学校 では 日本への帰属意識を涵養するために、毎 日、 ラジオ体操、 日本国歌の斉唱、 日本の方 角への参拝 を行 うだけではな く、授業 における「 天長節 ノ歌」、「 愛国行進曲」、「大東亜 決戦の歌」の練習が義務づけ られた。 しか し、こういつた日本軍政下での授業は、 日本軍 の形勢が悪 くなるにつれて滞るようにな り、戦争末期 にはこれ らの学校は全て閉校 した。
こういつた状況の中で、華人の子弟の中に日本への帰属意識が育つはずもな く、む しろ 日本軍に対する反感か ら、逆に水面下で中国への帰属意識や愛国心が高まりを見せていた。
当時、中国を支持する華人を中心 とした、マラヤ共産党の下で結成されたマラヤ抗 日軍が 活躍する一方で、シンガポール とマラヤの華人及びイギ リス人等によつて136部隊が組織 されていた。
136部
隊は、中国に帰属意識を持つ者、英国に忠誠を尽 くす者、 日本軍 と戦 いたい とい う意志を持つ者 と、様 々な人物によつて構成 されていたが、それ ら2組
織は、思想の如何 にかかわ らず、協力 して抗 日運動を展開 していた。中5
136部隊の リーダー的存在であ り、1944年に日本軍に投獄 され死亡 した リム・ボーセン (林謀盛
)は
現在、シンガポールの英雄 として、歴史教科書はもちろんのこと、歴史博物 館 でも不可欠な存在 として取 り上げ られ、彼を記念 した書籍や伝記等 も多 く出版 されている。Ⅲ619。
9年
生まれの リム・ボーセ ンは、戦前、ラ ッフルズ学院を卒業 し、香港大学で商 学 を学ぶ等、英語教育を受けてきた人物であるが、一方で、亡父の後を継いでシンガポー ルで企業家 とな り、若 くして建築公会会長、中華総商会董事、福建会館執行委員兼教育科 主任 を務める等、華人社会 における公益事業への貢献 も大 きく、華人社会の指導者の1人 として尊敬 されるようになつていた。中7リム・ボーセンは、 日本の中国侵略に対 して反感 を感 じ、戦前か ら日本製品不買運動等の抗 日運動に積極的に参加 し、 自らも指揮 をとつて*l National Archives of Singapore,7し ιJ響,α
̀sι
OCCι″α″Oκ 19イ2イ9イ5,Times Edditolls,1996, pp.85‑92.
*2筆
者の、福州会館主席林理化氏への間 き取 りによる。(1997年)*3
王 秀 南 「 新 加 岐 華 文 教 育 演 進 史 」『 新 馬 教 育 乏 論 』、 東 南 亜 研 究 所 、1970年、159頁。*4 National AIchives of Singapore,動ιJη ωι Occttα ″οκ 19イ2‑19イ5,Times Edd■ ons,1996, pp.107‑123.
*5筆
者の、元 136部 隊のメンバーである李金泉氏への聞き取 りによる。(1997年)*6リ ム・ボーセ ンについては、Clara Show,Ltt Bθ S"g,Asiapac Books,1998.及 び Tan Chong Tee,Fο″
̀ι
136,Asiapac Books,1998.に 詳 しい。
ホ
7
陳伯沐「林謀盛烈士的生平」、新加披南安会館編委会編『 新加城南安先賢伝』、新加岐 南安会館、1998年 、14‑18頁 。‑37
いた。その当時か ら日本 占領期 にいたる リム・ボーセ ンの帰属意識は、宗主国の英国で も な く、 また海峡植 民地 の シンガポールで もな く、 一貫 して父祖 の地 の中国であ り、彼 は 中 国の ため に戦 つていた とい う。・
1945年
、 日本軍 が降伏 した時、 シ ンガポー ルで は、ユ ニオ ンジヤ ツク と中華 民国の青 天 自日旗 を持 つた人 々が後進 し、「大 中華 民 国万歳」、「 連合 国万歳」 とい つた段幕 が至 る 所 で掲 げ られ た。つ当時、英語教育 を受 けた者 を中心 に英国 に対 す る帰属意識 が存在 し、
華語教育 を受 けた者 を中心 に中国へ の帰属 意識 が存在 していた といえ、現地 に対す る強い 帰属意識 は この 当時は まだ生 まれていなか つた といえ る。
第 6節 第 1章 及び第 2章 を 通し ての要点
a,初
期 の シ ンガポール華人社会 にお け る「 帯派 」主義 の構造表
3は
、戦前 にお ける華文学校 とその創設者 の状況 であ る。初期‑1910年においては、カ ソ リック教会 を中心 と した、講 に とらわれない混合 の華校 の存在 があ るものの、稲派 主 義 の台頭 に よるサ ブ・ エスニ ック・ アイデ ンテ イテ イが最 も強 く、単独 の討派 による華校 の数 が比較 的高 い割合 でみ られ る。 この ような初期 の華校 の状況 は、「 シンガポール華人 の出身地の違い と移住 の展開の仕 方の相違か ら生 まれた様 々なサ ブ。エスニ ツク的作用
=
帯派主義 を示す こ とにな る」とい うシエ・ チ エンの論 を検証 す る こ とがで きる。1911‑1931 年 において は、単独 の帯派 に よる華校 と混合 の華校 が 同時 に増加 し、 1931‑1941年 にな る
と、単独 の講派 に よる華校 の比率 が下 が り、混合 の華校 の比率が上 が つてい る。 この調査 結果 か ら、
1911年
の 中華民国成立以降、帯派 主義 が弱 ま り、華校 には帯 を超越 して合作 す る動 きが見 られ るようにな る。b,宗
郷会館 、華校、華 人企業家の3者
関係 の形 成 お よびその性格華校 は、英植 民地政府 の支持や干渉 を受 け るこ とがなか つたため、生存 のため に不可欠 で あ つた ものが、華人社会 におけ る経済 力、つ ま り華人企業家 と、華人企業 家 と結 びつ い て い る会館 組織 の支持で あ り、華校 と華 人経済 の結合 が、早期 シ ンガポール にお ける大 き な要素 とな つてい た。 この
3者
関係 が、 シ ンガポール 自治独 立前 まで継続 されてい くこ と とな る。表2で
は、時期 を問わず、華校 の董事 のほ とん どが華人企業家 または医師や弁護 士 な どの専 門職 とい つた上層 階級 によって 占め られて い るこ とがわか る。c,3者
の一体化 が、稲派間お よび階級間 を超越 す るメカニズム と して、社会統合 のため に果 た した役割表
2は
、戦前 にお け る華校 について の一考察であ る。表 の中の 18の 華校 の、創 立か ら10 年 間 にお け る董事 の名簿 か ら、董事 の出身地或いは原籍地、職業、会館 組織 で の役職、他*1
筆 者 の 、 総 理 公 署 兼 社 会 発 展 部 政 務 次 長 チ ヤ ン・ ソ ー セ ンヘ の 聞 き取 りに よ る 。 (1997年)*2S'κg̀′οrι Jο ″
̀ツ j
̀θ
Nα″οκλοοグ,National Hcritagc Board,p40‑41.
‑38‑
学校での役職の状況を、い くつ もの資料か ら調査 した結果、筆者が全ての情報 を得 ること がで きた人数 についてのみ、分析 したものであ る。例えば、
1849年
に福建講 によつて設 立された崇文閣の場合、董事全員が同一討であ り、その中で他帯派の学校の董事を務めて いるもの1人もいない。一方、1912年
に同 じく福建詰 によつて設立された愛同学校の場 合、75%の
董事が他帯派の学校の董事を務めている。この福建講 による2校
の比較か ら、需派主義の淡泊化 を見 ることがで きる。
また、帯派主義思想が強い
20世
紀初頭であつて も、階級 を超えた子弟の受け入れが行 われ、1920年
代 に入 つてか らは、南洋華僑 中学に代表 されるような詰派 を超 えた華校設 立者が増加 し、そ して1950年
代の南洋大学設立に至つては、詰派、階級を超えた華人全 体の合作がみ られた。この点か ら、華校は、華人社会統合のための重要なメカニズムとなっていた という事実を導 き出すことがで きた。
d,華
人企業家の求める象徴資本及び華人社会 における影響ほ とんどの華校の学校運営に至つては、学校設立者 または賛助者である董事 によつて組 織 される董事会が、学校運営の最高機関 となつてお り、学校運営に関わるものの全権がこ の董事会の手中にあつた。表
2か
らわかるように、全ての華校 に共通することは、董事の 大部分は華人企業家或いは少数の医師や弁護士などの専門職 といつた上層階級 によつて占 め られ、彼 らは会館組織 と兼任 して董事の地位 に就いている場合が多い ということが明 ら かになつた。また、董事について更に分析を行 うと、彼 らは、複数の会館組織の董事を兼任 している 害J合が高い ということが確認できた。それは、同郷会館、宗親会館、行業会館 といつた各 組織の兼任の場合 もあれば、同郷会館のみの場合 もある。後者の場合は、例えば潮安県は 広東省に所属するため、潮安系華人は、潮安会館、潮州聯宜社、潮州八 邑会館、広東会館 といったように複数の同郷会館 にて董事 を兼任することがで きるわけである。シエ・チエ ンは、 この状態を「各会館組織の相関的 リーダー シツプ (Ovedapping leadership)」 と名付 けてお り、会館組織は個別のものではあるが、このような重複 した董事の影響力によつて、
会館同士の相関関係が保 たれていたとい う。・ 言い換えれば、当時の華人企業家は、この ように各組織での董事を兼任することによつて、商業界はもちろんのこと、教育界、討派 内、ひいては華人社会全体 において多大な権力を有 していた とい うことができる。
華人企業家は会館組織に賛助 をすることで、「象徴資本」を貯蓄 または追求 し、組織の 董事 という地位に就 き、更なる権力を所持することとなった中2。
「象徴資本が一つの信用で
*1
謝剣「志願社団的組織原則 :新 加攻華人社団的個案研究」、『 東南亜華人社会研究 (下 冊)』、1980年、129頁。*2 Hong Liu,"01d Lingkages,New Networks:Tに Globalizdion of Overseas Chinese Voluntary Associations and lts lmplicationsn the paper present江 "Intemational Socia1 0rgamzation in East and Southeast Asia:0:αοχ
'α
g Ties during the 20th Century,"held tt the lntemational lnstitute for Asian Studies,Lciden,the Netherlands,28‑29 August 1997.