第 9章 新国 民 統合政策下に おける 「民族」のあり方
第 2節 国民教育の 推進
1997年
1月 、 シンガポール国立大学 にて「建国 と/AR民権」を主題 とした「歴史教学パ ネルデ イスカ ッション」が開催 され、3名
の発表者及び7名
のパネ リス トによつて、「い かに して国家意識 を涵養 してい くか」 という問題が討論 された。パネルデ イスカツシヨン の司会 を務めた社会学科 のチユア・ベンフアット (荼明発)助
教授は「 シンガポールの各 民族の若者は、物心が付 き始めた ときか ら、 自己をはシンガポール人であると位置付けて いるため、一昔前の世代 と異な り、 自己の文化ルーツを辿ることもな くなった。この変化 のため、シンガポールの学生に国民意識 を涵養させ ることに対 して格別の注意を払 う必要 がある。」 と述べた。発表者の1人である政治学科のムダ リ講師は「 シンガポール政府は
30数
年間で、国家 意識を国民の中に確立させ、多民族社会 を作 りあげるために、努力 して きたが、人民行動 党の実利主義によ り、様 々な形成の中で、何度も政策が変化 し、国家意識創造の方法も曖 味模糊 としたものであった。1960年代及び 1970年代の政府のスローガンは、シンガポー ルは新国家であ り、国民は国家に帰属意識を持ち、国家の生存を図る努力を しなければな らない というものであ り、1980年
代か らは、政府は方針 を転換 し、各民族後がそれぞれ のルーツを知 ることを推進 し、1990年
代 に入 ると、再び政府が主導権 を とりなが ら、多 民族政策の正確性 を強調 した。それは、 シンガポールが小国であ り、国内外の形勢の変化 によって、国家意識の捉 え方 も紆余曲折 を経て きたためである。」 と、過去の政策の変遷 をまとめ、「若い世代の中での国家意識の創造には希望が見えている。若い世代は民族意 識 をあま り持ち合わせてお らず、子供が春節やデ イパバ リ (イ ン ド人の新年)を
同時に祝 って楽 しむような、肌の色にこだわ らない純真なアイデ ンテ イテ イは、残す価値のあるも のだ といえ、大人の狭い観念か らものを見てはいけない。」 と、若者の価値観は変化 して いる事実 を指摘 している。また、出席者の1人である教育部国家教育署の王斯芸は「学校は、子供達の成長の過程 で、アイデ ンテ イテ イを形成するための最 も適 した場所であるといえ、学校の共通のカ リ キュラムの中で、子供達は共通の学習経験 を共有 し、将来は学校で学んだ全面教育の作用 を発揮 し、ポス ト・ グローバル化時代の シンガポールが直面する問題 に対応 してい くであ ろう。」 と述べ、若い世代 に「共通の国民意識」を涵養 させ ることの重要性 を強調 した。・
1997年 5月 17日 、シンガポール教育部は「教育計画大綱」を宣布 し、2000年を最終 日 標 として、全国の各 レベルの学校で、全面的な国民教育を推進 してい くことを決定 した。
教育部の国民教育計画の
4大
主旨は以下のものである。*1『
聯合早報』、1997年 1月 26日 。‑140‑
1,シ
ンガポールを誇 りに思えるような、国家アイデ ンテ ィテ ィを涵養する。2,歴
史への知識を強め、建国過程 を理解する。3,国
家の極限 を強調 し、未来 に向けての挑戦 を理解する。4,核
心的価値観 を涵養 し、繁栄に向けて進歩する。以上の
4大
主 旨か らみると、国家アイデ ンテ ィテ ィの涵養は国民教育の核心内容であ り、歴史への知識を強めることは、国家アイデ ンテ ィテ ィの涵養の手段であるといえる。また、
国家の極限 と核心的価値観 を強調することは、未来 を見据え、国家の安泰 を継続させ るこ とを意味する。国民教育委員会は、国民教育計画を制定 する過程で、シンガポールの歴史 意識が存在 しなければ、国家意識は生 じない とい うことを認識 し、学校 に対 して、学生が シンガポールの歴史を知 ることを通 して国家アイデ ンテ ィテ ィを洒養するような教育を行 うよう通達 した。・
1997年
5月24日
、『 聯合早報』上で、教育部の「教育計画大綱」を受けて、張従興の「 どのようにアイデ ンテ ィティをみいだすか、何 をアイデンテイテイとするか 一国民教育 が引き起 こ した問題」 とい う論文が掲載 された。 この論文では、国家 というものの定義か ら、現代国家の類型が説明されてお り、それを理解 した上で初めて、国家アイデンテ ィテ ィを語ることがで きると述べ られている。中
2張
従興の示 した現代国家の類型 とは、以下の とお りである。
1,文
明古国 :悠 久の歴史を有 し、文化資源が豊富な、イン ドや中国等の国家を指 す。これ らの国家における国民は、悠久の歴史が創造 した文化 に対 して誇 りを有 し、如 何なる逆境 に置かれても、国家アイデ ンテ イテ ィの存在の有無にかかわ らず、重厚
な文化の力量によって凝集する。
2,種
族国家 :日 本やイスラエル等の単一種族 によって組成 される国家を指す。種族 に 対 してアイデ ンテ ィテ ィを持ち、種族の利益を強調 し、種族の存亡にかけて国民の 凝集力を発揮する。3,宗
教国家 :バ チカンやイラン等の単一の宗教 を国教 とする国家を指す。宗教に対 し てアイデ ンテ ィテ ィを有 し、宗教 を以て世俗政治の指導原則 としているため、国家 は宗教を保護するために戦争をも厭わない。4,民
族国家 :大 多数の現代国家が採用 している建国パター ンである。民族国家の特徴 は、国内でマジョ リティを占める種族の利益 を優先するが、少数種族の利益を剥奪 することもない。少数種族は、マジョリテ ィである種族の指導者の下で、国家の規 則 を遵守 しなければな らない。隣国のマレーシアがこれに当てはまる。5,共
産国家 :国 民は共産主義に対 してアイデ ンテ ィテ イを示 し、人民政治、経済、文 化生活は、マルクス・ レーニン主義の原則 に基づ く。ソビエ ト連邦が崩壊 し、中国 やベ トナムが 自由市場経済を採用することにに転向 した現在では、キユーバ と北朝 鮮のみがこれに当てはまる。張従興は、シンガポールは、独立初期のマ レーシア及びイン ドネシア との対外関係や、
*1『
聯合早報』、1997年 5月 24日 。キ
2張
従興「 如何認 同、認 同什慶 一国民教育引発的問題」、『 聯合早報』、1997年5月 24日。‑141
華人の 中に も華語教育 系 と英語教育系 とい つた よ うな
2種
類 のアイデ ンテ イテ イが存在 し ていたため、彼 らの結合 が困難であつた こ とことか ら、華人をマ ジ ョリテ イとす る民族 国 家 の建国路 線 を採 用 す る こ とはで きなか つた こ とを強調 し、 シンガポールは上記の全ての 類型 にも当ては ま らない特別のケースであ る と してい る。 シンガポールは、種族、 言語、宗教、習俗、文化 において、各民族 を凝集 させ るこ とがで きる共通点は何 一つ存在 しない とい う状況の 中で、多民族及び多文化の共生 とい う建国路線 を採用す ることとな つた。 当 初 、 シ ンガポール は、英語教育や工業化 を推進 し、幸運 にもア ジアの 中では経 済 的 に恵 ま れ た国家 に成長 した。 しか し、経済的な繁栄は果 た して シンガポール人のアイデ ンテ ィテ ィに繋 が るのであ ろ うか。また、も し経済競争の末 に、シンガポールが破者 となつた場合、
シ ンガポール人の 中に何 が残 るのであろ うか とい うのが、張従興 の投 げかけた問題で もあ る。
筆者は、
30代
の職業 を持つ華人10人
に「 シンガポール人で よか つた と思 つた こ とや、シ ンガポール人 としての誇 りを感 じるこ とがあ りますか。」 と質問 した ところ、全てが肯 定 的な 回答 を した。 その理 由 と しては、「 普段 は特 に感 じないが、後 進 国 に出張 や旅行 に 行 つた ときに、 恵 まれて い る 自分 を実感 で き、 シ ンガポール人で良 か つた と思 う。」
(4
人)、「 イ ン ドネ シアの事件 (1998年の種族暴動 による華人への迫害
)を
見 て、 シ ンガポ ー ル人で良か つた と思 つた。」(2人
)、「 東 西 の文化 や言語 を受 け入 れ て い る面 が、他 国 にない 自慢 で きる点 だ と思 う。」(2人
)、「 この国のパ スポー トがあれば、 と りあえず 自 由に どこの 国 に も行 け るか ら、 悪 くな い。」(1人
)、「 ア メ リカ等 の 自由国家 を羨 ま しく 思 うが、 その他 の国 よ りは ま しと思 う。」(1人 )と
の回答であ つた。・ この回答だけを見て も、 シンガポール に対 して、経済的な面での優越感や、他国 と比較 しての誇 りを感 じて い るケースが多 く、張従興が指摘 したよ うに、国の文化 や民族 に誇 りを感 じている回答 は 少 ない こ とがわ か る。「 教育計画大綱 」 が宣布 され、全面 的な国民教育 が本格 的 に実施 さ れ るようになれば、張従興 の投 げかけた問題 は解 決で き、現在形成 されつつあ る国家アイ デ ンテ ィテ ィは、更 に強 固な ものになってい くのであろうか。
「 教育計 画大綱 」宣布後、国会で も国民教育推進 のために、様 々な討論が行われ るこ と とな つた。
1997年
6月、 タ ン・ グア ンセ ン (陳原 生)貿
工部高級政務次長は、国会 にて「 シ ンガポー ルの国魂 を涵養 す るこ とは、 国民教育 の精髄であ り、 これは
21世
紀 の理想 を実現 るための、経済発展 の推進 に付 け加 えた、 更 に重要なカギ となるものであ る。一昔 前 の世代 の シ ンガポール人は、植 民地時代 に苦労 を重ね、2等
公 民 として身を置いた経験 があ り、現在1等公民の身分 を持つ ことの意味の幸福 を認識 しているため、身 を以て シ ン ガポール人 と して の誇 りを感 じている。 よって、 いかに して若い世代の 中にこの ような精 神 を確 固た るもの と して植 え付 け るかが、国家の成功のカギ となる。こうい つたこ とか ら、国民教育 は国魂 涵養 の第 一歩で あ る とい え る。」 と して、国民教育 を進 める際の
3大
問題 を提示 した。1,政
府 が単独 で国家問題 を抱 え るのではな く、国家問題 を国民それ ぞれが理解 し、民 間の問題 とす る必要 があ る。*1筆
者の、30代
の華人社会人への聞き取 りによる。(1997年)142¨