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華人企業家 .李 光前から みた 華人アイ デン テイ テイ

ドキュメント内 甲南女子大学学術情報リポジトリ (ページ 60-63)

また、初期か らこの時期 に至るまで、華校 と密接な関係 を持ち、華校 に対 して強大な影 響力を有 していた華人企業家や宗郷会館 自身の意識の変化が、華校ひいては華人社会全体

に与えた影響 も大 きい。

戦後の復興期か ら、シンガポールが自治 。独立を達成するまでのこの時期、華人社会の 指導者 としての地位 を不動のもの としていたのが李光前である。同時期、同 じく華人社会 の指導者 としての力量を有 していた陳嘉庚、連続洲、陳六使等 と異なる点は、、李光前が 英 中の

2言

語 に精通 しているだけではな く、高等教育を受け、学校でも教鞭 を執つたこと があるとい う経歴 を有 している点である。この李光前の教育背景が、彼のアイデンテ イテ

ィに与えた影響は非常に大 きい といえる。

      │

李光前は、

1893年

、 中国福建省南安県に生まれた。父の李国専は郷里での私塾教師、

裁縫業経営者を経て、シンガポールヘ単身赴任 した。幼少時は郷里で母 と生活 を共に して いた李光前は、

8歳

の時に母を亡 くしたことか ら、私塾 に通 うかたわ ら、家計のために放 牧の手伝いを しなが ら苦 しい生活 を送 つた。その後、

10歳

で兄の李玉麟 とともにシンガ ポールに渡 り、平 日は英印学堂にて英語を学び、週末は養正学堂 (崇正学校の前身

)に

華語を学んだ。この時か ら、李光前の勉学が実を結び始めるようになる。

清朝政府が南京に海外華僑子弟のための暫南学堂 (現賢南大学

)を

設立 した際に、成績

の良かつた李光前は、

1909年

に中華総商会の賛助の下、 シンガポール及びマ レーシアか らの第1期生の

1人

として、

2年

間賢南学堂で理数科 を学んだ。そ して、

1911年

に、成 績優秀であつたため、北京の清華高等学堂 (現清華大学

)に

入学、その後、唐山路鉱専門 学堂に編入学 したが、辛亥革命の勃発のために、やむな くシンガポールに戻ることとなつ

‑54‑

た。・

シンガポールに戻 つた李光前は、道南学校及び崇正学校にて教鞭を執 るかたわ ら、シン ガポールで最初の華語紙である『 明報』の通信翻訳員 として働 き、続けて、シンガポール 政府測量局付属測量専門学校 に進み、夜間は米国の大学の通信課程 にて土木工学を学んだ。

このように、

2言

語に通 じ、学業成績 も優秀であつた李光前は、商業界 に入つてか ら、陳 嘉庚の謙益公司に抜擢 され、

2言

語による文書作成及び交渉の業務を任 されるようになつ

た。そ して、

2年

後 にはゴム部門の総経理に昇格する。つ

その後、陳嘉庚の長女陳愛礼 と結婚、1972年 には謙益公司か ら独立 して、南益樹膠 (ゴ

)有

限公司を設立する。南益樹膠有限公司はゴム業以外にも、パイナ ップル農園、製菓 業、印刷業、銀行業 といつた業務 を拡大 し、李光前は、 シンガポール とマ レーシアのゴム 及びパイナ ップル大王 と呼ばれるようになる。李光前は、事業 を拡大する一方で、中華総 商会では、1939年か ら1940年まで、1947年か ら1948年までの

2度

にわたつて会長を務 める等、教育事業や公益事業 にも惜 しみない貢献 を行い、華人社会の指導者 となつていつ た。Ⅲ3

李光前は、陳嘉庚や陳六使等 といつた、同時期の華人社会における指導者 と異なる点は、

独 占的な性格ではな く、常に理性的で、 自らの許容範囲で しか物事を行わない人物であつ た ということである。慈善活動を行 う際 にも、助力する価値があるかどうかを判断 して決 定するというように、けつ して感情だけで動 く人間ではなかつたとい う。Чまた、李光前 は、同郷人意識が濃厚である討派 にあま りこだわ らず、他稲派の華人 とも交流 していたた め、陳嘉庚は李光前を福建会館主席の後継者 として推 さなかつた とい うことが理解で きる。

シンガポール独立後、李光前のような講派を超越 した華人企業家は増加 し、それ と同時 に 強い詰派主義が消滅 してい くこととなる。

李光前は、英語教育を受けてはいたが、幼少時に過 ご した中国に帰属意識を有 していた。

戦前、李光前は他の中国か らの移民 と同様に、中国国籍 を保持 していたことか らも、中国 を自らの故郷をみな し、故郷に父の名である国専 と命名 した国専小学校 を設立する等、故 郷への貢献 も行 つていた。 また、李光前は陳嘉庚か らの影響 も強 く受けてお り、

1934年

に陳嘉庚が会社 をたたんで、中国の虜門大学及び集美学校の設立に着手 し始めると、財政 面での支持 を行 つた。また、 日本の中国侵略をきつかけに、

1937年

に抗 日活動を目的 と

した南僑総会が成立すると、その指導者であつた陳嘉庚 を援助するために、巨額の寄付 を 行 うだけではな く、自らもその運動 に参加 した。李光前はその当時、中国を「我が国」と、

*1 

L徳容「李光前生平紀略」、新加岐南安会館編集委員会『 新加岐南安先賢博』、新加岐 南 安会館 、1998年 、77頁。

*2 

L徳容「 李光前 生平紀略」、新加岐南安会館編集委 員会『 新加城南 安先賢博』、新加岐 南 安会館、1998年、78頁。

*3 

桂貴強「 李光前帰属感 的韓移 」、新加岐 南安会館編集委員会『 新加披南安先 賢博』、新 加岐南安会館 、1998年 、84頁。

*4林

孝勝「 陳六使 的企業世界 」、『 新加岐華社 与華商』、新加岐亜洲研究学会、1995年 、236 頁。

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日本を「敵国」 とい うように位置づけているが、 この時期の李光前の国家アイデ ンテ イテ ィは、明 らかに中国であつたといえる。・

戦後、李光前のナショナル・アイデ ンテ イテ イは、中国か ら離脱 し、現地への帰属意識 に移行 してい く。

1948年

、李光前は、マラヤ聯合邦の華人政党である馬華公会

(MCA)

の指導者で、海峡植民地生まれのタン・チェンロック (陳偵禄

)と

、シンガポール とマラ ヤ華人の政治問題 について英語で討論することが多かつたとい うが、 この点か ら見て も、

彼の関心が中国か ら現地 に移行 してきていることがわかる。中2また、李光前は中華総商会 会長の身分で、「 シンガポール とマレーシアに居住する華人が、現地の政治 と中国の政治 双方に参与 してはいけない。また、華僑が中国の政治に参与することは、華僑の分裂 を招 くだけではな く、華僑の地位 をもお としめて しまうため、華僑は中国の政治か ら身を引 く べ きである。そ して、現地の政治、経済、教育、文化の建設に参加することによつて、事 業 を発展 させ、人類の福利の発展 につなげてい く必要がある」 と、華僑 という語を使用 し

なが らも、華人に対 しては現地化 を勧めている。"

李光前は、上述のように、華人社会に対 して現地化を勧めるだけではな く、講派主義 を 徐 々に排除 してい くように試みた。その試みは、李光前が戦前、中華総商会会長を務めて いた時か ら行われてお り、華人社会の中に長期間に渡つて横たわつていた講派主義を打 ち 破 り、内部選挙において も公平方法にて人材を選出することを主張 し、中華総商会章程の 修正を主張 した。中4

また、1961年に政府 によつて「マ レーシア計画」もが推進され ると、李光前は

70歳

の 高齢であるにもかかわ らず、マ レー人の家庭教師を雇つてマ レー語を勉強 し、マ レー語の ラジオ放送を聴 き続 けた。シンガポール独立後 も、 シンガポール政府の主張する民族平等 政策に賛同 じ、他民族 とも公平に接 し、 シンガポール社会の公益事情に対 して も大 きな貢 献 を行 つた。中

6李

光前が

1967年

に死去 した際に、 リー・クアンユーは「李光前先生は、

我 々が尊敬すべ き人です。これは彼の財富に対 してではな く、私達の社会への大 きな貢献 に対 してです。」と哀悼の意を述べた他、李光前の葬儀 には大雨であつたにもかかわ らず、

*1 

在貴強「 李光前帰属感 的轄移 」、新加岐南安会館編 集委 員会『 新加岐 南安先 賢博』、新 加岐南安会館、 1998年 、84‑85頁 。

*2林

孝勝「 陳六使 的企業 世界 」、『 新加岐華社与華商』、新加岐亜洲研究学会、1995年 、236 頁。

*3 

桂貴強「 李光前帰属感的韓移 」、新加岐南安会館編集委員会『 新加崚南安先賢博』、新 加岐南安会館、 1998年 、84‑85頁 。

*4 

中華総商会 章程 の修 正問題 か ら派生 した帯派論争 は、19ω 年代 にまで続 き、華人社会 か らの注 目を浴び る大 きな事件 とな ってい つた。詳細は、国際時報社編『 新加岐 中華総商 会 帯派論争来龍去脈』、 国際時報社、1969年 を参照 。

*5「

マ レー シア計画」 については第

4章

6節

を参照。

*6 

王 蒼柏「 李 光前 :平凡 的偉 人」、庄 炎林 編『 世界 華 人精英博 略

 

新加 岐 与 馬来 西亜 巻』、百花洲 文芸 出版社、 1995年 、48‑49頁 。

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6,000人 余 りの各民族、各階層の人々が参列 した。・ このことか らも、彼の ことを尊敬 し 慕 う多 くの人物が、講や民族 を超 えて存在 していたとい うことがわかる。

李光前が、

1950年

代 に華人の現地化 を勧めていた時期 に、同 じく華人社会お よび福建 帯の指導者である陳六使、戦前福建帯の多数の学校の董事を務めた李振殿 も、中華総商会 を通 して、シンガポールに居住する華人の公民権取得のために奔走するようになつた。そ して 1958年 6月、中華総商会は、政府のシンガポール居住10年以上のものに公民権を与 えるとい う規定に異議 を発 し、

8年

への短縮 を要求する等、政府 と対等に交渉するに至 り、

22万

人の中国生 まれの華人がシンガポール公民権 を獲得で きるようになつた。つ

。このよ うに、彼 ら華人社会指導者の意識の変化 が、中国国籍保持者のシンガポール公民化をはか り、シンガポール華人の中に現地意識が生まれ、 シンガポール・ナショナル 。アイデ ンテ ィテ ィの形成につながつていつた とい うところが意義深い。

また、 この時期 には、上述のように、華人社会の指導者以外 にも、シンガポールの憲法 制定運動の展開 とともに、多 くの華人、特に海峡植民地生まれの華人が中国政治か らシン ガポール政治に関心を移 していつた。その中でも、上述のように、李光前等の華人企業家 の指導の下、中華総商会 は政府 と社会の間に介在する形で、華人のシンガポールの政治権 益獲得 に介入 していき、民権を獲得 し、選民の登記を推進 し、華文教育 を平等の地位に至 らしめたことは、非常に重要な意味を持つ。このように、中華総商会が組織 として積極的 に公民権取得運動を行つた といつた点か ら、会館組織は、会員に対する福利厚生を行 う組 織 としての性質か ら、シンガポール華人社会全体のための組織 としての性質へ移行 した時 期であるということがで きる。

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