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政府と 華人 社会と の関係

ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 76-81)

植民地政府は、

1954年

にシンガポールの行政制度を改革 し、総督の諮問機関である立 法審議会の

3分

の2を民選 とした。1955年 に行われた第1回選挙で第1党になつたのは、

イラン系のシンガポール生 まれの弁護士デーヴイツ ド・マー シヤル (David Marshall)率 いる労働戦線であつた。

翌年8月、シンガポールの初代主席大臣となつたマー シヤル、チユー・スイキー (周瑞 麒

)教

育相、 リム・ユーホ ツク (林有福

)労

働相 は、南洋大学を参観 し、南洋大学への支 持 を表明 した。そ して、1956年 3月 15日、南洋大学は数々の困難を乗 り越 えて開学式典 を迎えることとなつた。主席大 臣マーシヤルはシンガポール人民を代表 して祝電を打 つた。

開学式典では、 まず陳六使、張天沢、陳宗南、シンガポール及びマラヤ各地の南洋大学委 員会の代表が、校旗掲揚 を行い、陳六使は式典で「今 日は海外華人の最 も光 り輝 く日だ。

数百年前に華僑が南来 して以来、計 り知れないほ どの苦難を経験 してきたが、 自らの力量 と奮闘が実 つて、ついに今 日大学が開校することとなつた。」 と感慨深 く述べている。

そ して、 3月 30日 、文学部239名、理学部256名、商学部 89名 を含む計584名の新入 生を迎 え入れ、正式に授業が開始 された。開学当時のシンガポールの各政党は、南洋大学 に対 して支持の態度を表明 していた。しか し、当時の教育部長であるチユー・スイキー(周 瑞麒

)は

「南洋大学は学位 を出す権利を有 してい るが、政府当局の認可を得 るまでは、学 位 として承認されない。」中2とぃった発言を し、開校直後の南洋大学に大 きな打撃を与え たが、 3月 に行われた労働戦線党委員会代表大会では、植民地政府に対 し早急 に南洋大学 の学位認定を申請するという決議が通過 した。

また、

1958年

の校舎落成式典では、総督が出席 しただけではな く、その式典を見 るた めに十数万人の民衆がつめかけた。新聞記者で歴史研究家の韓山元は「 当時、マラヤか ら の観光客はシンガポールヘ来 ると、郊外の辺部な場所であるにもかかわ らず、必ず南洋大 学 を訪れた。彼 らの中で、南洋大学はあ こがれの名所 と化 していたのである。」中4と述べ

nese,1987.(花野敏 彦訳『 南 洋

*l Lce Khoon Choy,■■Ю Persona1 0dyssey of a Nanyang Chi 華人

 

国を求めて』、サイマル出版会、1987年)、 255頁。

*2 

桂貴強『 新加岐華人

 

従開埠到建国』、新加攻宗郷総会聯合総会、1994年、280頁。

*3 

黄金英「 陳六使与南洋大学」、『 陳六使百年誕紀念文集』、南大事業有限公司・香港南 洋大学校友会聯合出版、1997年、

113‑114頁

*4筆

者による韓 山元氏へのイ ンタビユーによる (1998年)。

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ているように、南洋大学は、大学進学を目指す華校生はもちろんのこと、高等教育機関ヘ 進学で きない南洋大学 とは無縁 とも思える人々にとつて も、シンガポール及びマラヤ華人 の集大成 として、象徴的な存在 となっていつたのである。

しか しなが ら、南洋大学のその後 の道の りは順調ではなかつた。

1959年

6月にシンガ ポール 自治政府が成立 し、人民行動党秘書長の リー・ クアンユーが首相に就任する。また、

同年 3月 には、南洋大学法令が立法会議で通過 し、南洋大学は大学 としての地位 を認め ら れ ることとなつたが、同時に学位認定のための調査 も行われていた。

1959年

7月に発表 された、西オース トラ リア大学のプレスコツ ト教授を代表 とする、アメ リカ、台湾、オラ ンダ、 フイリピンの学者の調査委員会 による報告書には、南洋大学に対する批判が多 く、

全てが南洋大学 に不利 になる内容であつた。・『 南洋商報』は、該報告書に対 して遺憾の 意 を表 しなが らも、「我々は謙虚な態度で もつてそれを参考資料 とし、改善 してい く必要 がある。」Ⅲ2と

延べ、『 星洲 日報』 も、「 どの大学で も初期 には免れない欠点がある。一部 の報告 も故意に書かれたものである。」 と報告書 を批判 しなが らも、「 責任は誰 にあると 議論する時期でない。南洋大学を推 し進める者で、大学の基礎 を しつか りと作 りあげてい

く時期である。」・3と、華人たちを励 ます報道を している。

自治政府のヨー・ヨツク リン(楊玉麟

)教

育相は、プレスコ ツ ト博士の報告書の発表後、

新たにウエイ・ヤー リン(魏雅玲)医 師を リーダー とする

7人

による検討委員会 を組織 し、

プ レスコツ ト博士の報告書の検証を行 つた。その間の

1960年

2月に、ゴー・ケンスウイ (呉慶瑞

)財

政相は、南洋大学第 1期卒業生400人余 りの雇用に対する政策文の中で、彼 らの学位を正式に認定することを承認 したが、将来の卒業生については保留の立場をとつ ている。そ して、 同年2月に発表 されたウエイ・ヤー リン医師の報告書 について『 星洲 日 報』は、「マラヤ大学の政策や教学方法を南洋大学 に当てはめるという改革法案 を主 とし てお り、南洋大学創校の主旨と歴史背景 を無視するものだ」Ч

と批判 したが、ヨー・ヨツ ク リン教育相は、原則 としてウエイ・ヤー リン医師の報告書を受け入れ、陳六使を主席と する

28名

の南洋大学実行委員会 と話 し合いを持つ こととなつたが、話 し合いは平行線を 辿 つた。`これ ら

2つ

のグループか らなる調査委員会 による報告内容には、「 調査は不公 平なもので、最初か ら偏見があつた としか考え られない」

6等

として、多 くの華人か ら非 難があがつたが、政府の決定をす ぐに覆すことはできなかつた。

リー・ クア ンユーは、

1960年

の南洋大学政治学会で、「マ レー語 を話す東南アジアに身

*1 

陳炎成「陳六使生平大事年表」、『 陳六使百年誕紀念文集』、南大事業有限公司・香港 南洋大学校友会聯合出版、1997年 、156頁 。

*2『

南洋商報』、1959年 7月 26日 。

*3『

星洲 日報』、1959年 7月 23日 。

*4『

星洲 日報』、1960年 6月 2日。

*5 

陳炎成「陳六使生平大事年表」、『 陳六使百年誕紀念文集』、南大事業有限公司・香港 南洋大学校友会聯合出版、1997年 、156頁 。

*6賀

光中「 予封於南大評議会報告書之意見」、『 南洋文摘』第

1巻 2期

19ω 年2月、1‑2

頁。

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を置いている以上、中国語を通 して卑屈 に中国のや り方を模倣することは、自滅に繋がる。

南洋大学は近い将来、華語を教学用語 とすることになるだろうが、マ レー語を増や し、南 洋大学学生にもマラヤ社会の中で活躍 して もらう必要がある。」Ч

として、南洋大学 を認 めなが らも、南洋大学 にも「 マ レーシア計画」を受け入れることを暗に要求 した。「マ レ ーシア計画」 とは、

1961年

に、

1957年

に英国か ら独立 していたマラヤ連邦 とシンガポー ル 自治政府 との間で合併話が浮上 したが、それに先だつて人民行動党によ り推進された、

学校での教学用語にマ レー語を導入 して、合併 を円滑化 させ る政策のことである。

その後「マ レーシア計画」に反対 した派閥が人民行動党か ら離脱 し、社会主義戦線を組 織 したが、

1963年

2月、人民行動党はマラヤ政府 と共 に、「 オペ レーシヨン・コール ド・

ス トア」 という治安作戦で、親共産主義的 と考え られる社会主義戦線、教育団体、労働組 合の中か ら指導者や活動家を100人以上逮捕 した。中2そ

して同年9月、マラヤ連邦、シン ガポール、サバ、サラワクが合併 し、マ レーシア連邦が正式に成立するが、その直後、社 会主義戦線が体勢 を立て直す余裕がないままで行われた、シンガポール州議会選挙では、

人民行動党が

51議

席 中

37議

席 を、社会主義戦線は

13議

席 を獲得 し、人民行動党が勝利 した。人民行動党は選挙で勝利 し、与党の座 を確実に した後 も、親共産主義 と見られる人 物 に対 して弾圧 を続け、社会主義戦線、、労働組合、学生組織の徹底的な取 り締 ま りを行 った。

そ して、同月、陳六使はそれ らの組織 に金銭的な援助 を した として公民権が剥奪され、

南洋大学理事会主席を辞任することとなつた。人民行動党の一連の取 り締 ま りによ り、多 くの大学教員が一時的に解雇 された り、多 くの学生が停学処分 となつたが、当時、南洋大 学で助手を務めていた人は「共産活動に参加 していないにもかかわ らず、学生 に影響を与

えている教員 として有無 をいわさず解雇 された。」中3と

当時を振 り返つている。

その後、マ レーシア中央政府 とシンガポール州政府の経済的、政治的対立が民族対立に 発展 し、

1965年

8月に、 シンガポールがマ レーシア連邦か ら独立を余儀な くされると、

国民統合 と経済発展 に力を入れ、国家の生 き残 りの道を模索 し始めた。その一環 として、

当時反共政策をとつていた隣国のマ レー シアとイン ドネシアとの関係を考慮 し、また「英 語教育は、 この多種族社会に共通語 と共通の環境、そ して共通の価値観を与える」Чとい

う理 由か ら、英語教育が推進された。

その間の政府の南洋大学に対する政策は、一貫 して前述のウエイ・ヤー リン医師の報告 書 を基準 としてお り、数多 くの大学改組が行われ、それは南洋大学に不利に展開 していつ た。

1964年

には、政府 と南洋大学理事会 との連合声明 として、南洋大学はマラヤ大学 と 同様のカ リキユラムを持つこと、英語教育の強化 を行 うこと、国家に必要な人材の育成す

*1 

新加岐聯合早報編『 李光耀40年政論選』、新加岐報業控股華文報集団、1993年 、373

頁 。

*2 

陳炎成「陳六使生平大事年表」、『 陳六使百年誕紀念文集』、南大事業有限公司0香 港 南洋大学校友会聯合出版、1997年 、169頁。

*3 

筆者による、華裔館の桂貴強研究員へのインタビユーによる。(1996年)

*4政

治哲学 (上

)p218

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